緑 島 小 夜 曲

春を愛する人は、心優しい人。

久しぶりの歌

2009年11月03日 23時15分28秒 | 俳句和歌
破れ芭蕉の蔭に待つやその女(ひと)の来るのが遅くなるかもしれぬ

憶江南(4)

2009年11月02日 12時25分04秒 | 心境写生
 私が一人で明孝陵の神道(お墓を鎮護する神獣の像や翁仲らなどが列で立ってある石道)を散策した。

 初秋の日差しが暖かく両側の木々を照らしていた。古代なら秋を「悲しむ」のが慣わしだった。宋玉が『九弁』の冒頭文を「悲しむ哉(かな)秋の気配、物寂し兮(や)草木枯れ落つる」と記して「悲秋文学の祖」の地位を確立した。その以降の文学において、「秋を悲しむ」のが是が手本(モデル)となるという。

 しかしながら、目の前のこの暖かい秋景色に面して、私はどうしても悲しむことが出来なかった。心を込めて悲しむことに努力したが、成果として、西安香積寺(浄土宗の祖庭)の石碑の一句を思い出した――『悲欣交集』だった。弘一大師(李叔同)が最期の時の心の有様だそうだ。私にはそういう気持ちが無理だ。

 まあ、いいや。南京の秋は嬉しいこと!その神道にて私の悲秋は失敗を告げた。日差しのせいであった!
 
 

憶江南(3)

2009年10月30日 09時27分22秒 | 風景開眼
 西湖があるかと思われるが、杭州は恋の天国だとよく言われる。しかし、「東南仏国」とは僕にとって初耳であった。西湖風景区の一部として、霊隠寺が杭州を旅する時足を運ばなければならぬ所であろう。
 
  

 寺のすぐ傍に飛来峰という小さな山があり、その山裾と山腹の所に古代から石の造像が数多作られた。中では阿弥陀仏もあれば、唐の三蔵法師(中国で名高き唐僧のこと)の物語もある。それに、狭くて暗い洞窟の中で来世・今世・前世を代表する三座の仏の像もある(下、左の右上)。其々家族のご健勝や自分の未来の安否などを意味するから、一つずつ拝むと良かろう。洞窟の造像の中でもっとも人気のあるのが財の神なる趙公明様、中に入る人々なら、誰でも拝む。其れに一人の案内人(よその方が雇った者、説明した時、私がちょうどその傍にいたから、耳を済ませて聞いた)の話によって、趙の手を触るともっと大金をもうけるという。妙な話だった。私は腹の太き弥勒仏が大好きであるから、それの写真を沢山撮ったものである(右の真ん中のは中の一枚)。

 

 年代があまりにも長いのか、或は長年で風雨にさらされたのか、一部の造像は破損が大きいである。それがゆえに、体や下半身などしか見られなかった。しかしそれでも、今の様子から昔の風姿が想像できる。おっとりと立ったのもあれば、心優しく微笑しながら遠くを眺めたのもあろう。また顔などが完璧な者は落ち着いて下のこの自分をじっと見るのも・・・・・・頭をあげて仏とじっと見合ったその一瞬に、僕は嘗てもないほど初めて仏という不思議な力に心から実感できる(仏教の信者でないけれど)・・・言葉や身振りなどが要らない、ただ胸の中に敬虔を持つだけで、お互いに心の交流が出来るのであろう。一つの拈華微笑から、心の奥まで一つの声や音が聞こえるのであろう。たぶんその音はある明るい午後、一枚の葉っぱの裏、一筋の渓谷でもあろう。

南無大慈大悲觀世音,願我速畢學業。
南無大慈大悲觀世音,願我早得真愛。
南無大慈大悲觀世音,願我親朋平安。
南無大慈大悲觀世音,願我家人安泰。

長相思・自作詞(2)

2009年10月27日 20時08分22秒 | 詩論私論

長相思•斷橋

蘇堤頭,
白堤頭,
印象西湖何日休?
斷橋寂寞愁。

花含羞,
鳥含羞,
寂寞橋邊望月愁,
君愁我亦愁。


注:1 斷橋は西湖の六公園付近にある橋の名前。『白蛇傳』の名に乗って人気を呼ぶのである。漢方医の書生許仙がこの橋の上、白蛇妖精の白娘子とめぐり会ったのである。

  2 蘇堤と白堤。唐の白楽天と宋の蘇東坡が杭州に在任した時、築いた堤である。二人の市長を記念するため、その苗字で堤を命名した。

  3 印象西湖。これは中国で名の高き張芸謀監督が西湖風景区で音、光、電などの先端技術を使ってデザインした大型山水実景の出演である。広西チワン族自治区の桂林にも「印象劉三姉」という同じ形のものがある。

長相思・自作詞(1)

2009年10月26日 10時08分06秒 | 詩論私論


長相思•金陵

中山陵,
西山陵,
日暮台城古道情,
環湖漫步行。

雲輕輕,
草輕輕,
未到離時意已縈,
隔江別後晴。

注:1 長相思•金陵。長相思は詞牌名で、友人や恋人などを偲ぶ時良く使われる。金陵は南京の旧名であった。
  2 中山陵。中国民主革命の先駆なる孫文先生のお墓。
  3 西山陵。即ち、明孝陵のこと。上の中山陵の西側に位置するので、西山陵を使うのは、詞牌名のルールを守るためである。
  4 台城古道。台城は南京の明城壁遺跡のこと。古くから名句があって、「最是無情台城柳」(唐·韦庄『台城』)であった。
  5 環湖。即ち、南京の玄武湖のとこ。ちょうど台城のすぐ傍に位置するから、その城壁に上ると、山紫水明の湖景色が眺められる。いいところだ。
  6 写真は台城の上。

憶江南(2)

2009年10月22日 10時22分49秒 | 風景開眼
 「江南憶,最憶是杭州。山寺月中尋桂子,郡亭枕上看潮頭。何日更重游?」また白楽天『江南好』の一部。今日は杭州。

 

 杭州をいえば、西湖を言わなければならぬ。まずは西湖の呼び方なんであるが、いったい「せいこ」か或は「さいこ」か、これは時々困ることになるであろう。しかし、中国では「せいこ」が一般的な読み方で、確かに入力する時は「さいこ」を使わないと出来ないが、以下で「さいこ」と読んでほしい。
              《水龍吟》
                 辛弃疾
 楚天千里清秋,水隨天去秋無際。遙岑遠目,獻愁供恨,玉簪螺髻。落日樓頭,斷鴻聲裏,江南游子,把吳鈎看了,欄杆拍遍,無人會、登臨意。
 ちょっと最近は「欄干コン」になるかも知れぬが、あちこちに行ってみる時、よく欄干を探してとても熱意に満ちていた。なぜ以上のものを引用するか、それが「江南游子,把吳鈎看了,欄杆拍遍,無人會、登臨意。」という所が好きだからである。「欄杆拍遍」を直訳すれば、「手で江南のすべての欄干をたたく」となるが、やはり「たたく」より「触る、撫でる、摩る」のほうがもっと的確であろう。僕の場合は「欄干を撮る」、中国語で「撮る」を言う時、よく「拍」を使うから、これも面白い表現である。
 灰色の欄干に長き蔓が付き纏う。
 西湖を欄干の背景にして、ロングショットをするのも一種の感動。
 丸いもの。方形物。獅子頭もの。色んな形の欄干。杭州の欄干。

 

 地図を見ると、西湖は杭州の西南部に位置、都市全体からすれば、四の一を占めるであろう。湖畔を歩いてみたら、九月の西湖は柳の糸が春と同じで、柔らかくて美人の眉まで連想させる。これも俳人守武の「青柳の眉かく岸の額かな」という句にぴったりする光景である。西湖は好い所だなあ!

              

  僕は写真専門ではないけれど、写真を撮る時、出来るだけいろいろ工夫して考えた。ショットの遠近や色、光など。その東屋もそうなのであった。所謂「黄金分割点」の所に置いて撮ったものである。それに天や山に近き、蓮の葉っぱ。九月は蓮の花がもう季節ズレで見えないが、幸いに葉っぱはまだであった。それに初めて新鮮な蓮の実を食った。

           

         蓮の実と杭菊のお茶。見事に調和する。

 

      西湖天地、一茶一坐。
          禅意・たっぷり……


 

 『愛たちの後ろ姿』。流石の「恋の天国」。年齢問わず、場所問わず。時問わず。愛は何処でも存在する!杭州、愛してる!

            

天地は万物のはたご屋で,光陰は百代の過客である.一人の旅人にとって、こんな風景はもう十分……

憶江南(1)

2009年10月21日 10時19分15秒 | 風景開眼
 日出江花紅勝火、春来江水緑如藍。能不憶江南?白楽天『憶江南』の一部。江南地区の風景や季節感を生き生きと描き出す秀作だと、薦めである。
 僕は先月11日から21日までの十日間で、南京、杭州、上海を旅していた。

 
 
 
  左:南京の中山陵、中国民主革命の先駆なる孫文先生のお墓なのである。
 右:明孝陵の一部、明代開国皇帝・朱元しょう(王辺に章)と奥さんの馬皇后との合葬(がっそう)墓である。
 南京は六朝の古都なり、西安と同じ、世界でもかなり有名な町なのである。僕は二日間(週末)滞在して、人気のある中山・明孝両陵だけに行った。中山より明孝が勧めである。特に日本の方ならば、ぜひ明孝のほうへ行ってみて、中では顔真卿碑林というのがあり、中日両国書道家の作が多く立ってある。あとは、僕は余裕あまりないから、総統府へ行かなかった。

  

 左:杭州の岳王廟にある岳飛のお墓。その右に立ってあるのは王の長男・岳雲のお墓である。南宋有名な英雄として中国で人気がある。墓の両側及びその下に石の翁仲や獣(馬、羊、虎)が墓を鎮護する。これらは一般的に帝王の陵墓しかないものなので、そこからすれば、岳王の地位がどれほど高いのが分かるであろう。
 右:岳飛を陥れる秦檜、王氏(下)、張俊、万俟卨(上)四人の鉄製像。四人とも罪人だから、同じ姿勢で跪いている。実はこれについて、ある日本人の友から聞いたことがある。中日生死観の問題だったが、我々二人でかなり深く話し合ったものである。一般論にして話すならば、やはり「日本人は死を尊敬する、中国人は死を恐れる」など、また「日本では良し悪しに関わらず、死んだら誰でも神や仏になれるから尊敬すべきだ。中国では輪廻や業などの考え方があってから、今世で悪いことばかりすると、きっと来世には報いがある」というような結論が出てくる。この死生観の問題も中日関係を改善し向上させるに一定の意義があるではないか。


本学・古き建物

2009年10月20日 09時45分16秒 | 心境写生



 

1ビンロウジの高き姿を青空の背景にして瞑想開始。住宅楼の表情は生き生きする。
2ロックされたのは青き思い出だけでなく……


  

3ホステスは留守中。老猫が一匹、俺のショットから逃げてしまった。
4『渡せる世は鬼ばかり』。漢訳は『冷暖人間』。ならば、色調だけでなく、世も 同じであろう。


 

5芭蕉の広長き葉っぱより、僕はよく柿本人麻呂のその歌を思い出した。
 「足引きの 山鳥の尾の しだり尾の 
       ながながし夜を ひとりかもねむ」
 芭蕉の葉も一種の長き偲びであろう。
6小さな庭に籐椅子。その上の茶色鉄製箱に幼い頃の秘密でも保存されていない?
 いつかタイムカプセルを作りたい。



7その夏休み、静かな昼ねと蝉の声……




尋隱者不遇

2009年09月03日 10時08分40秒 | 一週一詩
一週一詩2009年8月23日(日)~29日(土)

松下問童子,言師採藥去。只在此山中,雲深不知處。

此れをにして書いたこともあるので詳しく紹介しない。

江南之旅

2009年09月02日 21時54分06秒 | 通知布告
 九月。江南へ旅をします。

 11日から南京、杭州、平湖(未定)などに行く予定です。
 
 南京に友ありて週末を過ごす予定です。
 
 杭州に行くのは、浙江工商大学日本文化研究所と日本関西大学文化交渉学教育研究拠点とが共催する「東アジア文化交流――学術論争の止揚をめざして」国際シンポジウムに参加する予定なのです。七カ国約80名の学者が参加するので、楽しみです。西湖などの名所旧跡に行けることも。

 昔在職した平湖市にも行きたいですが、余裕があれば。

 九月@江南。一つの夢。一つの期待。

七夕

2009年08月26日 11時35分40秒 | 民風民俗
 今日は七夕(多那婆多『古事記』にこう詠まれる)である。

 日本古来の豊作を祖霊に祈る祭(お盆)に、中国から伝来した女性が針仕事の上達を願う乞巧奠(きっこうでん/きこうでん)や佛教の盂蘭盆会(お盆)などが習合したものと考えられている。そもそも七夕は棚幡とも書いたが、現在でもお盆行事の一部でもあり、笹は精霊(祖先の霊)が宿る依代である。
           ————フリー百科事典『ウィキペディア』

 七夕に関わる風俗も沢山ある。『西京雑記』に「漢彩女常以七月七日穿七孔針于襟褸、人倶習之」と記録された。これが「穿七孔針」についての最初の記録であろう。しかし、「針仕事の上達を願う乞巧奠(きっこうでん/きこうでん)」を除いてほかにも様々な風俗がある。

 例えば、喜蛛乞巧、針投げなどがある。

 まずは喜蛛乞巧。名の通り、蜘蛛の巣造り(網紡ぎの喩えであろう)で手先が器用かどうかを願う。南北朝時代から起源するという。しかしながら、各時代によってやや違うこともある。
 
 是夕,陳瓜果于庭中以乞巧。有喜子網于瓜上則以爲符應。
        『荊楚歳時記』南朝・梁代の宗懍より

 この日、果物を庭中に置ひて巧を乞ふ(ねがふ)。喜子(此処では蜘蛛の美称であろう)が果物に網紡がば、的中するという。
 
 五代王仁裕の『開元天寶遺事』に「七月七日,各捉蜘蛛于小盒中,至曉開;視蛛網稀密以爲得巧之侯。密者言巧多,稀者言巧少。民間亦效之。(訳:七月七日、蜘蛛を捕まえて小箱に置いて、暁になると、網の緻密さによって巧を得る。緻密なものならば器用である。そうでないと逆に器用でなくなる。民間はこれを倣うという)」とあった。

 各時代に的中するかどうかについて様々な方法があった。南北朝は網の有無、唐代は網の緻密さ、宋からは網の出来(形の良さや質など)。

 次は針投げ。これも巧を乞ふ(ねがふ)ためであった。道具が針なので上記の「穿七孔針」が源であろうと考えられる。しかし、やり方は別々である。この俗が明清時代から盛んに行われる七夕風俗である。

 明代・劉侗、于奕正の『帝京景物略』に「七月七日之午丟巧針。婦女曝盎水日中,頃之,水膜生面,綉針投之則浮,看水底針影。有成雲物花頭鳥獸影者,有成鞋及剪刀水茄影者,謂乞得巧;其影粗如錘、細如絲、直如軸蠟,此拙征矣。

 (訳:七月七日之昼、巧針投げる。婦人らは洗面器に水入れて日の下に置く。すると、水の面に針を投げる。針が軽いから、面に浮かぶ。すると、洗面器の底に針の影が映る雲花鳥獣の影もあれば、靴鋏のもある。所謂巧を得る。逆に影が鐘のように太く、糸のように細く、軸のように真直ぐならば、不器用とされる)」とある。

 勿論、七夕と言えば、一番有名なのは「牛郎繊女がかささぎ橋で年一度会ふこと」であろう。よく知られるから、余計な話はしない。

 カササギさん、頑張れ!橋はどこまで進むのかな!
 

如夢令

2009年08月24日 17時30分33秒 | 一週一詩
一週一詩2009年8月16日(日)~22日(土)

 昨夜雨疏風驟,濃睡不消殘酒。
 試問卷簾人,却道海棠依舊。
 知否?知否?應是肥紅痩。

 李清照(りせいしょう、1084年~1153年)は、北宋末期・南宋初期の詩人(詞人でもある)。斉州歴城(現在の山東省済南市)の人。夫は政治家の趙明誠。女流詞人として広く知られている。

 昨夜は雨が降り風が強かった。お酒を飲んで酔っ払うようになった。

 朝起きてみたら、まだ目眩がしていた。そのところに、卷簾人(簾を上げる女子使用人だったそうだ。これにも色んな説があり、定説として使用人が一般である)に庭の海棠の様子を聞いてみたら、「お変わりなくて無事だ」と答えてくれた。

 「知るかどうか!知るかどうか!」はとても強い疑問でリズムもとても素晴らしい。

 「馬鹿な子だ。行って見てください。緑(葉っぱ)が多くて紅(花)が散舞ったのじゃないか。」

 「詞はわが國の和歌ににて、やさしくうつくしいものであるが、李清照の詞はさらにそのうえに理智のかがやきがそえられて、清新な感覚のうちに、宋詞のもっともよい特質であるさびしさとほそみが、本格的なすがたをよそおってつつまれている點では宋詞のもっともよい例であるといっても過言ではない」中田勇次郎が称賛している。

 靖康の変や夫の急死などが故に、離別して流浪の生涯を送る中で優れた詞を多く生み出したと言う。

 雨降りて風強き中酒飲みし宵(酔い)
 花散るを君知らぬかな紅痩せる


 此れを旋頭歌にして記してみた。古典文法は難しい。どこかが悪かったらご遠慮なくコメントしてください。大感謝!


 



ばこ

2009年08月19日 13時54分38秒 | 徒然一句
住めば都、やれば男。

江南

2009年08月16日 14時13分01秒 | 一週一詩
一週一詩2009年8月9日(日)~15日(土)
 
 江南可採蓮,蓮葉何田田。魚戲蓮葉。
 魚戲蓮葉東。魚戲蓮葉西。魚戲蓮葉南。魚戲蓮葉北。



 蓮の葉が盛んに茂る様に「田田」という擬態語が使われた。新奇かつ綺麗だと思う。それに「東西南北」の四文字を通じて、魚の悠々たる様をも生き生きと写した。

 漢楽府・相和歌辞に属する此の民歌は、蓮の葉に目をつけて書かれた。清人沈潜は此詩の格調を「奇格」に評した(『古詩源』巻三)。

 『前三句の「江南可採蓮,蓮葉何田田。魚戲蓮葉。」は音頭が歌ったもので、「魚戲蓮葉東。」からの四句が合唱であろう。』と、余冠英先生が考えている。

 「衆についての描写が一箇所もないが、蓮の葉の茂る様や魚の群れなどによって、妙齢な少女がきっと数多いることが想像できるのであろう。此の詩の妙処はここにある」と私が思う。所謂「無我(無衆)の境によって有我(衆)の境に達する」のであろう。

関帝祭

2009年08月14日 15時47分55秒 | 民風民俗
 六月二十四日致祭関帝,歳以爲常。鞭炮之多,与新年無異。蓋帝之御灾捍患有于民者深也。
        ――《燕京歳時記》

 六月二十四日、関帝を祭る。此れぞ歳(とし)の常(ならわし)為る(なる)。爆竹之多、新年と異無し。帝のお守りこそ民に深き徳有りけれ。
        ――『燕京歳時記』

 『三国演義』の主人公。字は雲長。長い髯を持っていたため「美髯公」とも呼ばれた。劉備・張飛と「桃園結義」で義兄弟の契りを結んだ。義を重んじ、曹操に捕らえられた際も配下となることを拒んだが、恩義に報いるために袁紹配下の将軍顔良・文醜を殺した後、劉備のもとへ帰った。この道程は「関羽千里行」として知られる。赤壁の戦いに敗れて逃走する曹操を華容道で待ち伏せするも、かつての恩義を思い、見逃した。このことこそ帝が義を重んじるのを現した。青竜偃月刀を武器とし、呂布の乗っていた赤兎馬(この馬も主に忠義で千里馬の名で世に知られた)を乗りこなした。

 中国では人気のある英雄であり、後世、関帝聖君として道教の神に神格化されるに至る。中国各地で数多くの「関帝廟」があり、武神また財神として広く尊信されている。

 六月二十四日、関帝を祭る。