WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

ジョン・コルトレーンの至上の愛

2006年07月28日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 19●

John Coltrane       A Love Supreme

Scan10004_3  勇気をもって告白しよう。やはり、私はコルトレーンが好きである。そんなことに勇気は必要ないだろう、と考える人も多いだろう。しかし、コルトレーンが、それも「至上の愛」が好きだなどというのは、現在では、まともなジャズ・ファンとはみなされない傾向があるのだ。1960年代のカウンター・カルチャーの時代、コルトレーンは異常ともいえる聴かれ方をした。その後遺症かどうかわからないが、ジャズ評論家のみなさんは、ジャズ音楽として積極的に評価されない方が多いのだ。例えば、吉祥寺のジャズ喫茶メグの寺島靖国さんは、つぎのように語る。

コルトレーン・ファンの怒りを買うのはわかっているが、あえて言うと、笑ってしまうのである。だいたい神などと口にする人をぼくはおかしいと思うが、コルトレーンは真剣なのだ。笑ってしまってから、気の毒だなあと思う。気の毒と思ったらもう音楽は聴けない。尊敬する人だけ聴けばいい。「ちょっと変だな」と思うのが普通の神経。》  (寺島靖国『辛口JAZZ名盤1001』講談社α文庫)

 また、寺島さんの天敵、四谷のジャズ喫茶いーぐるの後藤雅洋さんも次のように語る。

「至上の愛」は考えようによっては、コルトレーンのすべてが体現されている傑作なのだけれど、何度も聴いていると、いささか押しつけがましさが気になってくることがある。どうしてそうなるのか考えてみると、どうやら、音楽と同時に聞こえてくる内面の物語が、うっとうしく感じられるのだと思う。音楽はあくまで音楽のことばで、これが僕のジャズを聞くときの基本姿勢だ。》  (後藤雅洋『新ジャズの名演・名盤』講談社現代新書)

 けれども、と私は思う。私は「音楽はあくまで音楽のことばで」判断して、コルトレーンがすきなのだ。例えば「至上の愛」パート2の「決意」。こんな爽快でかっこいいフレーズは、ちょっとないのではないだろうか。私は、コルトレーンが異常にかけられていた時代のジャズ喫茶の雰囲気をリアルタイムでは知らない。音楽で判断するしかないのだ。音楽で判断してコルトレーンが好きだ。彼の内面の物語の軌跡は理解しているつもりだし、内省的と言えば内省的な音楽だが、そこにはまぎれもなく黒人のブルースのフィーリングが息づいている。しかも、他のミュージシャンとはまったく異なる形で……。

 思うに、私より上の世代は、1960年代にあまりにコルトレーンが流行したゆえに、当時の政治的・文化的な背景がまとわりつき、それがうっとうしいのではないだろうかと考えるのだが、いかがであろうか。寺島さんのように宗教性を云々するなら、多くの西洋人が「ちょっと変」である筈だ。評論家の理屈としての気持ちはわかるが、ちょっと拡大解釈しすぎだと思う。

 確かに、コルトレーンは聖者への道を歩もうとしたが、にもかかわらず、音楽の芯の部分でブルースのフィーリングが常に息づいていた、というのが私の結論だ。


失われた歌詞・失われた記憶

2006年07月28日 | ノスタルジー

 1973~4年頃だと思うのだが、『若い先生』というドラマがあった。30分もので(確か7:30からで、提供はブラザーじゃなかったかと思う)、主演は篠田三郎水沢アキだった。

 今日、なぜか、その主題歌を口づさんでしまった。

 ♪それは、あなたよ、若い先生

  風の中を駆けていったのあなた

  君の涙は熱いはずだと

  泣いた私に微笑みくれたわ

  若い季節の変わり目は、誰も心が揺らいで

  そんな○×△※○×△※○×△※○×△※♪

と、途中で歌詞がわからなくなってしまった。メロディーはわかるのだが、歌詞がわからない。インターネットで調べてみたが、どうもわからない。新しい曲なら調べようもあるのだろうが、古いあまりヒットもしなかったドラマの主題歌となると、なかなか難しいようである。ということは、私が何かの拍子にでも思い出さない限り、この歌詞は永遠に失われてしまうのだろうか。

 年齢を重ねるとはそういうことなのだろう。人は生きるごとに多くのものを失って行く。

 失われた記憶……失われた歌詞。

[追記]

コメントの「くま田なおみ」様のご教示によれば、「そんな○×△※○×△※○×△※○×△※♪」の部分は、どうやら

「そんな言葉のひとつでも 生きる望みに変えるの」

らしい。


保立道久による「網野善彦『日本中世に何が起きたか』解説」を読んだ

2006年07月28日 | エッセイ

網野善彦『日本中世に何が起きたか』(洋泉社MC新書)は、網野さんにとってのひとつの「総括」のような作品だ。これまでの論考より一歩踏み込んだ考え方を提示しており、これまで明言してこなかったことについて述べている箇所もある。

 

しかし、保立道久による「解説」はさらに感動的だった。保立によれば、本書で提示された網野さんの「展望」は、第一に原始社会-奴隷制社会-封建農奴社会-資本主義社会というロシア・マルクス主義の世界史の4段階図式に対する否定であり、第二に「無縁」の原理の中から商品の交換そして「資本主義」が出てくるという発想の2点である。

 

第一の点については、世界史の4段階図を留保しながら一方で「無主・無縁」の原理によって歴史を捉える見方を主張していた網野さんが、大きく一歩踏み出したという点で重要である。これは、従来、「二元論」などと悪口を言われてきた点であり、私なども、なぜ網野さんが世界史の4段階図にいつまでもこだわるのか理解できなかった点である。

 

また、第二の点については、文化人類学者らによってはすでに説かれてきた事柄ではあるが、歴史家・保立道久をして「衝撃的」で、とても「網野さんの発想についていけなかった」と言わしめる事柄である。保立さんは、これまで先鋭的な網野批判を繰り返してきたが、数々の実証的・理論的研究と網野理論との格闘の末、「理論史の理解という点では、他の誰より網野さんが正解であったことを確認せざるを得なくなった」と網野さんへの「降伏」を宣言したのである(もちろん、無条件の降伏ではなく、発展的な「降伏」だ)。

 

私はここに真摯な歴史家の誠実な態度を見ないわけにはいかない。感動的な文章だ。これまで、多くの人が網野批判の文章を書いた。しかし、私には説得的な主張とは思われなかった。例えば、高名な歴史家・永原慶二さんの網野批判なども、マルクス主義という前提からの批判であり、政治的・イデオロギー的な感をぬぐいきれなかったのである。マルクス主義という枠を超えて、日本の歴史はどう理解すべきなのかという問題が、本当に学問的に誠実な態度で、真摯に論じられているようには思われず、どこか、ヒステリックな「網野たたき」のように見えて仕方なかったのだ。おそらく、こう思っていたのは、私だけではないはずである。事実、私の知人の中には、同じような感想を持っている人が少なくない。

 

その意味で、今回の保立さんの「降伏」には、真の歴史家の真摯な姿を見せつけられた思いだ。保立さんの姿勢は、私に勇気と元気をくれた。かつて、マルクス主義解釈でがんじがらめの中世史に網野さんが投じた一条の光が、若い我々に勇気と元気をくれたように……。

 

しかしそれにしても、網野さんがなくなったことは残念だ。保立さんには是非網野さんの姿勢を受け継いでもらいたい。

 


「俺たちの旅」箴言集(加筆)

2006年07月28日 | ノスタルジー

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Scan10007_4 若い頃に見た、「俺たちの旅」というテレビドラマを忘れられない。1975年から1976年にかけて、日本テレビ系で放映されたドラマなので、もう30年も前のことになる。しかし、私と同世代の人には、同じ思いの方も多いのではなかろうか。

 今振り返れば、高度経済成長の時代もおわり、それまでの社会や国家や家族のために献身する人生観に対して、「愛」や「友情」などの個人主義的な人生観を提示してみせた作品ということになろうか。社会的な価値観から相対主義的な価値観への転換といってもよかろう(これについては近い将来論じてみたい)。まあ、その行き着いた先が、現代の自分勝手の一億総「おれ様」化といえなくもないのだが……。

 しかし、当時は、やはり、「俺たちの旅」の提示した人生観に魅了されたものだ。その後何回か再放送され、1985年には角川文庫より鎌田敏夫原作で「青春編」「恋愛編」「出発編」の三冊本として、活字としても出版された。ただ、角川文庫版では、「青春編」4章、「恋愛編」6章、「出発編」6章の計16話構成であるのに対して、実際のドラマは46話だった。私も含め、再放送も見、活字版も読んだという人は、意外と多いのではないだろうか。

 ところで周知のように、「俺たちの旅」においては、毎回ドラマの最後にその回のテーマと関連づけられた意味ありげな箴言が字幕で流され、多くの人に感銘をあたえたものだ。今となっては、やや滑稽なものもあるが、当時の視聴者がそこから何かを学び取ったのもまた事実だろう。例えば、「誠実さ」とか「友愛」とか「自立」とかをだ。文庫本にもそれらは収められているが、何せ16話分しかない。もう一度全部確認したいと考えていたら、それを載せているホームページがあったので紹介する。もちろん、熱烈なファンの間では、よく知られているものなのであろうが……。

 

http://www.yo.rim.or.jp/~nag/OreTabi.html

 その中からいくつか印象的なものをあげてみる。

◎  明日のために  今日を生きるのではない

   今日を生きてこそ  明日が来るのだ

◎  いろんな悲しみがある  だがそれをわかりあえた時

   悲しいもの同士の心が  かたくむすばれる

◎  男は女の  やさしさを求め  女は男のやさしさを求める

   皆が  やさしさに飢えている

◎  それぞれの人間が  それぞれの人生を

   一生懸命に  生きている

◎  人は  なりふりかきわず  働くとき  なぜか美しい

◎  淋しさを知っている  人間だけが

   笑って生きて行くことの  楽しさも知っている

◎  やさしさを持った人間が  どうしようもない

   せつなさを心に抱いて  この世の中を生きて行く


スタンリー・タレンタインのシュガー

2006年07月28日 | 今日の一枚(S-T)

●今日の一枚 18●

Stanley Turrentine     Sugar

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 エッチっぽいジャケットである。変なことを想像してしまいそうなジャケットである。今日は(も?)朝早くおきて仕事をした。気分転換に何か音楽を聴こうと思って何気なく取り出したのが、このCDだった。あまりにきわどいジャケット写真なので、ちょっと変な気分になりそうだった。

 テナー・サックス奏者スタンリー・タレンタインのシュガー。彼の代表作といわれる一枚だ。太く男っぽいテナーサックスを「ボス・テナー」というらしい。スタンリー・タレンタインはよく「ボス・テナー」の代表格として紹介される。彼の音色が男っぽいと思ったことはないが、太いとは思う。

 私は、「ボス・テナー」より何より兎に角かっこいいサウンドだと思う。ブルースを基調にしたソウルフルでファンキーなフレーズ。エレクトリックギターやエレクトリックベース、オルガンなど電気楽器を使った編成。よくスウィングするビート。私はこういうサウンドが大好きである。思わず踊りだしたくなってしまう。まったく、小気味良い音楽だ。電気楽器を多用している点で、アコースティック・ジャズとはいえないのかも知れないが、フュージョンではない立派なジャズである。いわゆるジャズ評論家の人たちが頻繁に紹介するジャズの巨人ではないのかも知れないが、とにかく爽快でかっこいいサウンドである。

 若い頃、車を運転する際、スタンリー・タレンタインのカセットテープをよく聴いたことを思い出す。そのカセットテープは、今も私の車の中にある。