城郭 長谷川博美 基本記録

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甲斐要害山城の極秘研究

2023-05-08 06:27:33 | 甲信の城 ビイスタ工法

◆甲斐要害山城の極秘研究

0749-86-4145 ウッデイパル余呉

 

◆一般者

長谷川先生の城郭見学会

深く楽しいと巷間で評判!

 

◆支援者

令和5年6月4日の鎌刃城

まつり 長谷川先生講師

です。しかし長谷川先生

の鎌刃城現地解説に参加

は2~3人かと大変心配!

参加者が少ないと自然と

長谷川先生の城郭見学会

も消滅する可能性もある

◆質問者

甲斐要害山城の極秘研究って

いったい何なんですかかね?

 

◆長谷川

従来の城郭研究の様式

とは異なる視点視座の

ポイントオブビューpoint of view

で甲斐要害山城の考察を

を今回は致しましよう。

 

◆一般者

長谷川先生のビイスタ動画

の視聴数が6200回城郭講座

の動画記録としては異例の

数値を記録していますね!

 

◆質問者

甲斐要害山の極秘研究とは?

ポイントオブビューpoint of view)?

 

◆長谷川

幕末に日本が米国ペリー提督

を迎えた時もこの様な陣幕が

浦賀に張られたこれが日本国

の武士の文化なのです。

◆長谷川

享保年間には日本国の城郭

の縄張はこの様に実測した

◆反論者

解説がウザイんだよ!

城の本にも一言さえ

掲載されてないんだ

あのなあ城の基本は

5W1Hが基本なんだ

ビイスタ動画見るな!

▼甲斐要害山城図地元教育委員会様図

◆世話人様

展望、見栄、見る行為

が城見学では重要です

viewビユーポイント

貴方は図書館で文字だけ

しか読まない人ですか?

図も文も読むから図書館

つまり城見学でウォッチ

見る事watchが抜けてる!

文字ずらだけ読んでも城

の事か全然解ってない!

城見学は城の形を見る事!

 

◆長谷川

先ずこの様に放射状ビイスタ

工法の痕跡が読み取れます。

◆長谷川

次に重複型ビイスタも

読み取れます。

 

◆反論者

ウザイ!ウザイ!城郭

ビイスタ論など邪道だ!

 

◆対談者

あらら?そうかしらね?

日本人は箸「ハシ」を

使って毎日食事してる

そう箸は日本人の日常

ね、ところが日本人で

もハシを使わない文化

の国で育った日本人の

子供は日本人でもハシ

使用できなくなります

ですから貴方は日本国

の城の測量文化自体を

50年以上も知らなかっ

けの事だと思います。

 

◆長谷川

様々な分度測量方法を用いて

甲斐要害山城が縄張されたと

私は考えております。

◆長谷川

この城甲斐の守護職武田氏の

詰城と言える城郭遺跡が起源

 

◆長谷川

滋賀なら小谷城のビイスタ

◆長谷川

織田信長の安土城のビイスタ

◆長谷川

近江 徳川家康の永原御殿のV

京都ならば淀城のビイスタ

と柔軟発想で城観ましよう!

甲斐要害山城 ウイッキペデイア引用

高白斎記』に拠れば、築城は武田信虎時代の

永正17年(1520年)6月であるという。武田氏

は前年に居館を石和の川田館甲府市川田町)

から躑躅ヶ崎館(甲府市古府中町)へ移して

おり、駒井政武の領地であった積翠寺郷の丸山

が城として取り立てられ、館の詰城として

狼煙台が築かれたという。

同年には駿河の今川氏勢の武将福島正成

駿州往還(河内路)を甲斐へ侵攻し甲府へ

迫っており、信虎は正室大井夫人を避難

させ福島勢を駆逐しているが、夫人はその

最中に城中で嫡男(後の武田晴信)を出産

したという。

勝頼期の天正4年(1576年)6月1日付武田家

朱印状に拠れば、武田氏は要害城から西方

に位置する帯那郷(甲府市上帯那町・下帯那町)

に対して要害城の普請への召し出しを命じており、

帯那郷への河除(堤防普請)と他の諸普請の一切

を免除している。『甲陽軍鑑』『甲斐国志』によ

れば、武田氏時代の城番は駒井次郎左衛門・

武藤山城・駒井昌直(右京亮)が務めたという[3]

武田氏滅亡後、徳川氏の支配期を経て豊臣系大名

が入城し、加藤光泰により修築が行われた。

文禄年間の修築を示す遺構として穴太積みの

石垣が見られる[3]。『甲斐国志』によれば、慶長5年

1600年)の関ヶ原の戦いの後に甲斐は再び徳川氏

が領し、廃城となったという[3]


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前方後方墳 谷山古墳のビイスタ工法考察

2023-05-08 03:16:21 | 古代日本 ビイスタ工法

 

信濃最大の古墳はビイスタ工法! - 城郭 長谷川博美 基本記録

信濃最大の古墳はビイスタ工法! - 城郭 長谷川博美 基本記録

◆有識者長谷川さん貴殿の飛騨松倉城ビイスタ工法と幾何学的分析解析には感服致しますこの様に城郭遺跡を幾何学的に分析した研究理論とは本邦では明治大正昭和平成に比類なき...

goo blog

 

◆長谷川

信濃最大の古墳の投稿コメント

がお一人あり嬉しくて眠れない

私のような誰も読んでおられな

いブログにコメントを賜る事の

嬉しさは大変格別といえます。

 

◆対談者

私は美濃象鼻山古墳のビイスタ

工法に非常に驚いております!

◆一般者

長谷川先生は偏向した異端の

研究家だと思い込んでいまし

たが私達は古墳の形状を定型

無理矢理押し込み考える傾向

がある。素直な気持初心者に

帰って子供の様な素朴な心に

帰って遺跡を見学し考察すれ

ば毎日見上げる遺跡がどれほ

ど素晴らしく高度な遺跡かに

気付く事が出来る「気付き」

の大切さがブログから解る。

古墳を側面から見る観点!

これを見ると側面から古墳

見ても 形良くみえる様に

ビイスタ工法で工夫してる

 

◆対談者

比較的初期の古い前方後方墳

新潟の山谷古墳を幾何学的に

解説していただけないですか?

▼山谷古墳の形状

◆長谷川

この古墳も物凄い幾何学測量

つまりビイスタ工法を用いて

築盛している希有の古墳です。

 

1 被葬者の木棺は1で設定

前方部のバチ型を形成する

 

2 赤色腺は後方部の形状

及び左の2段のテラスの位

置を規定する設計腺です。

 

3 黒色腺は多角の後方部を

の形状と右側面の作り出し部

の位置を決めております。

 

4 同じく後方部と作り出し

 

5 前方部造り出しの位置決

 

6 前方部の位置決め

 

7 後方部の位置決め

以上新潟 山谷古墳の形状は

非常に高度な測量技術の古墳

と言えましよう。

 

以下ウイッキペデイアより

山谷古墳(やまやこふん)は、新潟県新潟市西蒲区

福井にある古墳。形状は前方後方墳矢垂川にほど近い、

角田山南麓から東へ張り出した尾根の先端部にある[1][2]

新潟市の史跡に指定されている。

沿革[編集]

1959年(昭和34年)、地元在住の藤田治雄によって発見

されたが、当時は一般に認知されておらず、再度1981年

(昭和56年)に新潟県教育委員会により分布調査が行われ

、再確認された。その後全容調査を望む声が大きくなり、

1983年(昭和58年)に当時の巻町教育委員会[3]新潟大学

考古学研究室により、また1987年(昭和62年)に新潟大学

考古学研究室により発掘調査が行われた[1]。その結果

弥生時代後期に高地性集落が廃絶した場所に造成され

古墳時代前期中頃の古墳だと判明した[1]。当古墳の

眼下には、御井戸B遺跡があることから、有力者の古墳の

可能性が高いと見られている[1]

古墳の特徴[編集]

  • 尾根の頭上に造成された全長37メートルの前方後方墳である[1]
  • 尾根を削って、ある程度の形に造成した後にと土を盛り上げて
  • 墳丘を完成させ、その後に古墳の後方部の頂上を掘り込み、
  • その底に棺を置いてから土で覆い密閉してある[1]
  • 古墳の下部には、古墳の上から転落したと見られるが見つかった[1]

棺の特徴[編集]

  • 棺は半裁した丸太の内側をくり抜いて製作[1]
  • 長さ4.8メートル、幅1.4メートル[1]
  • 中には鉄製品3点、管玉7点、ガラス小玉34点が副葬品としてあった[1]

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