休日はデジカメ持ってぶらぶらと📷

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

百舌鳥古墳群を歩く ⑱ ~大山古墳とその周辺(狐山古墳・竜佐山古墳・孫太夫山古墳)その7~

2019-07-24 06:48:39 | 史跡を歩く

銅亀山古墳から少し南に歩くと、府道197号線に出る。ここが大山古墳の南端にあたる。横断歩道の向かいにあるのが狐山古墳である。

 道路を渡ると、そこからは大仙公園の中になる。ただし、狐山古墳は、仁徳天皇陵は号陪冢として宮内庁が管理をしている。墳丘は、東西方向が直径27m、高さが2.2mとなっており、観察していると楕円形のように見える。

 

 ただ、近年の発掘調査において、確認されている堀の形からは、円墳でない可能性も指摘されている。この古墳からは、人物、衣蓋型、囲型埴輪や円筒埴輪などが見つかっている。

 狐山古墳の築造年代は、円筒埴輪などから大山古墳より」少し遅れて5世紀後半の築造と考えられている。

 

 後ろから見ると方墳にも見えるなあ。この古墳の後ろを狸小路という小径が市立図書館まで続いている。

 

 狐山の裏に狸の小径があるのが何となくユニーク。

 狐山古墳から、府道197号線、通称御陵通を東へ歩くと、道路の右手に竜佐山古墳が見える。面白いことに歩道を歩いていると一部、この古墳の濠にかかるためその上を通るようになっている。

 

 古墳の後円部の墳丘と同じ高さで見ることができる。

 竜佐山古墳は、大山古墳の陪冢と考えられ、仁徳天皇陵ろ号陪冢として後円部については、宮内庁が管理している。前方部と濠については、大仙公園を作る際に、整備したものである。この整備については、発掘調査の結果を踏まえていないという話である。

 

 墳丘の形については、帆立貝形の古墳であり、墳丘の長さは、61mとなっている。ちなみに埋葬施設は不明。

 この古墳からは、衣蓋型埴輪や円筒埴輪が、公園の整備に伴う範囲確認調査の時に見つかっており、その円筒埴輪から得られる古墳の築造年代として、5世紀の末ということであり、大山古墳が築造された年代よりは若干後になりそうである。

 

 竜佐山古墳については、世界遺産を構成する古墳の一つである。

 その竜佐山古墳のさらに東にあるのが、孫太夫山古墳である。

 

 この古墳も後円部の墳丘については、狐山古墳、竜佐山古墳などと同様に仁徳天皇陵のい号陪冢として宮内庁が管理しており、周濠と前方部については堺市が管理している。

 

 孫太夫山古墳についても、竜佐山古墳と同様に大仙公園を整備する際に、周濠と前方部を復元整備しており、これについても、その時行われた発掘調査の成果に基づいて復元されていないという指摘がある。

 孫太夫山古墳については、墳丘長56mであり、竜佐山古墳よりは、少し小さい。古墳の形は、竜佐山古墳と同様に帆立貝型の古墳である。こうやって歩いてみると帆立貝型の古墳が結構多い気がする。大山古墳の周辺にある古墳でも、収塚古墳、鏡塚古墳、菰山塚古墳、丸保山古墳、竜佐山古墳、孫太夫山古墳がそうである。

 

 範囲確認調査時の採集された埴輪片から大山古墳が築造されたのと同時期に築造されたと考えられている。同じ大山古墳の陪冢と考えられる古墳でも、築造年代が若干ずれているのが面白い。一度に全体が整備されたのではなく、徐々に時間をかけて周辺の陪冢等が整えられたのだろう。

 孫太夫山古墳という珍しい名前は、明治初年、南孫太夫という人が国へ寄進したことによるようだ。

 これで、大山古墳の周辺の古墳は、すべて見て回ったことになる。最近では、百舌鳥古墳群を見て回った写真を見せると、もずふるカードが博物館や観光案内所でもらうことができる。やってみると意外と楽しい。そういえば、小さい頃仮面ライダーカードを集めることが流行ったけど、それと一緒かな。

 もずふるカードについて詳しくはこちらを参照。⇒百舌鳥・古市古墳群を巡って「MOZU-FURU CARD」を集めよう。」


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 二上山博物館 ~會津八一歌碑~ | トップ | 百舌鳥古墳群を歩く ⑲ ~檜... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

史跡を歩く」カテゴリの最新記事