緑 島 小 夜 曲

春を愛する人は、心優しい人。

「供養塔」を読んだ後

2007年01月11日 15時47分28秒 | 文学鑑賞
ときどき人間は獣に及ばないと、僕は「供養塔」を読んでからそう考えた。
諺のごとく「母虎が子虎を食わぬ」。が、なぜ人間のほうは共食いしたのか。それは考え難い。生き物ならば、いずれも生存欲を持つ。が、我々人間のほうは生きるためになんでもする。共食いだけではなく環境汚染だの森破壊だの野獣捕殺だの、経済利益のためになんでもする。その目的は分かる。すなわち、幸福かつ便利な生活が送られるためである。が、以上のことをするとき、その結果を考えなければならない。
 我々中国人は調和をとても重んじる者である。だが、調和に対する敵の数は数多ある。人間同士の間に、エゴイズムはその敵である。いかなる矛盾や軋轢の発生はエゴイズムがその種である。中国の歴史を見ると、農民出身の人がいったん皇帝や官僚になると、群衆の苦痛や心労を無視して残酷になるやつが少なくなかった。それはなぜならば、やはりエゴイズムである。もちろん、エゴイズムは人間の生まれつきの性格のひとつで誰でも持っているが、私の考えでは、もし心が100%ならば、エゴイズムがその30%を占めれば十分である。残った70%は利他主義となる。それは本当の人間である。三浦の祈ったように、自分が困ったとき、みんなで背中を押してくれるなら、幸せになるであろう。調和の取れた心にはエゴイズムも必要である。だが、たった30%。
 今の中国政府は「調和の取れた社会を築こう」という目標を主張している。この目標を実現するために、我々ひとり一人の国民は自分から何かしなければならない。先ず自分の「調和の取れた心を作ろう」。個人の心は調和が取れれば、社会は自然に調和になると考えられる。他人が風雨に濡れた時、傘を差してあげたら、きっと自分が風雨に遭う時誰かが後ろから傘を差してくれるだろう。
 供養塔はただ餓死の人人のため建てられるものではない。世の中の我々生きる方のためでもある。自分の心の中にも供養塔を建てて、いつでもどこでも、心の調和を保つことができるだろう。

  「供養塔」をネットで探しましたが、残念なことには見つからなかった。
   だから、感想だけを。