城郭 長谷川博美 基本記録

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福井 大正の戦艦大和か! 天正の城郭玄蕃尾城か!

2021-07-18 18:58:52 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、
福井 大正の戦艦大和か! 天正の城郭玄蕃尾城か!
注目 城郭ビイスタ論 文字クリック

◆参加者
令和3年5月19日城郭フオーラム玄蕃尾城
見学会が開催され前川社長は意図的に雨季
の季節を選び玄蕃尾城の見学日を設定され
ている事に驚きました。また長谷川先生は
玄蕃尾城は実際の暦では6月10日の賤ヶ岳
合戦の頃の城だと言われ玄蕃尾城が降雨を
考慮して雨落溝を観察し排水の配慮が城が
なされてる事を現地で力説されてました。
私は正直に言って長谷川先生の解説は城の
解説からは的ハズレだと心の中では失笑し
ておりました。令和3年伊豆山で激烈な土石
流の画像を見て初めて「切り土」や「盛土」
の用語を知り、今頃になり玄蕃尾城の工事
の規模の大きさや講師長谷川先生の解説に
含まれている含蓄の深さを痛感しています。
天正の昔「帰雲城」と言う城は一瞬に土砂
崩れで消えています。玄蕃尾城の排水には
本当は見落としてはならない重要考察点で
した。





◆長谷川
さて柴田勝家とはどの様な人物だったのでし
ようか?玄蕃尾城をみる限り真面目で誠実な
織田軍団の北陸方面総指揮官であったと思い
ます。秀吉より速く越前で検地や刀狩を越前
で実施し民事民政に従事した優れた民政家の
側面もあります。越前北庄に訪れた宣教師達
に布教を許可し織田氏「お市の方」は最期ま
で勝家に従い賤ヶ岳合戦では山路正国が勝家
方に復帰するなど敗者の歴史は語られていま
せん。玄蕃尾城は武人柴田権六朗勝家の性格
や生き様を現代に生々しく伝えてくれる城跡

◆初余呉探訪者様
はじめて滋賀県長浜市余呉町を訪門者です。
長谷川博美先生の御城印に使われている城
の鳥瞰図が非常に学術性が高いとある有識
者様からお聞きして全て一括そろえて一組
セットとして是非購入したいと思ってます?

◆長谷川
ロハス長浜の社長前川様に確認しました所
滋賀県長浜市余呉町中之郷ウッデイパル様
で販売されていると言う確実な情報が入っ
ています。余呉は風光明媚な景観こそあり
ますが人口5000人代から2000人代へ衰微
して過疎化して全国に発信できる戦国城郭
遺跡が賤ヶ岳合戦城塞群と言う訳でどうぞ
皆様謹んで郷土余呉の城郭群を宜しく御願
申上げます。私のイラストを高く評価する
とい言われている人は織豊系陣城を研究さ
れている有識者の方かと推測申上げます。

◆常連様
今回玄蕃尾城とは別の陣も見学されますか?

◆長谷川
勿論です。搦め手陣跡も玄蕃尾城と併せて
見学します。図面も既に作りました。今後
その陣を見学する予定や機会は無いでしょ
う。私の見学会は一期一会一回づつ異なり
ます。勿論玄蕃尾城も確実に見学致します。
普段の見学より楽な見学ルートを使う予定
です。当日一番櫓「天守」二番櫓「本丸
北西隅櫓、三番櫓「北郭西端櫓」四番櫓
「出櫓」の縄張図面付属致します。4櫓の
面積や同一縮尺図面も今回のみ付属します。
この度田畑さんと発見しました4番櫓台も
併せて見学する予定です。この櫓台も城郭
ビイスタ理論を応用し新発見しております。
皆様とともに是非見学したいと思います。
宜しく協力を御願いを致します。ちなみに
城の外に作られた単体櫓は出櫓外櫓に相当。



◆常連人 
流石は城郭ビイスタ論で話題沸騰の長谷川
先生だけの事はあります。まるでゴルゴ13
の射撃の様に的確に遺跡を発見されるスゴ
腕には非凡な才能やキレさえ感じさせます!
研究家や学者とは元来、新規発見して新規
研究する人が研究家で学者と私は思います。

◆反論者
そんなくだらない矢倉台見て何が楽しいですか?

◆長谷川
中世戦国には携帯がありません。その物見櫓から
近江の前線か視認できる事。敵味方の状勢を見る
事が出来る見張台は非常に城郭にとり非常に重要
なのです。城の目の役割をしています6月17日こ
の矢倉台を計測しに行きましたすると2m70㎝角
で出来ている事が解った『築城記』には小矢倉は
9尺角と書いてある詰り2m70㎝の事なのですよ!
此れを見なければ城を見ないのと同じ事になる。

◆読者の声
私玄蕃尾城に既に何度も行っているんですが
長谷川先生の玄蕃尾城天守台雨落ち溝の画像
を見て衝撃を受けました。私玄蕃尾城何度も
行っているのです本当は城を見る気が弱いと
気付き、また賤ヶ岳合戦が現代暦で言う6月
の10日に相当する事を知り秀吉が東海三川
雨の増水で大垣に滞留した事を改めて認識
致しました。私は主婦業なのでいつもの如
く流し台の水を見ているとチヤンと傾斜が
計算され水が穴に流れて行く、また御風呂
の水槽を洗って水抜きするとチヤンと計算
された傾斜により排水穴から排水溝へ流れ
落ちるシステムが確立されている事を私は

今更ながら悟った訳なんです!これだわと!
そうか!玄蕃尾城は真っ平に平地が作られ
ている訳じやない梅雨時の長陣でも将兵の
足元の水回りの処理も考え併せて築城して
るんじやないかと今更ながらヒラメいた訳。

◆長谷川
私の謎かけヒントを看破しましたね!大形
工場で不良品の原因に気付くのは社長や
専務や工場長や課長や係長ではなく不良
の根本原因に気付き報告されるのは現場
の女性検査員である事例が日本のQCで
す。クオリテイコントロールの世界です!
誰が一番会社や製品の危機に気付くのか?
城址も気付く事の根本は民が主役ですね!

◆長谷川
玄蕃尾城は充分に排水構造にも留意して築城
工事されている事は玄蕃尾城見学会の醍醐味
でもあります。だから雨季の玄蕃尾城見学に
日時を前々から6月に故意に設定した訳で実は
思慮に思慮を重ねた上で観光行楽視点に立つ
たものではない現地城郭見学の深淵や深さを
会得し知って頂くための深謀遠慮策!玄蕃
尾城随所に水回りの処理を考慮して曲輪内の
傾斜を計算し尽くしている事は誰もが解る事。
皆が気付く事を解説する事が長谷川の役目で
当たり前の事に気付く城郭見学の基本です!
水とは柔軟でその形は方円自在に従います!


◆質問者
6月19日見学される玄蕃尾城は本当に巨大
な城でしょうか?過大な表現なのですか?


◆対談者
こんな大きな城ありえない。それも敗軍の将
の城で賤ヶ岳合戦の城と言われてもテレビや
ドラマで取り上げられる事も少ない城ですね。

◆長谷川
★世間の常識=固定概念とは何か?
賤ヶ岳の戦いに勝利した秀吉の城「賤ヶ岳城」
よりも敗北した柴田勝家方玄蕃尾城が何倍も大
きい!巨大な城であろうはずが絶対にないと決
めつけたり有り得ないと言う軽率な現実を無視
した発想や言葉に注意喚起を致します!固定概
念や思い込みは学門の基本の阻害有り得ないは
実証に重きを置かない空虚な空論で現場が大事。

★★宣教師が残した記録
当時の安土の町が人口5千人柴田勝家北庄城
の町が2万人しかも柴田は秀吉より早く越前
て゛刀狩を実施し刀を鋤鍬「すきくわ」へ農
具に代替します。これら越前の人員を総動員
すれば安土城や長浜城に劣らない巨大城郭の
玄蕃尾跡は現実に現存してる事実現実がある。

しかし柴田勝家が2万の動員をかけて築城し
ても柴田と共に秀吉に対抗する2万の戦闘員
が居た訳ではない。敗戦後北庄城へ逃げ帰っ
た柴田軍の籠城兵員は本丸に300人や天守に
80人が籠城したと言う記録があり当然柴田は
最期の防戦籠城をして落城し滅亡致しました。



◆対談者
長谷川先生の『信長公記』解説は記紀「古事
記と日本書紀」なども比較されて語られ大変
好評だったと言う事ですが?

◆長谷川
例えば『日本書紀』(720年)舒明一一年
一二月(寛文版訓)「是の月に、百済川の
側(ほとり)に九重(ココノコシ)の塔を建つ」
などの文言には大変心惹かれますよね!?
日本が百済川の畔「ほとり」にどんな高層
楼閣を建立したのか興味深々なのです。

◆対談者
九重(ココノコシ)の塔で連想される日本の
城郭とは?

◆長谷川
それは勿論九頭竜川と足羽川に近い場所に
織田信長が自ら縄張して天正3年(1575年)
に越の国の北庄城を築城させた事ですね!
『信長公記』にこの件記されております。

◆対談者
柴田勝家とお市の方が炎の中に消えて天正
11年に落城した北庄城とはどの様な天守が?

◆長谷川
詳しく解っていません。
『柴田合戦記』には(信長亡き後、羽柴秀吉軍は)
終に甲ノ丸に攻め詰める。丸の内には大石を以て
磊(らい)を積み上ぐ、其の墻(かき)数仭(じん)なり。
晋の平公造るところの九層台に比して、天守九重
に上げ、石の柱を鉄の扉重々に構へ、精兵三百余
楯(たて)籠り、これを防ぐ。城内閑地なく、五歩
に一楼、十歩に一閣、廊下斜に連なり、天守高く
聳(そび)ゆ。と記されていますが事実かは不明で
す。この柴田勝家の天守台は現在残されてはいま
せん。柴田勝家の最期の戦跡を知る方法としては
令和3年6月17日の柴田勝家の玄蕃尾城見学会へと
是非お越し下さい。私が講師として現地城郭遺跡
を御案内致します。玄蕃尾城天守(大矢倉)がどの
様な高層楼閣構造を持っていたかは令和の現代に
は全く解りませか゚天守台には礎石も存在しますし
当日の参加者が各自様々な櫓のイメージを各自で
描いてみるのも玄蕃尾城現地見学の見学ポイント!
▼玄蕃尾城 天守台 令和3年の現状
▼現地遺構の礎石から柱を想定してみる。

▼玄蕃尾城 天守跡図 長谷川博美写真と図解
▲井楼形式の物見櫓だったのか?
▼古来楼閣は楼閣を守る外壁「外壁の内側に建つ」
▲結城合戦絵詞に登場する外壁と楼閣「国会図書館画像」
▼長篠城の建物も外塀の内側に建立されている。
『江戸城屏風図』には遠景として武蔵川越城
が描かれているが、この城は石垣なく白壁の
土塀でもない中世城郭の様相が残存している
事をよく伝えている特に注目すべきは二ノ丸
の塀の内側に高く上げられた櫓の様子に注目

逆井城の復元井楼櫓 塀の内側に建てられている。


玄蕃尾も
当日参加者が各自様々な櫓のイメージを各自で
描く事も玄蕃尾城天守台現地見学の楽しみです。

◆反論者
そんな馬鹿な!玄蕃尾城天守「矢倉」が土塁の内
側に建てられていたら屋根から土塁の間に落ちる
雨をどう処理したら処理できるんですか?排水を
何処にすれば良いのですか!?梅雨の時期は困る。

◆長谷川
見学会当日は玄蕃尾城址とは傘を差しても見学で
きる城なんです。城址見学って晴天好日だと決め
付けないで下さい。よくよく玄蕃尾城の天守の北
にある雨落ち溝に注目する事ですよ!なんじゃ雨
かいと発想しない事!見学当日天守台に皆さんが
到着してこの雨落ち溝に雨水がかすかに溜まって
自らの手で触れて見る事です!そしたらそうか?
天守は土塁の中に建てられていて雨落ち溝と排水
が用意がされた事を体験学習出来て見学が大成功!

実際の賤ヶ岳合戦は現代の暦に直すと秀吉は翌4月
17日(★6月7日)美濃に進軍するも降雨で揖斐川
の氾濫して大垣城に入った。4月19日と4月20日と
(★6月10日)、賤ヶ岳砦の戦いの本戦!これは
一体何時の季節ですが★が実際現代の暦と同じで
関西は梅雨入りしてる季節なんです!これ重要!

◆質問者
柴田軍の賤ケ岳包囲陣形は東の大岩山城岩崎山城の
陥落落城にまで及んだだが柴田軍は琵琶湖側西にも
布陣して塩津方面の丹羽軍にも備えて賤ケ岳包囲し
た形跡があるか?

◆長谷川
 飯之浦から塩津に至る間道「地獄超え」には下図
の如き布陣遺構が見られる。特に銃座遺構は玄蕃尾
城、文室山陣、大平良陣など北国柴田軍が進軍して
きた経路の山尾根に多数残っている。また穴は樹木
倒壊、風倒木土坑ではなく山道の通行の経路の要所
に設定されている。鉄砲の火薬や火縄は風雨や風に
弱く半地下の土中からの射撃が理想的ともいえる。
穴に天蓋「仮屋根」があれば「水気」も防ぎ敵弾を
防ぐ臨時陣地になり有効な射撃が出来る。6月17日
の玄蕃尾城にもこの銃座が玄蕃尾城の城外刀禰坂に
ありますから是も見学致しましょう。
▼不思議な遺構があるが炭窯施設とは関係がない
▼銃撃手を数名並べた銃座の可能性がある。

◆長谷川
鉄砲4丁の記述は有名な信長狙撃事件にも

山科言継『言継卿記』言継=「ときつぐ」
(「言継卿記」元亀元年五月廿二日の条)

織田弾正忠こうづはたにて、銕放四丁にて
自山中射之云々、但不當、笠之柄打折之云々

▼6月梅雨期ならば鉄砲の火薬が湿る雨は禁物
また簡易な当時の宿陣用のテント「天蓋」は
『我屈の胴』として武教全書に紹介されてる。


◆長谷川
余談ですが『精選版 日本国語
大辞典』には「きゅうそう【九層】 の 台(うてな
)は累土(るいど)より起(お)こる(九階の高層建築も
最初はわずかの土を積みあげることから始まるの
意で、「老子‐六四」の「合抱之木、生二於毫末一、
九層之台、起二於累土一、千里之行、始二於足下一」
から) 小さな物の積み重ねが、結局は大をなすこと
のたとえにいう。塵も積もれば山となる。」とあり
城郭遺跡見学の基本も土塁や土台の見学が基本です。

城郭ビイスタ論 上文字クリック


◆講師 長谷川博美 略歴
幼少時より敦賀を余呉から何度も訪れて
自分のイントネーシヨンは福井嶺南方面
や若狭言葉に近いニュアンスで普段話し
ます。敦賀ヨーロッパ軒とか敦賀ラーメン
や気比大社や金ヶ崎や金山自動車学校と
か越前武生から鎌等の刃物を販売に来る
方々そして福井県から行商に来るヘシコ
売りのおばさん。夏は敦賀松原海水浴場
とか赤崎水泳場に行くとか若狭水晶浜へ
行くとか三方五湖に行くとか敦賀トンネル
温泉とか三方の観音さんとか家も曹洞宗
禅宗で永平寺に行くとか近所に住む人は
越前白山町から来られたとか越前若狭に
近い環境に育ちました。ですから自分は
江越の人間「越前と近江」という感覚で
す。時に気比史学と言う本を読んだりと
自分の精神性とかアイデンテイティとは
完全に北陸型人間なんですが私の城見学
に集合される人は東海地方、近畿圏の人
中心と言う事で私として嶺南型人間とし
てはとても極めて淋しい限りなのですね。
私としては長年敦賀の文化に親しだ嶺南
型人間で(みね・さをり=元宝塚歌劇団
星組トップスターとか安田蒲鉾とか阪神
の辻捕手とか役者は大和田兄弟とか高校
野球なら敦賀気比を応援するとか山と言
えば野坂山とか今庄そばとかの世界の人。
敦賀から京都大学の東洋史学の開祖とな
った桑原 隲蔵「じつぞう」とかの世界!

福井県 玄蕃尾城の7大特徴!
①近畿東海よりも圧倒的に北陸に近い事
②特に福井県嶺南部に属している事
③城の面積の60%は滋賀県長浜市に属す事
④続日本名城100選に選定されている城
⑤国指定遺跡の立派で巨大に山城である事
⑥以前は一般に内中尾山城と呼ばれていた事
⑦土塁が高く堀深々と掘られた本格城郭である事

▼1981年6月25日長谷川青年「著者」投稿より
※内中尾山城=現在の行政名称「玄蕃尾城」

★来る令和3年6月19日玄蕃尾城見学会
▼玄蕃尾城 大門跡

◆加藤様「匿名/尾張人」

尾張名古屋城のルーツ系譜や根源一つとは
一体どの城にあるのですか?長谷川先生は
尾張名古屋城にもう一つ小天守が建立され
る予定であった事を御存知ですか?
長谷川博美 城郭鳥瞰図

◆長谷川
 承知しております。Bの大天守から更に
下四角赤枠が更なる小天守を建設する予定
だった事ですね!大変不思議な事に越前と
近江の国境にある柴田勝家の玄蕃尾城天守
台にも実はイラストの北穴虎口痕跡が今も
玄蕃尾城に残っている。今度6月19日見学
会で現地解説します。ですから名古屋城は
尾張人の城なんですが玄蕃城も元織田の信
勝家老柴田勝家が築城した壮大な尾張人の
城と言うことになり佐久間政実も築城には
参加関与しています。藤堂高虎も参加する。

◆質問者
天正大坂城天守には付櫓状の部位が図面で
解りますが玄蕃尾城にも付け櫓状は有る?

◆長谷川
存在します6月19日に見学会で解説する。



▼玄蕃尾城 天守台令和3年の現状
◆質門者
この玄蕃尾城天守の形状つまり当時の姿とは?

◆長谷川
まず室町時代の文献『築城記』の学習会を
ウッデイパル余呉さんでさせて貰いました。
それに櫓「矢倉」は塀の内側に建てるとか
書かれていました。この記述を僕は忘れな
いで下さいと参加者様に御願いしましたね?
長篠城の建物も塀の内側に建てていますね?

玄蕃尾城に何回も見学に行っても天守台外
に土塁がある事を確認しましょうと私が必
死で解説しても聞いておられないのが現実
です。本当城郭遺跡を学びたいと言う人な
ら玄蕃尾天守台外壁を見て手足がワナワナ
と震えるほどに学門的に興奮し弁当の食事
が喉を通らないとおっしゃるのが城址見学!

◆対談者
長谷川先生の解説は本物の城郭研究家の解説
なのです。人気だけの客寄せパンダ人と違う
人気商売とは全く関係ない世界の研究家先生。


◆長谷川
私は人気が全くゼロと言う厳しい現実証明で
今、社会に求められる事は学門でなく客商売の
客寄パンダ!6月19日の見学会に果たして5人
参加される人が現実にあるのか?見学者が5人
参加されてもその希少な5人を他の城郭関係の
会にチラシや名刺攻勢の勧誘員が訪れたらば
寒村余呉町の賤ヶ岳城郭フオーラム即刻消滅。
近江公民館で活動させて頂いていた『城歩会』
もスパイが来たとデマが会の中に飛び消滅へ!
まあ世の中に本当に本気で城址見学する人は
本当はゼロなんです!かといって私は現実とし
ては月5万のアルバイトを探しても全く就職先
がないので毎月毎月しがない職安通いが12年間
続いております。汲めども汲めども行けども行
けども職がなく安息の地がなくい辛い毎日です。


◆長谷川
 さて玄蕃尾城南北の角馬出も名古屋城の縄
張に影響及ぼしています。名古屋城では各所
に喰い違い虎口が存在しますが玄蕃尾城にも
存在致します。本丸の隅に天守を置く事も両
城の共通とも言えます。名古屋城には不思議
な形状の横郭Cが存在しますが玄蕃尾城に横
郭が存在します。また名古屋城小天守は喰い
違いの郭の縄張を採用していますが玄蕃尾城
でも喰い違いの曲輪を採用しております。
これは『余呉庄合戦覚書下』で以下の様
に柴田勝家の柳ケ瀬の城を表現している。




▼玄蕃尾城おどろくべき巨体!

◆中村様「仮名/尾張人」
でも長谷川先生って名古屋市内でも講演を
された事ありません、全く無名の先生です。

◆長谷川
名古屋緑区の衣の民俗資料館さまで尾張人
柴田勝家の玄蕃尾城の講演をさせて貰った
経験もあり70名様ほど御来客もありました。
 NHK名古屋文化センターでは毎月一度
『信長公記』に連続講座を4年間させて貰
いましたシャトーコンフエルジュと言う城
を案内するバスツアー講師も担当させて貰
つた時期もあります。研究家としの履歴は
もう随分と長くなります。

◆中村さん「匿名」
長谷川先生は東海では城郭縄張図の超技巧派
として知る人ぞ知る本格派。その秘儀は超絶
とか縄張の魔術師とも世間で本格派の人々か
ら言われています。玄蕃尾城に「くいちがい」
の曲輪があるならば天正11年4月17日に峯城は
開城するが峯城で柴田方滝川方として活躍した
名だたる名将や武将とは?

◆長谷川
 それは峯城の戦線においては滝川益氏
滝川一益の一族で通称、儀太夫がピカ1の
人傑でしょう城の作り方、築城防戦方法
も柴田方伊勢方面の峯城では天正11年期
の抜群の技巧と武将として技量のある人
で柴田滝川派の第一線武将と言える人傑!
喰い違い技巧、外桝形、内桝形その奥に
天守台と見事なセオリー通り柴田滝川方
の典型的築城術を駆使している事や土塁
線の繊細横矢配置連続竪堀の見事な配列
どれをとっても玄人好みの良い仕事の人

◆長谷川
どう見てもこの北城は城内戦も城外戦も可能
な様に著しく軍事に精通した人物の城ですね。

◆長谷川
6月19日見学する柴田勝家の玄蕃尾城もビイスタ工法
を採用して縄張りしてますがどうして滝川義太夫も!
城郭ビイスタ論 上文字クリック
▼玄蕃尾城 横堀 人間が小さく見える




◆みんな
すげえ!長谷川先生峯城へ是非行きたいです!


◆対談者
何を今頃寝ぼけた事を言ってるのですか?
そんなの2014年の12月に講師長谷川先生
で峯城の一大見学会が開催されているの
よ!2014年に私が是非峯城を勉強してお
くと玄蕃尾城見学に役立つと必死に呼び
かけたのに「みんな」知らん顔していた。

◆長谷川
そうなんですよ!城郭遺跡見学会の本質は
どの様に素晴らしい講師や先生が存在した
とて見学会の趣旨が観光か?城郭遺跡見学
か?を方向づける先導役の「会長」の力量
に関わってくる現在米原『城歩会』に会長
も幹事も世話役も存在しない弱小組織です。

◆対談者
 見学組織とは一度スパイの様な他会から
勧誘員や諜報員が送り込まれてたら忽ち弱
小城郭見学組織と言うのは脆くも即刻崩壊
するし参加人名簿を盗撮したり個人情報を
盗み取ろうとする人は日常茶飯事の様にい
る。そんな事された城郭遺跡見学組織は崩
壊する現代城郭を訪れる「城郭探訪」が主
流となってる時に長谷川先生の様な遺跡測
量や見学を根幹基盤とするオーソドクッス
な正統派の城郭遺跡見学を、私個人は望ん
でいる訳です。曲輪を全て完璧に見学希望!

◆一般様
第二次世界大戦で日本海軍が秘密裏に建造
した戦艦大和は軍事機密であり当時の日本
国民にその存在を知らされなかった当時は
瀬戸内海を行く大和の巨大な船体を見て山
の様な戦艦の姿を見たと、卒倒して仲間に
話したら誰も大和の存在を信じてくれなか
たと言われております。戦艦大和の異様な
巨体を実際に見て見たいと感じる日本人は
今もいる私は思いますが?戦争遺跡の悲惨
も平和社会に生きる人々は認識すべき事と

◆城見学の人
聞くところによりますと先週見学した秀吉の
築城した賤ヶ岳城の城壁を実際に見学しまし
たが私は初めて賤ヶ岳の城跡を見て感動した
者ですが、柴田勝家の玄蕃尾城はこの賤ヶ岳
城の七倍もあるまるで天正の戦艦大和とも言
える規模壮大な城址だと聞いて強い興味を感
じております。絶対玄蕃尾城この目で見たい!


◆長谷川
人間とは時代が変われど似た事を繰り返す
動物です。大正の昔に起工した世界最大の
巨砲と船体を有した戦艦大和の砲頭の配置
は初期大和の場合、以下の様な状況でした。
その全長263mにも及び世界最大級の戦艦。
玄蕃尾城も南北約270mにも及ぶ超弩級の
国指定城郭遺跡です。天正の巨艦大和とも
非業の最期を遂げて沈没したタイタニック
号にも匹敵する壮絶な迫力を伴う名城の中
の名城と言って過言はないでしよう。ある
賤ヶ岳ハイキングの人が玄蕃尾城は敗者の
柴田の城だから小さな城だと思って登山し
たら想像を絶する玄蕃尾城の巨体に圧倒さ
れ衝撃を受けて余りにも巨大な規模に驚い
て玄蕃尾城で昼食に用意したハイキング用
の食事が興奮して喉を通らずワナワナ手足
が震えたとおっしやる人さえおられる壮絶
完璧な天正11年の昔を生々しく現代にまで
伝える圧倒的な城跡です。何でも長浜市内
の人が人づて聞き玄蕃尾城を見学し仰天さ
たと!この玄蕃尾城も長浜市の貴重な文化
遺産でその面積の60%は滋賀県長浜市です。
戦艦は戦う為のバトルシップだが砲術指揮
をする為に相手艦船との距離を計測する為
の測距機と言う望遠鏡が船体の前部と後部
に備えられています。前部艦橋と呼ばれる
塔と後部艦橋と呼ばれる塔つまり城ならば
大天守小天守に相当する指揮所が存在する。


大正の当時の戦艦大和は超弩級戦艦として凡そ
上記の如く大砲が要所に配置、配列されました。


簡単に解説
するならば
艦橋を中心にー前部副砲ー第二砲頭ー第一砲頭
右舷に右舷副砲
左舷に左舷副砲
艦橋後部に後部副砲ー第三砲頭と配置しています。

玄蕃尾城を
この大正期大和と戦国山城に、なぞらえるならば
本陣ー前備ー二陣「中陣」-先陣
本陣ー後備ー殿軍「しんがり」と言う配置です。
くしくも戦艦大和と玄蕃尾城とを同一スケールで
表現するならば如何に玄蕃尾城が巨大か解ります。




1583年天正11年 柴田勝家は羽柴秀吉との決戦に
備えて、玄蕃尾城を長浜市余呉町に超弩級戦艦の
如く築城した。柴田勝家は不敗の城を目指した!

▼玄蕃尾城本丸 大門の跡 巨大過ぎて人が小さい!





◆人間の普遍思想
大正と天正は年号や時代は変われど
日本海軍は世界に誇る世界最大の超弩級戦艦
大和を建造致しました。その艦船構造つまり
陣形も典型的な日本の戦陣における理想形の
形状の影響を強く受けています。第二次世界
大戦で多くの尊い生命の犠牲者が水中に没し
ました戦争は人間が起こす、愚行の一つと
言えます。戦艦大和は海底深く沈没し現在は
見学する事は出来ませんが、玄蕃尾城「内中
尾山城」は2021年ー1585年=いまから438年
前の合戦の無用の長物として令和の現在も
見学する事が出来ます。人間は何故派閥を
作りまた戦争を繰返し見苦しい戦争を繰り
返すのか?我々人間は1583年の賎ヶ岳合戦
「余呉の庄の戦い」の現実を語る証人を訪
ねて人間の業の深さを思い知り戦争がむご
たらしい人間の社会現象である事を知る事
であると言えます。この玄蕃尾城余りにも
強烈なインパクトを探訪者に強く与えます。
見学した人は信じられない巨大城郭を見て
腰抜かされる人もおります。これが本当に
羽柴秀吉に敗れた柴田勝家の城なのかと?

▼著者 長谷川博美 歴史城郭研究家
6月17日玄蕃尾城見学会

追記 長谷川
戦艦大和には前部艦橋と後部艦橋という2つの楼閣が
備えられている。それ大天守の小天守の構想にも通底
するものがあろう。多賀大社社頭絵図にある澤山城図
なども大小の楼閣を描写している。楼閣の意味ですが
欄干や手すりのある展望建築を「楼」と言います。澤
山城図でも左の欄干のある建物小天守が「楼」の様式
右の欄干のない建物が「閣」と解釈できます。「楼」
は一般に食事なども楽しめる施設を〇〇楼と現在も
言いますが文献『兼見卿記』にも明智光秀の坂本城
の小天守で食事をする記録が残っております。つまり
多賀大社社頭絵図の作者は「楼」と「閣」の違いを
認識できる絵師であると言えます。



徳川家康は名古屋城に大小の天守を構えさせた。
▲軍船には欄干を持つ「楼」と「閣」が存在
豊臣秀吉の文禄慶長の役の軍船にも前部艦橋と
後部艦橋の2つの舟櫓を挙げさせている。これ
は人間が基本的に潜在的に持っている大小の櫓
や楼閣への幻想や憧れであろう。人間の本質か?
此れを人間の普的思考とも言う。彦根城天守も
欄干が配置されており「楼」の様式を採用して
います。また火頭窓も採用している。


古代中国塔俑でも「楼」と「閣」を区別しいる。
彦根城西之丸三重櫓「閣」の様式を採用している。


◆明智光秀の坂本城の2天守
文献『兼見卿記』には近江志賀郡の坂本城には
天守の他に小天守の存在を記している。明智に
従属して小納戸役に従事したいた徳川方の武士
木俣守勝は後に徳川彦根藩の家老に昇格し普段
は木俣土佐郭に居住していたこのこの土佐郭に
は三階の天守に匹敵する三階櫓を備えていた。


木俣
土佐は平素はここに居住し執務は彦根城西の丸
の三階櫓に登閣し徳川彦根藩の重要執務を執行
していた。明智光秀の小納戸役「重要書類管理
係」がいつのまにか再び徳川に帰属し徳川譜代
最大の彦根城と三階櫓2つをも自己管理していた
事に驚く徳川幕府開府後、明智一派の斉藤利三
の娘が春日局となり江戸大奥を取り仕切った事
や徳川幕府に明智秀満の甲冑が伝承された事は
不可解と言わざるを得ない。明智と徳川は私達
の知らない所で緊密であった事を私達は忘れて
いる。そう本能寺の変の前に三河の徳川家康の
饗宴役を命じられたのは明智光秀その人なのだ。
木俣守勝は既に明智から徳川に帰参して家康の
伊賀越えの道案内や警護役をも務めているのだ。
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3 コメント

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Unknown (匿名希望)
2020-06-11 16:04:21
 戦艦大和と玄蕃尾城の比較は一見して
時代の異なる歴史インフラ「歴史に登場
する施設」です。時代も背景も異なる両者
の共通根と言いますか?日本人が潜在的
に持ってい、寄らば大樹の発想、大船乗船
志向や心理を見事に照射された卓抜した
比較研究論かと思いました。絶対に沈没
しない巨大な船体や箱舟を指向するのは
旧約聖書のノアの方舟の逸話にもあります。
巨大船舶、巨大城郭、巨大企業、と様々な
人間が希求する安全神話や救民思想など
人間と言う生物が元来大船を指向する物
である人間の普遍的な潜在思考である事
を改めて認識致しました。人類と言う生物
を人間社会の特質をも冷静に大観しょうと
する長谷川先生の人類史大観が素晴らしい。
返信する
Unknown (Unknown)
2021-07-07 08:18:00
卓抜なる投稿なのに投稿のテーマを「城」一本にはせずに「社会観察」としておられれる長谷川先生の深さに感心致します。
返信する
Unknown (Unknown)
2021-07-08 05:58:16
故意に雨季を選んで玄蕃尾城見学をされている意義や城の排水に留意して見学会をされている事、参加者様各位の城郭遺跡に対する観光行楽意識のよりも遺跡見学をしたいと言う本物志向や深意、昨今の土石流問題をも含めて土木工事「盛土、切土、築城、築堤」の本質を考えなおそうとする現地見学学習の意義には目を見張るものがあります。なによりも見学参加者様のレベルの高さを証明するような見学会の様子を拝察させてもらいました。
返信する

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