地元の古老の方と、歴史に精通していらっしゃる地元小学校の校長先生とこの地を訪れた時に、足元に器のかけらと思われるものをいくつか拾い見せて頂いたことに、とても驚きました。
「野田ノ段」は、かつての茅場で、縄文時代の遺跡が見つかった地。藁科川上流の大川地区に古くから人が住んでいたという証拠ですが、今は気が付かなければ行き過ぎてしまう茶畑が広がっている台地です。
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「野田ノ段」
約3,000年前「縄文時代」の日向人は「野田ノ段」に住み、狩猟生活と農耕を始めたと思われる。最近開墾により出土した数々の土器、石器、曲玉等により知る事が出来る。したがって「野田ノ段」と呼ばれたのだろう。また一説には「狼煙(のろし)の段」がなまって「野田ノ段」になった。私しは二説とも十節ではなかろうか。「野田ノ段」は「萩多和城跡」より低いため全面見渡せますが、籠沢の渓谷は「野田ノ段」によってのみ見ることができないので、争乱時代には「狼煙の段」と呼ばれたと思う。
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「ふる里わら科八社~第二集~」
(大川寿大学講座受講生一同・静岡市中央公民館大川分館、1981)
「野田ノ段」は、かつての茅場で、縄文時代の遺跡が見つかった地。藁科川上流の大川地区に古くから人が住んでいたという証拠ですが、今は気が付かなければ行き過ぎてしまう茶畑が広がっている台地です。
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「野田ノ段」
約3,000年前「縄文時代」の日向人は「野田ノ段」に住み、狩猟生活と農耕を始めたと思われる。最近開墾により出土した数々の土器、石器、曲玉等により知る事が出来る。したがって「野田ノ段」と呼ばれたのだろう。また一説には「狼煙(のろし)の段」がなまって「野田ノ段」になった。私しは二説とも十節ではなかろうか。「野田ノ段」は「萩多和城跡」より低いため全面見渡せますが、籠沢の渓谷は「野田ノ段」によってのみ見ることができないので、争乱時代には「狼煙の段」と呼ばれたと思う。
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「ふる里わら科八社~第二集~」
(大川寿大学講座受講生一同・静岡市中央公民館大川分館、1981)
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