ずいぶん前に読んだのだが、村上春樹の小説の中に「偽善的なサイモンとガーファンクル」ということばが出てくる。私が持っているサイモンとガーファンクルに対する印象にあまりにピッタリだったので、ずっとあたまに残っていたのだ。さっきなぜだかそのことばが思い浮かんだので、我慢できずに何という作品に出てきたのか調べてみた。まさか全部の著作を読み直すわけにもいかず、調べは難航したが、「文学界」臨時増刊の『村上春樹ブック』がたまたま手元にあり、その中の「ミュージック・ミュージック・ミュージック」の項を使ってやっとわかった(村上作品に登場する音楽を列挙し、でてくる作品とページが掲載されている)。その言葉がでてくるのは、『ダンス・ダンス・ダンス』という作品で、主人公の「僕」がティーンエイジャーだった頃の下らない音楽を列挙した中に出てきたのだった。
ところで、ビル・クロウ著(村上春樹訳)『さよならバードランド』(新潮文庫)には、著者ビル・クロウがポール・サイモンのレコーディングに参加したした時のエピソードがおさめられている。巨額の制作費を消費するために、スタジオ使用時間を増やし、ミュージシャンを雇うが、無駄な時間を費やす。結局は、「サイモンとガーファンクルの次のレコードがでたとき、そこには僕らが吹き込んだものはひとつも使われていなかった」という話だ。ポール・サイモンいわく、巨額の制作費を使えば、レコード会社は真剣に売り込みをするのだそうだ。著者は正面きって批判的なことを述べるわけではないか、ポール・サイモンが他者の気持ちを理解できない高慢な男であるというニュアンスで書かれている。
この文章を読んで何か腑に落ちたような気がした。サイモンとガーファンクルのメロディーとハーモニーは確かに美しいものだが、まるで誠実さを売りにしているようなその姿勢からか、どうしても素直に感動できない部分があったのだ。彼らは、ビジネスや自分の音楽への姿勢に対しては誠実だったのだろうが、他者に対してはそうではなかったのではないか。まあ、私自身が素直でないことが、素直に感動できない本当の原因なのかもしれないが……。それにしても、
「あの偽善的なサイモンとガーファンクル」
なかなかキャッチーな表現だと思う。