平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

ES細胞(2006年2月号)

2006年03月01日 | バックナンバー
 人体は無数の細胞から構成されているが、ある臓器の細胞は特定の機能しか持っておらず、他の臓器の細胞に変化することはできない。これに対してES細胞は、あらゆる臓器に分化する能力を持っている。ES細胞は通常は受精卵から取り出される。ES細胞を利用して臓器を培養し、現在は治療不可能な病気や怪我の治療(再生医療)に利用することができると考えられている。

 ES細胞の研究には卵子が用いられる。卵子を入手するためには、排卵誘発剤やホルモン剤を投与するので、女性の体に大きな負担をかける。提供者への十分な説明とケアが必要である。卵子をお金で買い集めれば、生命倫理に違反するし、もし教授が部下や学生に卵子を提供させれば、地位や権力を利用した強要(アカデミック・ハラスメント)となる。受精卵は人間として誕生する能力を持っているので、研究目的で安易に使用することは、生命の冒涜と紙一重である。

 韓国ソウル大学教授・黄禹錫(ファン・ウソク)氏は、ES細胞の研究者として世界的に有名であった。黄教授は当初、卵子の取得をめぐる倫理面で疑惑が持たれた。これだけでも重大な問題であるが、さらに、黄教授が作ったとされる、世界初のヒト・クローン胚を使ったES細胞が偽造であったことが判明した。

 黄教授はなぜこんな虚偽論文を捏造したのか。科学者であれば誰しも、できればノーベル賞を受賞し、その名を歴史に残したいと考えるだろう。しかも、科学後発国である韓国は、科学の分野でまだノーベル賞を受賞していない。ノーベル賞最短距離にいた黄教授は、韓国の英雄であった。次々と目覚ましい業績を出してみせた黄教授の研究室には、政府から多額の特別研究費が投入された。黄教授は、成果をあげ、韓国民の期待に応えなければならない、というプレッシャーにさらされていたのだろう。

 科学界の競争は熾烈である。競争は論文の質と数によって行なわれる。「ネイチャー」や「サイエンス」などの一流誌に論文が載ることは、学術的評価を高めるだけではなく、大学や研究所のポストや研究費の額など、学者の生活さえ左右する。医療や技術という、実生活に応用される研究であれば、特許料などの富に直結する。そういう状況の中で、論文捏造の誘惑に駆られる学者も出てくるし、倫理面の違犯も行なわれるのだろう。

 科学者が倫理意識を高め、自分を厳しく律しなければならないことは当然だが、「成果」を求めてこのような状況を煽っている政府、企業、国民にも責任がないとは言えない。結局のところ、肉体生活をより快適にしてほしいという人類一人ひとりの欲望が、科学と科学者を突き動かしているのかもしれない。