休日はデジカメ持ってぶらぶらと📷

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

太田茶臼山古墳(継体天皇陵)

2014-07-13 15:03:47 | 史跡を歩く
 このブログで初めて北摂のことを取り上げると思う。今城塚古墳とこの太田茶臼山古墳だけは行ってみたいという願いをこのたび実行に移すことにした。
 
 ■遥拝所 

 

 太田茶臼山古墳については、現在継体天皇藍野陵として宮内庁が管理している。しかしながら、多くの古代史を研究している歴史学者あるいは考古学者からは、この宮内庁の治定が怪しいとされている古墳である。

 継体天皇自身が、かなり謎の多い天皇(たぶんこのころは大王と呼ばれていた。)で、跡継ぎのいなかった武烈天皇のあと、応神天皇の5世の孫として越前の国から大和に入り、皇位についたと言われる。その間、大和に入るまでに約20年の歳月がかかっており、樟葉宮、筒城宮、弟国宮など大和の周辺を転々としたとされる。おそらくすんなりと大和にはいれなかった何らかの事情が推察され、ここから、継体天皇の時に、王朝交代があったとされる。
 系図的にも、応神天皇の5世の孫であるのかも、記紀では省略されており、あやふやなところがある。実際、大和に入ってから、応神直系の後裔と考えられる手白香皇女を娶っている。このことも何らかの王朝に交代があったことをうかがわせている。
 
 この継体天皇の即位を支えた勢力の一つが、この北摂の三島地方だと言われている。

 そして、この太田茶臼山古墳であるが、築造は、出土した埴輪の様式などから5世紀の中期と考えられている。このことだけでも、確実に継体天皇と呼ばれた人物がここに葬られていないことがわかる。(継体天皇が在位したと考えられるのは、6世紀前半である。)おそらく2世代ほど前のこの辺りの王と呼ばれた人物の墓ではないかと考えられる。

 ■太田茶臼山古墳の前方部

 

 もう少しデータを記載してみる。
 墳長は、226m、前方部幅147m、後円部幅135mの巨大な古墳であり、周囲に幅20mから30m幅の周濠を持っている。府下でも古市・中百舌鳥古墳群以外でこれほどの大きさの古墳は、この古墳ともう一つ、継体天皇の真陵と考えられる今城塚古墳しかない。

 古墳を訪ねてみて、フェンスの隙間から眺めてみると、墳丘のフォルムがはっきりしていて、造り出しの部分もはっきりわかる。周濠の水量も豊かだった。

 ■太田茶臼山古墳の後円部

 

 墳丘の形の美しい古墳なのだが、住宅に囲まれていて一周することもできないのが非常に残念。

 また、周囲には陪冢は、8基ほどあるそうなのだが、僕が実見できたのは2基のみ。住宅街の1基と児童公園の中の1基だけでした。

 ■へ号陪冢

 

 ■と号陪冢

 

 この古墳で出土した埴輪は、この近くの新池埴輪遺跡で作られたものであることが明らかになっており、また、今城塚古墳で出土した埴輪も同様の遺跡で作られていたらしい。この古墳の埋葬者と今城古墳に埋葬されたと考えられる継体天皇とは何らかの関係があったことが想定される。継体天皇と近江系の氏族との関わりも想定されていることから、淀川水系を軸とした豪族がバックアップしていたのかもしれない。そう考えると、夢の膨らむ話である。

 ■太田茶臼山古墳の遠景

 

 


 

 

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