城郭 長谷川博美 基本記録

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近江坂本城ビイスタ論宇佐山城ビイスタ論

2021-09-30 20:37:55 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、
近江坂本城ビイスタ論宇佐山城ビイスタ論
◆対談者
長谷川先生の城郭ビィスタ論動画は画期的
て゛日本全国の人々に見られていますよ!
今回の投稿では明智光秀の近江坂本城の
ビイスタ工法を是非とも解説して下さい。

◆対談者
最近安土城伝前田利家邸の建物配置に
びっく!感動致しました!やっばりと!
ビイスタ理論を再認識しましたよ!
◆長谷川
太閤秀吉の肥前名護屋城でも各郭で放射状の
縄張を実施しております。



城郭ビイスタ論 上文字クリック

◆対談者
宇佐山城とは如何なるイメージの城ですか?
私は織田信長、森三左衛門など典型的な元亀
の騒乱「志賀の陣」の織豊城郭と考えている。

◆長谷川
▼概略、概は、この様な城かと推定されます。

◆対談者     大津市の「宇佐山城」に
今話題の城郭ビイスタ論は存在下しますか?



◆長谷川
大津方面から見た宇佐山城の石垣は大津方面
から見て要所に石垣を配置して光背効果を高
めていた事でしょう。光背効果=見栄え効果
宇佐山城にビイスタ工法存在したと思います。


◆対談者 参考の為に
元亀から天正に年号が変わる時期の織豊城郭
織田信長の虎御前山城の形状を教えて下さい。

▼虎御前山城西からの測量平面図 西からの放射縄張

▼虎御前山城 東からビイスタ様相図は概ねこの様な形状
◆長谷川
▼天正4年~天正10年 織田信長 丹羽長秀普請
羽柴秀吉「普請工事参加/信長公記」にある安土城
における城郭ビイスタ工法は真に見事なものです。

▼よく観察するとトリプル、ビイスタ工法です。


▼丹羽長秀居城 佐和山城 本丸ビイスタ形状
▼織豊系城郭 近江佐和山城のビイスタ工法
『多賀大社社頭絵図』澤山城=佐和山城 
大天守と小天守の棟の向きが異っている。
つまり城地の地形が「く」の字を呈する。

▼天正10年1583年限定の織豊城郭内中尾山城「玄蕃尾城」

▼同城のビイスタ工法 越前側よりの見晴

▼規矩術「きくじゅつ」
曲尺で角度タンジェント計算できる東洋の分度器

▼天正3年まで羽柴秀吉が在城した近江小谷城本丸ビイスタ工法
▼天正天王山山城 羽柴秀吉築城の山崎城 ビイスタ工法が存在
▼▲右下の曲輪が「く」を呈している事にも注目!
▲各所に放射状縄張が認められる。
▼織豊系城郭 豊臣秀吉 秀長の城をベースとする若山城
ギザギザに規矩術を用いて横矢石垣を設定している点!

▼江戸時代の城郭測量方法これが日本本来の測量技術!
▼天正11年1583年の羽柴秀長と羽柴秀吉の田上山陣城

▲1583年天正11年 賤ケ岳合戦の際の実質秀吉の本陣

▼天正関白羽柴秀吉の小田原陣の石垣山城ビイスタ工法

▼織豊政権とくに羽柴秀吉と関係の深い備前岡山城ビイスタ
放射線計画企図した内と外がリンクした縄張を展開している!
▼再度 近江安土城 織豊城郭の典型 素晴らしい扇型だ

▲内中尾山城=天正11年の柴田勝家玄蕃尾城

◆近江坂本城 ウイッキペデイアより引用
坂本城(さかもとじょう)は、近江国滋賀
郡坂本(滋賀県大津市下阪本3丁目の坂本城
址公園内)にあった日本の城である。明智
光秀の居城として築かれ、琵琶湖に面する
平城。

坂本城は琵琶湖の南湖西側にあり、大津市の
北郊に位置する。西側には比叡山の山脈があり、
東側は琵琶湖に面していることから天然の要害
を具えた地であった。比叡山は近江国と山城国
にまたがっており、白鳥道と山中道の2つの道は
両国を結ぶ道路が通じており、中世、近世におい
て頻繁に利用され、比叡山の物資輸送のために
港町として、坂本は交通の要所として繁栄してい
た。 現在城郭の大半は宅地化され、推定地の中央
には国道161号が貫通している。 1571年(元亀2年)、
比叡山焼き討ちの後、光秀に近江国滋賀郡が与えら
れ、織田信長の命によって京と比叡山の抑えとして
築城した。宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』
では、安土城につぐ天下第二の城と評されるほどの
ものであった[1]。 元亀2年(1571年)9月比叡山焼
き討ちの後、宇佐山城の城主であった光秀に対して
信長は滋賀郡の支配を命じ坂本城を築城させた。
比叡山延暦寺の監視と琵琶湖の制海権の獲得が目的
であったと思われる。「明智坂本に城をかまへ、山領
を知行す、山上の木にまできり取」(『永禄以来年代
記』)とある。山領というのは延暦寺のことで、比叡
山焼き討ち後、1571年(元亀2年)中に築城が開始さ
れたと思われている。また元亀3年(1572年)12月24
日の吉田兼見の記述によると、「明智見廻の為、坂本
に下向、杉原十帖、包丁刀一、持参了、城中天守作事
以下悉く披見也、驚目了」(『兼見卿記』)とされて
いることから坂本城には天守があり、作事が行われ翌
12月頃には天守がかなり進捗していたと考えられる。
短文ながら天守の壮大さに驚いている様子が窺い知れ
る。また坂本城はイエズス会宣教師のルイス・フロイ
スの『日本史』にも、「明智は、都から4レーグァほ
ど離れ、比叡山に近く、近江国の25レーグァもあるか
の大湖のほとりにある坂本と呼ばれる地に、邸宅と
城砦を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なも
ので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の
城ほど有名なものは天下にないほどであった。」と記
されている。この記述はルイス・フロイスの感想では
あるが、名城安土城と並び称され.る城郭として意識さ
れていた。

その後、光秀は坂本城を拠点に近江国の平定を目指し
た。1572年(元亀3年)-1573年(天正元年)にかけ
て木戸城、田中城を落城させ、また湖面より囲船にて
湖北の浅井勢に襲撃し打撃を与えた。その後、石山城、
今堅田城も攻城し湖南はほぼ手中に収めた。その後坂本
城は近江国における反信長に対する重要な軍事施設と
して使用された。黒井城の戦いでほぼ丹波国を手中に
収めると、1580年(天正8年)亀山城の城主となったが、
坂本城もそのまま城主となっていたようである。 
天正10年(1582年)6月2日、光秀は中国攻めには向か
わず本能寺の信長軍を急襲し信長を自害させ、次いで二
条城を攻城し信長の嫡男・信忠を自害させた(本能寺の
変)。だが、同年6月13日山崎の戦いで敗れた光秀は一
旦勝竜寺城に退き、その後坂本城を目指している途中、
山城国の小栗栖周辺で百姓らに襲われ死去したと言わ
れている。一方、安土城の城主となっていた明智秀満
は山崎の戦いでの敗戦を13日の夜に知り、14日未明、
安土城から坂本城に移ってきたが[2]、羽柴秀吉方の堀
秀政が城を囲む中、6月14日の夜、秀満は光秀の妻子
を刺し殺し、自分の妻も刺殺し、自分は腹を切り、
煙硝に火を放って自害したとされる(『川角太閤記』)
[3]。 その後、秀吉に命じられた丹羽長秀が城を再建し
城主となった。その後賤ヶ岳の戦いの軍事上の基地と
して使用され、後に杉原家次、そして浅野長政が城主
となった。この時に城下町が形成されたと思われている。 
1586年(天正14年)、秀吉の命を受けた長政が大津城
を築城して居城を移したことにより廃城になり、資材は
大津城築城に使用された。 坂本城は歴史上重要な役割
を果たしていたが、ながらく城の位置や構造については
不明となっていた。しかし1979年(昭和54年)に実施
された発掘調査によって一定の構造が明確になってきた。
城[編集]天正6年(1578年)1月11日に光秀の茶の師匠で
あった堺の津田宗及が坂本城に招かれ茶会がひらかれて
いる。この時の様子は、「御座船を城の内より乗り候て、
安土へ参」(『天王寺屋会記』)と記載されている。城内に
は琵琶湖の水が引き入れており、城内から直接船に乗り
込み、そのまま安土城に向かったようである。従って城
郭の建物が湖水に接した「水城」形式の城であったと思
われている。また吉田兼見が天正10年(1582年)1月20日
に坂本城に訪れた時に「小天守」で茶湯を喫している。 
大天主・小天主で構成される高層の天主を中心に城と内堀
で囲まれた主郭があり、その西側に中堀で囲まれた曲輪、
さらにそれを取り巻くように外堀で囲まれた曲輪があった
と考えられる[4]。 1979年(昭和54年)まで坂本城は一度
も発掘調査されなかったため、坂本城の遺構に関してはほ
とんど注目されなかった。しかし、坂本城跡の中心部で大
規模な宅地開発が計画されたので、これに伴う調査を実施
したことがきっかけとなり、現在に至り断続的に発掘調査
が行われ、城の縄張りなどが少しずつ明らかになってきて
いる。 1979年(昭和54年)に行われた発掘調査では、
10cm-30cmの焼土層が発見された。これは秀満が天守に
火を放ち光秀の妻子もろとも落城した時のものと考えられ
ている。その焼土層の上に整地した層があり、この遺構は
丹羽長秀時代のものと考えられている。 

◆対談者
私個人の感覚としてこの元亀天正の頃の城郭とは厳密に
は多くの類例から正方形や凹やコ形の城などありえない
と思っているんです。複数の曲輪を連結連ねた砦を先ず
築き外郭堀を掘削するのが当時の城の常道だと思います。
それに長谷川先生の城郭ビイスタ論を応用すれば少なく
とも坂本城の後半の城主は
「その後、秀吉に命じられた丹羽長秀が城を再建し
城主となった。その後賤ヶ岳の戦いの軍事上の基地と
して使用され、後に杉原家次、そして浅野長政が城主
となった。この時に城下町が形成されたと思われている。 
1586年(天正14年)、秀吉の命を受けた長政が大津城
を築城して居城を移したことにより廃城」とあるので
坂本城は玄蕃尾城や宇佐山城や虎御前山城や田上山城
などいわゆる元亀天正の様式「連郭式」とその外を囲
む総構の城郭だったと私個人は考えております。

◆長谷川
坂本城の縄張やビイスタ論の存在は全く解りません!

◆対談者
是非ともヒントだけでも是非御教示下さいませんか?
ある年に坂本城が世間で話題になった時に私達の多く
は湖岸の公園じやなくて坂本城の全体を長谷川先生と
歩きたかったのに、この企画が全く無かったので私は
非常に残念に思います。特に昔ら下坂本の東南寺が
坂本城だと伝え聞いていましたので最近は湖岸移動?

◆対談者
昭和60年代の下坂本の地図をみるとその形に扇形を
読み取る事がわ私は可能だと思います。ビイスタ論
を有効に活用して坂本城の縄張構造考察すべきです。

◆長谷川
私坂本城の縄張やビイスタ論の存在は全く解らない!
▼近江坂本城跡 昭和60年代の様相

▼城郭の中心分から放射状に縄張りしている。近江坂本城


▼天正大坂城 信長が石山本願寺を摂取羽柴秀吉が築城
※放射線計画企画した内と外がリンクした縄張を展開している!
▼城郭の中心分から放射状に縄張りしている。天正大坂城
▼坂本城は格曲輪も繊細に各曲輪で縄張している。

▼大津市歓喜寺城放射線縄張 各個の曲輪も繊細に縄張

▼文禄慶長の役の際の豊臣秀吉の肥前名護屋城 見事なビイスタ工法の典型


▼やはり坂本城の地割にも扇型ビイスタの残影がある。
▼丹波亀岡城 ビイスタ工法の推定


▼近江坂本城様々な放射線の痕跡が読み取れる
▼近江坂本城様々な放射線の痕跡が読み取れる


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3 コメント

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Unknown (阿闍梨)
2021-07-29 06:17:23
長谷川先生その人より、長谷川先生の見解や見識を柔軟かつ明敏に理解して長谷川先生の城郭見学や講座に参加している人々の頭脳の柔軟さ、明敏さ、聡明さに驚きます。人間の頭の良さって模倣物真似や搾取じやなくて如何に気付けるかアイデイアを創出できるオリジナリテイある整合性と独創性を兼ね備えているかにあると言えます。
返信する
Unknown (Unknown)
2021-07-29 06:25:29
いやああ、、坂本城ビイスタ論、天正大坂城ビイスタ、論安土城ビイスタ論、などなど、仰天する内容ばかりです!
本当は高名かつ有名な先生が此れに気付いて大衆に指導検討すべき内容ではないでしょうか?全く無名の長谷川という人に一部少数の人々が気付き始めた事態に私も驚きを隠せません。
返信する
Unknown (Unknown)
2021-07-29 20:09:36
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