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清名塚の由来

2011年02月28日 | 地名の由来
地元の友人と話していると、友人同士でふと昔の小字の名で地名を呼び合っていることがあります。

「陣馬河原」もそんな時に出た場所で、しばらくどこかなと思っていましたが、昔の地名地図が出て来てわかりました。藁科川上流の坂ノ上地区の今は田んぼが広がっている辺りの場所です。

「机平」も対岸の小高い丘のところにあって、だいたいの場所は分かったのですが、下の言い伝えの主役である清名塚だけはわかりません。坂ノ上集落の東側の藁科川左岸に竹藪があって、その辺りかなとも思い、土地の人にもうかがったことがありましたが、場所はわかりませんでした。

今は平和な田園風景が広がっている場所に、武士たちが争った残像を、うまく思い浮かべることはできませんが、川沿いの風に吹かれる竹藪を見ると、「忘れるなよ」と言われているように感じます。

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『清名塚の由来』

むかし、坂ノ上郷に、たたかいがありましたそうです。それは、大きなたたかいの、落武者の討伐でありました。東西にわかれてのそのたたかいでは、一隊は、東の小高い丘に陣取り、西の一帯は河原をはさみ、竹藪に陣を布き、抵抗しましたが、たたかい利あらず、遂に降伏して、平和の里に、よみがえりました。

このたたかいで多くの武士たちが亡くなり、その死骸は、丁重に埋葬し、竹を植えて目標としました。村人たちはこの場所を発掘すると祟りがあるといって、戒めあいました。その後、村人たちは「五輪の塔」を建立して霊前に祈りを捧げました。そしてその地名をとって「清名塚」として祭りました。また、その時の戦場を「陣馬河原」とよび平和協定した場所を「机平」と今もその地名として残っております。

また、戦死した武士の「鎧」「太刀」など地元の旧家に残っておりましたが、今はその家もありませんので、どうなったか分かりません。
塚は今もそのまま残っておりますが、最近土地の地主が変わったので、土地に守り神とし、丁重に祭られております。  おわり

坂ノ上西組 勝見賢清
      勝見まさ

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「ふる里わら科八社~第一集~」
(大川寿大学講座受講生一同・静岡市中央公民館大川分館、1980)


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