「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

お見合い会場としての「意識の場」

2015-02-10 23:15:37 | 第4章 知覚内容としての世界

観察内容と概念の出会いは、
思考する存在の
「意識という場」で起きる


「意識の場」に、
いかにして
世界の観察内容が
入り込むのか


hasutama

「意識の場に、いかにして世界の観察内容が入り込むのか」
という問いを持つこと自体に、戸惑ってしまう

目で見たり、耳で聞いたり、鼻で匂いをかいだり
目の前の世界の様子は意識するしないに関わらず、一瞬のうちに認識してしまっているのに、あらためて、「その内容がどのように入り込むか?」と
問題にするのは、バカバカしい気がしたのである

幾人かの友人にこの問いについて話してみたところ、一人の友人が、
最近新聞から切り抜いたエッセイで、「思う」と「考える」は違うという内容のものがあったから、コピーしてポストに入れておいてくれるとのこと
有難いことだ

感じる、思う、考える

その違いは?

「意識という場」において、観察内容と概念が出会う

意識という場は、いわばお見合い会場なのだろうか

意識という場は、もしかしたら二階建てやマンション構造など、複雑な作りになっているのかもしれない

だとすると、その中で、お見合い会場はどこなのだろう

感じる、思う、は、概念とのお見合いを斡旋していないのか

考える、がそれを一手に引き受けているというわけか

「考える」のお見合い斡旋おばちゃんに、概念と出会わせてもらいに意識の場へ入場する、そのときの「世界の観察内容」は、どのような出で立ちなのだろう

ただだらしなく受け取られた内容なんかとは、ちょっと違うのだろうか?