WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

大津波の現場に立つ(2)

2011年04月15日 | 大津波の現場から

 S地区である。私の生まれ育った場所だ。高校生ぐらいまで生活をした場所だ。街全体が火災に見舞われた。湾の入り口にある石油コンビナートが地震と津波で崩壊して重油が海に流出・引火し、火のついた津波が湾の一番奥にあるこの地区を襲ったのだ。避難場所で長く不安な一夜を過ごした震災の日の夜、携帯電話のワンセグTVでこの街が炎上する映像を見て、大変なことが起こっているのだということを認識した。それが私が生まれ育ったこの街だと知ったのは、数日後のことだった。

 ガソリン不足の中、やっとこの街を訪れたのは、大津波から約一週間後のことである。まだ、街の奥深くまでは入れず、高台から町全体を見渡した。

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 町全体に焦げ臭さと重油の臭いが立ち込めていた。大小の船が何艘も陸に打ち上げられていた。

 私が街の奥深くに立ち入ったのは、震災から一ヶ月も経過してからである。自衛隊や消防隊らのおかげで、応急的な道が整備され、瓦礫の撤去も始められていた。

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 火災の跡は今も生々しい。

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 かつての私の家の側にあった缶詰工場も大破していた。かつて住んでいた場所はこの奥にあるのだが、もうこれ以上は進めなかった。

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 街を縦断する国道も大きな船によって通行不能だ。何艘もの漁船が打ち上げられていた。

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 言葉を失い、そこに立ちつくすのみだった。幼い頃遊んだ懐かしい路地はもうそこにはなかった。こんちゃんちも、とおるちゃんちも、あきらちゃんちも、そこにはなかった……。否、薄っぺらい感傷にひたっている場合ではない。そこには人々の生活があったのだ。一体、どれぐらいの人々が犠牲になり、家を失ったのか、見当もつかない。この街に住んでいた同級生たちの安否は今でもはっきりはわからない。

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 自衛隊の人たちによる行方不明者の捜索は今でも続いている。 私には、「ありがとうございます」と声をかけるしか出来なかった。