さっき、BeachBoysのPet Soundsを聞きながらボーッとしていたら、書棚にあった辺見庸の『永遠の不服従のために』が目に入った。数年前、彼の母校の石巻高校での講演会の際買ったもので、彼のサインも入っている。
そういえば、辺見庸は数年前、脳出血で倒れ、さらには追い討ちをかけるようにガンに襲われ手術したのだった。大丈夫なのだろうか。
彼の講演は、なかなかリアルで興味深いものだった。アフガンを、政治を、戦争というものを彼は熱く語った。正直、現在という状況の中で、このようなタイプの「過激な」反戦・反体制思想を聞いたのは、ちょっと驚きだった。「反戦」や「反権力」や「抵抗」を語る彼の思想や行動を「左翼的」ということばで片付けることも可能であろう。確かに、一見非常にシンプルな反体制思想と見えなくもない。実際、安保闘争時代や全共闘時代には、同じような言説がはいて捨てるほどあったと思う。しかし、それはあくまで「同じような」だ。
彼の思想と行動には、誤解を恐れずにいえば、筋金が入っている。それは強固だがしなやかな筋金だ。すべての思想は時代性をもつ。全共闘時代に反戦や反体制や保守反動批判を語るのはたやすいことだった。同じ意味で新保守主義がすっかり根付いた現在にあって、「左翼」批判や「反戦」批判をすることはたやすいことだ。それはいわば、安全な立場からの言説だからだ。
重要なことは表面的な真理や「正しさ」ではない。そのことばがどういう立場から発せられたものであるかということだ。安全な立場から発せられた言説は、それが「右翼的」であれ「左翼的」であれ、体制的なイデオロギーにすぎない。(インターネットの掲示板にある数え切れないほどの匿名の左翼たたきや「右翼的」「保守的」な書き込みはそれをあらわしている)
私は、「保守」や「右翼」を批判しているのではない。「左翼」を批判しているのでもない。安全な立場を確保した後に発せられ言説を批判し、嫌悪しているだけだ。辺見庸のことばは、つねに単独者として発せられる。新保守主義が時代を覆いつくした今、彼のことばはとても新鮮に聞こえる。それは、時代に迎合しないことばだ。現在という時間の中で、辺見庸は真にラディカルだ。
前掲書におていチョムスキーは、(辺見庸との対話の中で)不機嫌らにこういっている。「言論の自由は戦ってこそ勝ちうるものだ。愚痴をいっている場合ではない」安全な場所からの言説を批判したそのことばは、まさに現在という時間と辺見庸との間にもあてはまるのではないか。
辺見庸のサインには次のように書かれていた。
「独考独航」
なかなかいいことばじゃないか。
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