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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

畝傍山周辺の御陵③ ~安寧天皇陵・懿徳天皇陵~

2017-12-08 23:04:25 | 史跡を歩く
 畝傍山を西側に回り込むと畝傍山口神社の看板が出ていて、すぐにでも神社に参れそうな感じであったのだが、天候がかなり不順な状態であったため、ここで雨に会うと大変だということで、ここは諦めて見逃し、安寧天皇陵をめざすことにした。
 畝傍山も西側から見ると山の形が違って見える。真ん中のあたりがへこんでいるように見え、昔、火山であったという話もさもありなんという気がしてくる。

 

 そして、南を向いて右側の方に安寧天皇陵と思われる鬱蒼とした森が見える。古墳というよりは山の尾根の先端のような感じだ。

 

 実際、安寧天皇陵については、公式には、山形とされ、前方後円形とか方形とかになっていない。おそらく古墳等ではないのだろう。

 

 安寧天皇陵は、正式には、安寧天皇畝傍山御蔭井上陵と呼ばれる。所在地については長年不明であったが、文久の修陵の際に、安寧天皇陵と定められ修補されたとのこと。なお、安寧天皇陵の治定の根拠となった「御蔭井」は安寧天皇陵の南の集落に残っていて宮内庁により管理されているらしい。残念なことに、この時には、そういう話があるということも知らず全くの素通りをしてしまった。惜しいことをした。

 

 ちなみに安寧天皇については、欠史八代にあたる天皇であり、綏靖天皇の第一皇子であり、皇后が、渟名底仲媛命とされる。実在性としてはかなり怪しいものがあり、記紀を編纂する時に、創作された天皇であると考えられている。

 この安寧天皇陵から、次の第四代天皇とされる懿徳天皇陵までは、そう遠くなく、陵前に懿徳天皇陵の方向を示した標識が立っているのだが、これが案外曲者だったりするのである。

 

 案内としては中途半端で、標識の指し示す方向をめざして歩いていくと住宅地の中に入って、懿徳天皇陵の裏側に突き当たってしまう。途中どんどん道が狭くなるので間違ったかなという気はしていたのだが・・・。

 

 結局、標識の立っている道を道なりに歩いていくのが正しく。そうするともう一本、案内の標識がいると思う。道は間違いなくカーブしているのだから。

 

 懿徳天皇陵とされている森も、丘陵の一部であり、古墳などではないらしい。ここも宮内庁では山形とされている。

 

 懿徳天皇陵については、正式には懿徳天皇畝傍山南纖沙溪上陵とされる。この天皇も、欠史八代と言われる天皇の一人であり、系譜以外の事績等は伝わっていない。まあ、むりくた天皇家の始まりを古くするために付け加えられた天皇の一人だということなんであろう。

 

 橿原公苑内にあるイトクノモリ古墳が、懿徳とイトクの符合から懿徳天皇陵とする考え方もあったが、マナゴという地名の一致からこの場所に治定されたものである。

 

 懿徳天皇陵からは、橿原神宮西口駅が近いのだが、雨も止んできたので、橿原神宮を参拝して帰ることにした。

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