現れのモノ・コトの本質が「空性」であるのは当然なことながら、ではその本質としての「空性」の現れを「自証」は捉えられていないのかどうか。
つまり、私たちの認識においては、「虚偽の現れ」のみではなく、「虚偽の現れ」と共に「空性の現れ」も同時に捉えることができているのではないだろうかということ。
しかし、その「空性の現れ」は無明によって排斥されてしまい、結局は、「虚偽の現れ」のみとなることで、「真実執着」という問題を起こしてしまっているということであります。
私の仮説としては、無明による「虚偽の現れ」と共に、まるであたかも遮光塗料が少し剥げたところから光が漏れて見えてしまっているように、「空性の現れ」が識に届いてある可能性が否定できないということであります。
やがて、無明という遮光塗料を仏道修行によって徐々に剥がしていくことに成功していけばいくほどに、「虚偽の現れ」は薄まり、「空性の現れ」の度合いが増していくことで、「正智」へと近づくことができていくという感じであります。
この上記の観点から、実は、今回の講座においては、蝋燭の焔とスス、ススが着くガラスを用いて、その認識のありようについて比喩的に説明させて頂いたのであります。
つまり、私たちの認識においては、「虚偽の現れ」のみではなく、「虚偽の現れ」と共に「空性の現れ」も同時に捉えることができているのではないだろうかということ。
しかし、その「空性の現れ」は無明によって排斥されてしまい、結局は、「虚偽の現れ」のみとなることで、「真実執着」という問題を起こしてしまっているということであります。
私の仮説としては、無明による「虚偽の現れ」と共に、まるであたかも遮光塗料が少し剥げたところから光が漏れて見えてしまっているように、「空性の現れ」が識に届いてある可能性が否定できないということであります。
やがて、無明という遮光塗料を仏道修行によって徐々に剥がしていくことに成功していけばいくほどに、「虚偽の現れ」は薄まり、「空性の現れ」の度合いが増していくことで、「正智」へと近づくことができていくという感じであります。
この上記の観点から、実は、今回の講座においては、蝋燭の焔とスス、ススが着くガラスを用いて、その認識のありようについて比喩的に説明させて頂いたのであります。