Memorandums

知覚・認知心理学の研究と教育をめぐる凡庸な日々の覚書

至近因と究極因

2007-11-17 | Psychology
母親はなぜ子どもをかわいがるのか。その説明のために2つの「原因」を区別することがある。以下、その至近因と究極因の解説。

内井惣七(京都大学) (1999). 道徳起源論から進化倫理学へ 『哲学研究』566号掲載
生物学的基盤から倫理へ
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~suchii/ev.lec-4.html
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心理学と「客観性」すなわち「相互主観性」の問題

2005-11-17 | Psychology
 心理学において、事象が「客観的」にとらえられているかが問題となるが、しばしばそのような客観性は存在しないという主張がある。これは必ずしも新しい議論ではないが、近年の社会的構成主義の立場からは、あらためてこのような「客観性」が、まさにその状況のなかで「構成」されたものとして批判の対象となっているように思われる。
 これに対して、科学における客観性とは、あくまでも観察者相互が主観的にとらえた事象が一致する(*)範囲において成り立つものといえる。すなわち「相互主観性」が客観性の現代的意味であることは、以前に述べたとおりである。確かにこのような相互主観性が、日常の経験のなかでしばしば成立しないことは、われわれの日常におけるさまざまな「誤解」を想起するまでもなく、明らかであろう。しかし、そのことをもって心理学における客観性すわわち相互主観性が成立しないという批判は、的外れであるように思われる。なぜならば、科学としての心理学は、上記の意味での相互主観性が保証される(それは必ずしも、再現可能性を意味しない**)範囲において現象の記述と説明を試みるのであって、まさにそのような範囲と日常経験のギャプを埋める努力を積み重ねているからである。
 したがって、心理学は現時点でそのような相互主観性が確保された範囲を超える問題については語ることができない。もし、その範囲があまりにも現実の経験からかけ離れて狭すぎる、という批判が妥当であるならば、それは受け入れなければならないだろう。ただし、本質的にそのような相互主観性の保証が困難な現象は、少なくとも科学の問題とはなりえないであろう。

* たとえば錯視の測定において、ある個人が経験する錯視(に基づく行動)を複数の観察者が一定の条件下で観察する(これは主観である)ことができ、観察者間で相互にその主観(観察経験)が一致する場合に、「客観性」を認めることができる。もちろん様々な要因が混入すれば(疲労など)測定値が変化することがあるので、可能な限りこれらの要因を統制することが重要となる。しかしこれは恣意的な「構成」とは異なる。
** 天文学や地震のついての科学的研究を想起してほしい。

(2005/11/17 補足追加)
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社会構成主義と心理学

2005-06-21 | Psychology
 杉万(下記参照)によれば、いわゆる「社会的構成主義」は、広義の生理的因果メカニズムの追求に対するアンチテーゼとしての意味をもつ、とされているようだ。しかし、私見では少なくとも現代の知覚研究においては、現象は脳身体系と外界との関係の中で科学的メカニズムによって説明されようとしているのではないか。したがって、彼の「心を内蔵した肉体」という批判は一面的であるように思う。

References
杉万俊夫 「心理学論の新しいかたち」(誠信書房、近刊)
http://www.users.kudpc.kyoto-u.ac.jp/~c54175/research/theoretical_study/T-012.htm
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「○○療法」の科学性と求められるもの

2005-06-10 | Psychology
 心理学の周辺では(もちろんその内部でも)○○療法と称される研究がしばしばみられる。例えば、音楽療法などはしばしば学生も興味を持つものの一つであり、また通俗的にもマスコミに取り上げられやすい。
 さて、「科学的」にそのような○○療法の有効性を実証しようとする場合、実験的にその療法の効果を検討することが行われるが、その方法の基礎は以下のようなものになろう。ひとつは統制群法であり、当該の療法を実施した群と実施しない統制群を設けて、両群をその療法の処遇以外は等質になるように工夫するものである。その上で、両群の結果を何らかの測度(○○検査得点など)において比較し、統計的に有意な差をもってその療法の効果を認めるものである、
 あるいは、一群の被験者群に当該療法を実施する前後で測定を行い、両者を比較する事前事後計画が用いられることもある。さらには統制群法と事前事後法を併用することによって、より明確に療法の実施と測定結果の間の因果関係を検証することが行われる。
 このような方法は、心理学教育の二年次などで解説されることであるから、特に目新しいことではあるまい。重要なことは、これらの方法で仮に統計的に有意な差が見出されたとしても、それだけでは「何ら科学的説明の有効性を保証するものではない」ということである。つまり、その療法の「何が」有効であったのかは別に仮説として明言されている必要がある。たとえば、音楽のうちの何が(周波数、テンポ、等々)影響を与えたのか。「Mozartの音楽」のような記述では、その何が測定結果との間に因果関係をもっていたのかわからない。Mozartの音楽ならば、Clara Haskilの演奏でも隣の子どものお稽古でも同じとはだれも言わないだろう。
 このようなcriticalな要因についての仮説なしには、実は統制群を設定することもできないはずである。なぜなら、その要因以外をすべて等質にすることが統制群法の要点であるからだ。そこに音楽療法の効果を検証することの困難さがあることは、すでに40年も前に指摘されていることである(梅本,1966)。
 有効な仮説を欠いた統制群法の適用は、しばしば教授法の研究や入試方法の検討でもみられるものである。安易に入試方法別に入学後の成績を比較して、入試方法の妥当性を論じようとするだけでは、少なくとも上と同じ点で科学的説明にはならない。各群においてどのような要因(変数)がいかに関係して、結果としての成績が得られたのか、その仮説ないしモデルなしには検証は成立しない。
 それでは、○○療法についての「科学的」検証に現在もとめられることは何であろうか。少なくとも現時点では、当該療法を実施する過程でどのような要因がいかに関係しているか、について綿密な観察を行うことであり、そこから有効と思われる仮説を提案することであると思う。それには当該療法の習熟した「専門家」が、療法を実施した際のメカニズムについての仮説を常に意識しながら科学的観察を行い、再現と検証が可能な記述を継続する必要があろう。

References
梅本堯夫 1966 音楽心理学 誠信書房

 
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「質的心理学」をめぐって

2005-06-09 | Psychology
 近年、質的研究が盛んである。「語り、物語」を中心に分析するナラティブ(narrative)アプローチを特色とするようだ。修士論文でもそのような方法をとる例がみられるが、私見では以下の点が気になるところだ。
1)現象をとらえる際に、事実との「関係」を明らかにすることが可能であるように、充分な事実が収集され、記述されているか。
2)単なる報告の羅列と「常識」の追認ではなく、そこからあらたな「仮説」あるいは独創的な提案が示されているか。
3)学問としての知識の集積と体系化が今後どのように行われるのか。
 
References
フィールドの語りをとらえる質的心理学の研究法と教育法
http://www.k2.dion.ne.jp/~kokoro/quality/index.html
日本質的心理学会
http://quality.kinjo-u.ac.jp/
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DANIEL KAHNEMAN

2005-02-10 | Psychology
In its announcement, the Royal Swedish Academy of Sciences cited Kahneman "for having integrated insights from psychological research into economic science, especially concerning human judgment and decision-making under uncertainty." Kahneman's work, it said, has laid the foundation for a new field of research by discovering how human judgment may take shortcuts that systematically depart from basic principles of probability. (Oct. 2002)

Reference
http://webscript.princeton.edu/~psych/psychology/research/kahneman/index.php
http://www.princeton.edu/pr/home/02/1009_kahneman/hmcap.html
http://webscript.princeton.edu/~psych/PsychSite/fac_kahneman.html
http://nobelprize.org/economics/laureates/2002/kahneman-autobio.html
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Psychology: An introduction

2005-01-25 | Psychology
 心理学をめぐる話を書くにあたって、あらかじめ前提を整理しておくことにしたい。Webで公開している以上、第三者に理解しづらいことを書き連ねることも気が引けるからだ。
 さて、心理学という学問にはさまざまな期待と誤解がつきまとってきた。そこには学問としての心理学を発展・深化させてきた議論もあれば、すれ違いの論争や的外れの中傷も少なくないように思う。
 そもそも、こころについて何事かを語ろうとすれば、われわれは何らかの枠組みを用いないわけにはいかない。それは個人の体験のこともあるが、少なくとも共通理解が可能な言語や概念の体系を無視しては成り立たないであろう。
 学問としての心理学は、しばしば言われようにscienceとしてsystematicにこころを説明しようとしている。ここであえて「科学」や「体系的」という日本語を避けたのは、これらの日本語が時に限定的・固定的にとらえられてきように感じるからである。このことは今後このサイトで具体的に論じられるだろう。
 それでは、scienceとしての心理学はこころをどのようにとらえ、論じようとしているのだろうか。そこには他の科学と同様に、「客観的」事実を根拠とした合理的な説明が必要である。ここでは、「客観的」ということの現代的な意味は、主観によって相互に捉えうる現象的事実として理解されるべきである。このことも、必要に応じて今後の具体的に論じられるだろう。
 合理的な説明の枠組みとして、心理学はこれまでいくつかの体系systemを模索してきた。刺激と反応の関係についての行動の法則と、その説明としての広い意味での神経生理学的モデルは大きな役割を果たしている。しかしこのモデルは必ずしもこころを閉じた脳の機構に還元するものではない。外界(状況)と個体の行動の関係は、状況の記述・分析と不可分であり、むしろ心理学はそのような行動を生起させる状況の記述から出発しているとも言える。
 今日、この種の神経生理学的モデルは認知心理学Cognitive Psychologyの分野で情報処理過程として理解されることが多いが、一方で状況の記述に重きをおく人々の主張もしばしば議論の俎上にのぼる。次回以降、これらの学問的事情を具体的にみていきながら、神経生理学的実体とは異なるレベルでの「説明」について考えることにする。
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