城郭 長谷川博美 基本記録

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古代製鉄遺跡疑義 近江黒田郷の穴伏地名考

2019-12-03 18:26:49 | 古代史
古代製鉄遺跡疑義 近江黒田郷の穴伏地名考
滋賀県近江国には古来二つの黒田郷が存在する。
ひとつは長浜市南部の旧西黒田郷と旧山東町の
東黒田郷である。長浜市布勢町を遠足している
時にふと「穴伏」なる地名看板を見て私は驚
いた記憶がある。鉄穴を寄付する意味が穴伏
なのかとも思ったりしたものだ、とにかく鉄の
伝承を思わせる金太郎の郷の地名は魅力的だ。
とにかくこれは近江国坂田郡の黒田である。
アメノヒボコ伝承では、近江坂田郡の
近江国の吾名邑が旧滋賀県近江町と考えられる。

さて2019/11/30私は余呉町で賎ケ岳合戦勉強
会の講師として招かれ『近江国明細図』寛保2年
9月に製作された1742年(寛保2年)地図のを
資料として提示した。この中に近江国伊香郡の
黒田郷の地図も挿入されていた。伊香郡木ノ本
町だった黒田の小字は「穴師」アナシ、である
黒田北部には広域に踏鞴地名が残ており注目だ。

しかしこの『近江国明細図』寛保2年の伊香郡
黒田郷には「アナセ」と表記されている事には
驚いた。穴師を江戸期に「アナセ」と誤記した
と考えられない私は坂田郡布勢の穴伏地名に
類似した発音表記「アナブシ」に音韻が近いと
私は考えたのだ。近江国吾名邑が坂田郡近江町
だと仮定すると伊香郡には穴地名があるのか?
それは滋賀県長浜市高月町東高田に存在する
小字名「穴津」である。東高田は旧伊香郡に
所属する、内陸部で一般常識から考えて津地名
がないと思われるが貴重な「穴津」古地名だ。
旧近江町の内陸部にも舟崎の地名が残っている。
坂田郡のふせは布勢の文字が用いられ。伊香郡
は布施姓が多いのも特徴である【延喜式神名帳】
では布勢立石神社近江国伊香郡鎮座 が記されて
いる。現在近江国伊香郡赤尾に鎮座している。
【現社名】布勢立石神社
【住所】滋賀県長浜市木之本町赤尾793
ここで長浜坂田郡の布勢地名と伊香郡赤尾の
延喜式内社の社名が同じ「布勢」である事に
留意しておきたい。


長浜市 高田地名の「津」 と名士、川田幸夫さん。

過日米原市内や長浜市内を散歩していると見知らぬ
女性に長谷川先生と呼ばれて驚いた。無名の私を
長谷川先生と呼ぶ人は世の中には絶対に今は存在
しないはずだ!

数年前の事である。私と城址見学したい人など滋賀県
内には皆無だった。その現実は2019年の現在でも全く
変わらない状態にある。

それは私のブログを見ても明確にわかる。小説『轟陣兵』
や劇画で明智や秀吉の登場する劇画『元亀の騒乱』や連続
して楽しく掲載し掲載した『剣熊考』が高い人気を誇って
いるのに、私の城址記事に関しては全く読者が皆無である
事だ!私には城郭を語る資格は元来全く無いのだろう!

ところがあるとき長浜市高月で川田幸夫さんに偶然遭遇し
て5人もの城址見学仲間を引連れている立派な人物に感化
された。私は0人なのに川田さんは5名も仲間がおられて
本当にうらやましい限りだ。聞けば川田様は彦根工業高校
の学生時代に歴史地理部略して「地歴部」を創設し佐和山
城の見学などを実施された人物である。川田さんの人品や
品位や人望は真に立派なものだった。私は人気が極端にない
講師で常にヘコンデ落胆している。見学会を開いても人が
1人も集まらない現実が常に長年続き悩みに悩んでいるのだ。
私はあるとき突然発想の転換をした。川田さんこそが見学会
の中心であると。私は川田さんの家に連続して推参し会長を
御願いした。城郭見学組織とは何と言っても講師の優劣では
なくて会長の人徳にある。川田さんの人徳と光彩が,全く人気
ゼロの私を擁護し会員の融和や親睦を促進していたのだ。
今「城歩会」へとリハビリや療養に専念されている川田さんに
出馬を願う事は人間として常識はずれで私は苦渋を感じている。
もう『城歩会』には未来がないであろう。私が単独で見学会
など開いても誰が集まるか?ねこ一匹も参集されないのが現実だ。

◆名士川田さんの示唆
 私には人徳人気が全くない事は良く理解している。川田さんは
常々高田地名に着眼されていた私はその眼力や思考法や人徳には
一目を置いて尊敬していた。

2019年私は余呉川と赤川が合流する地点にひとり淋しく散歩し
東高田に「穴津」地名を発見して深い意味で仰天した。長浜市
の布勢で穴伏の地名看板を見て私は仰天した。

2019年梅雨あけて夏が到来し私は長浜市街の南高田の地名を
見て再度仰天した。南高田は現在琵琶湖から離れた内陸だが
やはり「津」地名があるのだ。「穴津」地名なのた゛。



さてさて東高田に「穴津」地名を発見し当方のブログ読んで
おられる多数の方々には読者が多いと私は推測しております。
地図を調べるとあの幻の「穴津」地名は、やはりあるのです。

地図に登場している。高田大橋も現地に存在します。

赤川の文字も見えます。★付け加えるならば赤尾地名や
赤川川名に並んで「赤」の小字地名が伊香郡唐川に存在
する事も私には驚くべき事なのです。

現地穴津地名のある東高田の赤川のようす。写真の川の右が「穴津」

長浜市高月町東高田地先 延喜式内社の甘櫟前神社
イチヒサキノ神社もあり大変古い歴史を誇る集落だ。
          ↓


◆さてこの「穴津」の地名が何故すごいのか?歴史通の人
なら即刻解ると思います。
先ず記紀伝説に三度登場する近江の伝説の宮、「高穴穂]
「たかあなほ」大津市穴太

次に石垣の大津市「穴太」(あのう)
律令の時代に穴太駅が置かれ、駅馬五疋と記録がある。
近くには200基以上の後期古墳群が存在し韓人系渡来人
の穴太村主「あのうのすぐり」が居住していたとされる穴太。

次に
「和名抄」には「坂田郡阿那郷」の項に「近江国吾名邑」
と記されている事。つまり現在の米原市でアメヒボコが
一時住んだ場所かと言われる。地名前述の長浜南部つまり
坂田郡の「穴伏」地名も非常に合わせて重要であろう!

★『日本書記』には
天日槍自菟道河泝之 北入近江國吾名邑而暫住
 復更自近江 經若狹國 西到但馬國則定住處也 
 是以近江國鏡村谷陶人則天日槍之從人也 故天日
 槍娶但馬出嶋人 太耳女麻多烏生但馬諸助也 
 諸助生但馬日楢杵 日楢杵生清彦 清彦生田道間守也
 とある。
国道8号線の米原市高溝近辺には以下のような看板
が見受けられる。



 
次に
賀県草津市穴村町。  
安羅(ヤスラ)神社がある。   
次に
滋賀県蒲生郡竜王町。 
苗村(ナムラ)神社がある。
   
次に
近江伊香郡黒田村の小字には「穴師」がある。
江戸時代の呼び名は『近江国明細図』には
「アナセ」表記されている。

そして近江伊香郡東高田に「穴津」地名が地図
で確認できる事は歴史研究上、非常に重要な事!


 さて『地名考』や小説『轟陣兵』『剣熊考』や
『信長公記』に関連する劇画『元亀の騒乱』など
は非常に好評なのに以下の様な城郭図を用いた現地
城址見学はカラッキシ人が一人も集まらずサッパリ
※ワヤと言うのが私の今の現実と言うところです。
やはり川田幸夫会長の偉大な人徳だったと言えます。
※「散々と言う意味」
長谷川
自分は人気を集める思いやりや配慮も欠けた人間
だと日々を暗い気持ちで送っております。
そんな人気ゼロのどん底状態なのに2019/11/30に
有志各位が余呉にわざわざ御参集された事は会員様
各位の人徳和の賜物です。本当に感謝を致します。


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