休日はデジカメ持ってぶらぶらと📷

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

竹野王石碑と南淵請安墓

2013-02-11 11:59:29 | 史跡を歩く
 以前から奥飛鳥と呼ばれるところに行ってみたいと思っていた。なかなか機会がなかったのだが、この度、思い切って行ってみることにした。自動車で石舞台古墳のある国営公園まで行き、そこにある駐車場に止めて、歩き始めることにした。
 そうやって歩き始めた奥飛鳥で、印象に残ったスポットだけ投稿してみようと思う。
 石舞台古墳から、祝戸を抜けて、棚田になっている谷を右手に見ながら歩いて行くと稲渕の集落に入っていく。昔ながらの日本家屋の家が立ち並び、どこか懐かしい気のする集落である。その稲渕の集落のはずれにある龍福寺という小さいお寺の境内の隅に竹野王石碑が建っています。この石碑は、もともとは5重の石塔であったが、現在は5層目と4層目が残っているにすぎない。しかし、塔に刻まれた銘文から、天平勝宝3(751)年に竹野王によって建てられたことがわかる。

  

 しかしながら、かなり磨滅しているので、ほんの何文字かしか解読はできない状況である。
 天平勝宝というと、孝謙天皇の時代である。匂うがごとくいま盛りなりのころであろう。この竹野王という人、事績のほうは知られていない。従二位という位にあった人だからそんなに身分は低くないと思う。長屋王(親王というべきか)の邸宅跡から出土した木簡にも、竹野王の名前は記されているらしい。ということは当時の政局の本流から外れた人であったのかもしれない。

 もともとこのお寺のあったわけではなく、どうやらこの近くの朝風峠にあったものをこの寺に写したものであるらしい。銘文にも、朝風の名前は刻まれている。
 そういったものが、人知れず残っているところに飛鳥の深さを感じますね。

 さらに稲渕の集落を奥に入っていくと、南淵先生墓という石碑に出くわす。


 
 
 この、案内に従って、細い道を登っていくとちょっとした塚になっている小さな祠がある。そこに南淵請安の墓が伝えられている。南淵請安という人は、飛鳥時代の大化の改新の中心人物である中大兄皇子と中臣鎌足が、この南淵請安の塾に通って、蘇我氏打倒の作戦を練ったといわれている。この人物自体は、遣隋使として、中国に渡っており、当時の最先端の知識を備えた人物だったのであろう。

 その人のお墓と伝えられているものである。

 
  


 小さな社の境内もきれいにされており、社の鳥居は、江戸時代の安政年間に建てられたもののようであった。
 何か、古くからの伝承があって、今に伝えられているような、ちょっと不思議な気分になる場所であった。
 見晴らしの良い場所により、飛鳥人の子孫たちを見守っているようなところであった。



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