おおさか佳巨 街頭演説のブログ

減価する地域通貨ですべての改革

武法

2008年04月24日 22時58分10秒 | Weblog
左翼的市民運動、リベラル、保守、右翼的民族運動、永田町の既成政党、地方議員の勢力など、十年以上にわたり、自分が修行してきたこと、その戦略・戦術・実行にあたる「武法」ををここに書き記す。

東京都渋谷区代々木出生の大坂佳巨、37歳は政界では鼻たれ小僧の類いに属される。23歳のときに日本新党に入党し、自由民主党が史上初めて下野した政権交代を垣間見る。以後、50数度ほど選挙運動を経験し、その間、選挙対策本部長、選対事務局長、弁士、遊説隊長、議会工作、政策立案、広報作成、新聞編集など携わる。他にも、住民投票運動やゴミ問題、薬害エイズなどの運動もした。経済活動では土木作業に始まり、不動産業経営者まで行き、企業防衛や暴力団対策など、経済活動でもあまり営利と関係のないところを得意とした。

選挙のほとんどは反自民・反共産の立場であったが、首長選挙などでは、自民や共産と組む場合もあったから、ほぼ全ての政党を見まわすことができた。選挙に敗北はしても、掲げた政策のほぼ全ては実行されている。

27歳のときに中野区議会議員補欠選挙に無所属で立候補し、投票率24%で5492票。翌年本選挙に立候補して悪名高き現職7人を下したものの、130票ほど足らず。前回の定数ならば当選ラインだったが、削減により落選となる。私には中野区という左派的な支持者が多い中、石原慎太郎東京都知事の推薦を受けての立候補であったから、反発を買った。みなこれを敗因とする人たちが多いが、自分にとっては何の後悔もない。

以後、この右派と左派という、古くからある既存の壁について極めて疑問を持つようになったのである。その後、自由連合で修業し、地方議員経験者らと平和党を結成。一昨年より代表に就任し、地方からの改革のため、昨年東京から千葉県東金市に本部を移した。「党」を名乗ることは不利であることは重々承知の上、精鋭化を図るため、賛同者の本気度を測るためにも、そのようにした。

この左右両派の腐りきった壁を取り払わねばならない。そして、生涯貧民の立場をかかえる私の人生は、自然主義経済という新たな方向に向かった。これは社会主義ともいえない、資本主義ともいえない今世紀に始まる新たな社会システムである。これを実現するならば平和が達成される。その手法は、私の得意とする武の方向へ向かった。




平和の道を作るのは武法である。武法を行うものを武人と呼ぶ。
武人は死ぬことにあらず、勝つことにおいてその価値を持つべし。
死して屍、世の安全を守ることなし。
武人は身体を活用して初めて、世の安全を守りうる。
死をも恐れぬ勇気ほど自己満足なものなし。
死をも恐れぬ勇気ほど無技術なものなし。

武人は、身体を活用して、勝つことが大事である。
勝つためには勝敗にとどまらない、勝敗の一体化を悟るべし。
政治・軍事の世界では、勝者・敗者はつねに演技者である。
勝者を演じることをすれば勝つ。
彼と我とは同一であり、宇宙は即我である。

脚本はつねに、時代が進行する方向に書かれてある。
よほどの番外編でない限り、この進行方向を見誤らねば勝者を演じることができる。


この「勝つ」は、常に民の安全のためになされなければならない。
民に危険を及ぼすためになされることは武法にあらず。
役に立たないスポーツ武道は、つねに役立つように鍛練することを心がけよ。

ひとつには武人という、ひとつには知識人という、ひとつには経済人転じて守銭奴という歴史的事実あり。

武道を売り物に商売をすることなどもってのほかであり、彼らは守銭奴の隷属者である。
国防を国際経済の用にたすことなどもってのほかであり、彼らは守銭奴の隷属者である。
軍事施設を利権の道具に利用することももってのほかであり、彼らは守銭奴の隷属者である。
治安権力を私利私欲に用いることなどももってのほかであり、彼らは守銭奴の隷属者である。

武は、貧しき民から収奪・搾取を行う守銭奴に打ち克つ唯一の手段である。
守銭奴は資本を利用して民を翻弄する。ゆえに、正しき心をもった経済人は彼らに屈服する。
守銭奴は学問を利用して民を翻弄する。ゆえに、正しき心をもった知識人は彼らに屈服する。

守銭奴は資本を利用して、軍事や治安を配下におさめる。武人が己の特性を守銭奴に売り自らの地位を築こうとするのだ。ただし、正しき心をもった武人は彼らに屈服しない。
正しき武人は、生活のため末端の奴隷となることはあるが、悪しき武人のように武力を私利私欲のための殺害行為、たることを知らない欲望などに利用されてでも、守銭奴側近の幹部にはなろうとはしないのだ。


正しき武人は、守銭奴がいかなる飴を差し出そうとも、それをこらえる根性と技術、自給自足能力を養っているからである。

軍人や冒険家は野営において、生活のすべてを自然の中から取り出して、多くの生存術を身につけようとする。そこにはお金の力などいらない。そこに硬貨があれば金属として使えるか、紙幣や証券があれば紙として使えうるか。ただそれだけである。

学者は野営において、その知識があったとしても、そこに立ち向かう武人の精神がない限りにおいては無力である。知識と武勇があれば生き残りは可能である。

守銭奴は野営において、すべてを金の力に依存しているから、学者よりも野営に対して無知である。商品が彼らの手元に届かない以上、どれほど富をもってしても彼らが最も早く死すだろう。

このような守銭奴に隷属する武人が多くなると、彼らは必ず敗者を演じさせられる。

防衛は正しき武人によってなされるが、
侵略は守銭奴隷属の武人によってなされている。
これが歴史であるから、よくわきまえること。

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