城郭 長谷川博美 基本記録

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令和5年 巨大城郭遺跡 越前金ケ崎城 天筒山城見学会

2023-07-13 18:50:48 | 自己紹介

令和5年 巨大城郭遺跡 越前金ケ崎城 天筒山城見学会

▼過去の写真です。

◆対談者

いよいよ令和5年7月15日の

金ヶ崎天筒山城の見学会が

迫ってまいりました。その

堅固な臨海要塞は日本屈指

とも言われる史跡名勝です。

 

◆質問者

南北長期の合戦とは?

 

ウイッキペデイア引用

南北朝時代[編集]

1336年延元元年/建武3年10月13日足利尊氏

入京により恒良親王尊良親王を奉じて北陸落ち

した新田義貞が入城、直後、足利方の越前守護

斯波高経らの軍勢に包囲され兵糧攻めにされる。

1337年(延元2年/建武4年2月5日)、義貞らは、

闇夜に密かに脱出し、杣山城福井県南条郡南越前町

で体勢を立て直す。2月16日、義貞は金ヶ崎城を救援

しようとするも敦賀郡樫曲付近で足利方に阻まれる

3月3日、足利方が城内に攻め込み、兵糧攻めによる

飢餓と疲労で城兵は次々と討ち取られる。尊良親王

新田義顕(義貞嫡男)、城兵300名は城に火を放ち自害

、恒良親王は捕縛され、3月6日、落城する。

1338年(延元3年/暦応元年)4月(旧暦)には越前の軍事的

主導権を握った義貞に奪還されるが、その後、足利方の越前

平定により、越前守護代甲斐氏の一族が守備、敦賀城と称した。

 

◆長谷川

一の木戸 二の木戸 三の木戸

月見御殿跡などの知名が現地に

残ります。

 

▼二の木戸 戦国期の大堀切

 

ウイッキペデイア引用

室町時代[編集]

1459年長禄3年5月13日)、守護斯波氏と守護代甲斐氏の対立

が深まり(やがて長禄合戦に発展)、古河公方足利成氏征討の

幕命を受けた斯波義敏は兵を引き返して金ヶ崎城を攻撃するも

、甲斐方の守りは堅く、義敏方は大敗した。この戦いは8代

将軍足利義政の怒りを買い義敏は失脚した。

 

◆質問者

近江横山城の様な二重堀切の遺構

が現地に残りますか?

 

◆長谷川

▼圧倒的スゴイ迫力で残ってます。

◆長谷川

連続竪堀も残っています。これも見所

◆長谷川

長い竪堀も現地に残ります。写真ポイント

戦国時代[編集]

朝倉氏が越前を掌握した後は朝倉氏一族の敦賀郡司がここを守護

していた。 1570年元亀元年4月26日)、援軍が遅れたため、郡司

朝倉景恒織田信長に対し開城する。しかし、浅井長政が離反して

近江海津に進出し挟撃戦になったた

め、信長は木下藤吉郎(豊臣秀吉)らに殿(しんがり)を任せ、

近江朽木越えで京に撤退する(金ヶ崎の戦い)。

 

天筒山城[編集]

天筒山城(てづつやまじょう)は、金ヶ崎城の枝城で標高約171mの天筒山に構築された山城である。金ヶ崎城とは稜線伝いに繋がっている。

元亀元年4月25日、織田軍(10万人)に攻め込まれ、双方数千の戦死者が出る戦いとなったが陥落し、朝倉景恒は金ヶ崎城に陣を引くことになった。

現在は公園化されており、曲輪、櫓台跡などが残る。

 

▼金ケ崎 連続竪堀

▼金ヶ崎 大堀切

▼金ヶ崎 竪堀遺構

 

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