この日の斑鳩での會津八一の歌碑探索は、最後の上宮遺跡公園を探し当てて終了となった。着いたときは夕刻に近かった。ここでも何かイベントが行われていたようであったが、着いた時にはもう撤収作業が終わりかけていた。
公園の入り口には、百人一首で知られる在原業平の和歌「ちはやぶる かみよもきかず たつた川 からくれないに 水くぐるとは」の歌碑がある。
不思議なもので、学生の頃覚えさせられた百人一首。今でもいくつかまだ覚えている。あの時に覚えたことは、なかなか忘れない。今思えばもっといろいろなことを覚えておけばよかった、しみじみ思う。学校の先生が、まず暗記、理解は後からついてくるという言葉は確かだったなあ。
上宮遺跡公園は、聖徳太子の葦垣宮跡と伝えられる成福寺というお寺の近くにあり、公園整備あたり発掘調査を行ったところ、奈良時代の大型建物跡が7棟も見つかり、また、溝の跡からは、平城宮で使われたのと同じ軒丸瓦が出土しており、この奈良時代の遺構は、称徳天皇の行宮、飽波葦垣宮跡であろうと考えられている。
また、直接飛鳥時代の葦垣宮を想定させる遺構は検出されていないが、飛鳥時代のものと考えられる土器や瓦が出土しており、この地に仏教的建造物あったと想定されている。
ちなみに、見つかった奈良時代の建物跡は、公園の南側に芝生地帯となって残されているようだ。
この公園の、北東に會津八一の歌碑がある。
歌碑には以下のように八一の歌が刻まれている。
「いかるが の をとめ は よもすがら きぬはた おれリ あき ちかみ かも」と書かれており、歌碑の左上には、五重塔?と思しきものが彫られている
この歌の歌意としては、斑鳩の娘たちは 一晩中、機織りをやっているのは、秋も近いということだろうという感じである。
自註によれば、會津八一が、奈良や斑鳩を訪れたのは明治41年(1908)とのこと。28歳の時である。
この上宮遺跡公園には、このほか、いくつかの歌碑がたっている。一つは万葉歌碑、これは犬養孝氏の揮毫で作られている。万葉仮名で「斑鳩の因可の池の宜しくも君を言はねば思ひそわがする」という歌が彫られている。
また、聖徳太子の御製の和歌の歌碑もある。
この歌碑は、草でかなり埋没しており見つけるのが大変であった。日本書紀等に出てくる片岡山伝説のもととなった歌である。
四つの歌碑を探し終えて、公園を後に帰路に就くことにした。その時は、すでにかなり暗くなっていた。この日は、とにかくよく歩いたものだ。
公園の入り口には、百人一首で知られる在原業平の和歌「ちはやぶる かみよもきかず たつた川 からくれないに 水くぐるとは」の歌碑がある。
不思議なもので、学生の頃覚えさせられた百人一首。今でもいくつかまだ覚えている。あの時に覚えたことは、なかなか忘れない。今思えばもっといろいろなことを覚えておけばよかった、しみじみ思う。学校の先生が、まず暗記、理解は後からついてくるという言葉は確かだったなあ。
上宮遺跡公園は、聖徳太子の葦垣宮跡と伝えられる成福寺というお寺の近くにあり、公園整備あたり発掘調査を行ったところ、奈良時代の大型建物跡が7棟も見つかり、また、溝の跡からは、平城宮で使われたのと同じ軒丸瓦が出土しており、この奈良時代の遺構は、称徳天皇の行宮、飽波葦垣宮跡であろうと考えられている。
また、直接飛鳥時代の葦垣宮を想定させる遺構は検出されていないが、飛鳥時代のものと考えられる土器や瓦が出土しており、この地に仏教的建造物あったと想定されている。
ちなみに、見つかった奈良時代の建物跡は、公園の南側に芝生地帯となって残されているようだ。
この公園の、北東に會津八一の歌碑がある。
歌碑には以下のように八一の歌が刻まれている。
「いかるが の をとめ は よもすがら きぬはた おれリ あき ちかみ かも」と書かれており、歌碑の左上には、五重塔?と思しきものが彫られている
この歌の歌意としては、斑鳩の娘たちは 一晩中、機織りをやっているのは、秋も近いということだろうという感じである。
自註によれば、會津八一が、奈良や斑鳩を訪れたのは明治41年(1908)とのこと。28歳の時である。
この上宮遺跡公園には、このほか、いくつかの歌碑がたっている。一つは万葉歌碑、これは犬養孝氏の揮毫で作られている。万葉仮名で「斑鳩の因可の池の宜しくも君を言はねば思ひそわがする」という歌が彫られている。
また、聖徳太子の御製の和歌の歌碑もある。
この歌碑は、草でかなり埋没しており見つけるのが大変であった。日本書紀等に出てくる片岡山伝説のもととなった歌である。
四つの歌碑を探し終えて、公園を後に帰路に就くことにした。その時は、すでにかなり暗くなっていた。この日は、とにかくよく歩いたものだ。
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