日記

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講座の比喩

2021年09月19日 | 徒然日記
現れのモノ・コトの本質が「空性」であるのは当然なことながら、ではその本質としての「空性」の現れを「自証」は捉えられていないのかどうか。

つまり、私たちの認識においては、「虚偽の現れ」のみではなく、「虚偽の現れ」と共に「空性の現れ」も同時に捉えることができているのではないだろうかということ。

しかし、その「空性の現れ」は無明によって排斥されてしまい、結局は、「虚偽の現れ」のみとなることで、「真実執着」という問題を起こしてしまっているということであります。

私の仮説としては、無明による「虚偽の現れ」と共に、まるであたかも遮光塗料が少し剥げたところから光が漏れて見えてしまっているように、「空性の現れ」が識に届いてある可能性が否定できないということであります。

やがて、無明という遮光塗料を仏道修行によって徐々に剥がしていくことに成功していけばいくほどに、「虚偽の現れ」は薄まり、「空性の現れ」の度合いが増していくことで、「正智」へと近づくことができていくという感じであります。

この上記の観点から、実は、今回の講座においては、蝋燭の焔とスス、ススが着くガラスを用いて、その認識のありようについて比喩的に説明させて頂いたのであります。

なぜ後期中観思想の論師たちが「形象虚偽」と「形象真実」の議論に拘ったのか?

2021年09月19日 | 新日記
後期中観思想の論師たち、ツォンカパ大師の高弟たちも、なぜ論理破綻の主張が多い唯識思想において、その思想の中でも特に「形象虚偽」か「形象真実」かの議論に拘ったのか?

それはやはり最終的な「空性」の認識の状態に「形象虚偽」か「形象真実」かが関わってくるからであると考えています。

特に今、私が注目しているのが、「形象虚偽」が主張する「識は清浄な水晶の如き」という、その「清浄な水晶の如き」の内実がどのようなものとなるのか、ということであります。

前回において、

「形象虚偽」は、「もともとの自証は、真実を認識できていないが、真実を認識できるように調える」という方法論

「形象真実」は、「もともとの自証は、真実を認識しているが、それを妨げているものがあるため、その妨げを取り除いていくように調える」という方法論

としましたが、「形象虚偽」が「識は清浄な水晶の如き」と主張するならば、もともと自証は清浄であり、真実を認識できていると考えることができなくはないからであります。

つまり、もともと自証は清浄であり、真実を認識できているが、無明という汚れがそれを覆ってしまっているために真実を認識できていないとなれば、「形象真実」と同じような状態と考えることができます。

清浄な水晶が、全てを黒く覆われてしまっていれば別ですが、皆がそうでないのであれば(凡夫でもその状態は様々に異なるはずです)、対象を正しく認識できていることも当然にありえるということになるはずです。(自証で空性を認識できているものが、凡夫でもわずかでもありえるということです)

私たちがモノを認識する際に、もともとそれは何かはわからないもの、何かは決められないもの、実体がわからないもの、自性はわからないものと、どこか自証で認識できていることがあるかどうか。

もちろん、現量だけでなく、分別知・概念知・言説の量でも「空性」を認識できているものがあるかどうかということにも関わってくるものとなります。

このあたりのことを考える上で、「形象虚偽」か「形象真実」かが問われてくるものになるのだと考えています。