(↓シュタイナーbotさんより引用させていただきます)
@R_Steiner_jp:
思考についての思考が、思考の精神的観照に変化すると、普段自分の前に外的な感覚的対象があるように、思考が自分の前に存在します。
人間は外的な感覚的対象を、目と耳で知覚します。
思考は精神的に観照する魂によって知覚されます。
-ゲーテ・精神世界の先駆者-
久しぶりにTwitterをのぞいてみたら、シュタイナーbotさんのTweetに上記のものがあった
シュタイナー氏の力説する、思考を思考する場合の特殊性が理解出来なくて、次の章に進むことがためらわれる私としては有難いTweetである
なになに?
思考についての思考が、思考の精神的観照に変化する
精神的観照て?
webで調べると
観照=
主観をまじえずに、物事を冷静に観察し、その意味を明らかに知ること
主観を交えずに、冷静に、対象としての思考を、精神的に観察する
すると、
普段自分の前に外的な感覚的対象があるように、思考が自分の前に存在します
「思考を思考するとき、自分が移動する」というのがピンと来なかったのだが、これはヒントになりそう
意識は、対象を自分の外側に発見する
意識には、そういう性質があるのだ
だから、その対象が自分の生み出した思考内容であるときには、不思議な、しかし意識の性質からすれば当然とも言える現象が起きる
あー、だからシュタイナーは二章で、意識の性質をはっきりさせる必要があったのかもしれない
意識は、見た対象の世界と見る側の世界を二分する
だから、対象が自分の内世界の側に存在する思考であれば、内世界は観察する意識の側と観察される側に二分されることになる
思考を思考するにあたっても、やはり前に強調されていた「観察→思考」の手順を踏むのだから
思考を観察する側の意識は、内世界の中で、外の世界を肉体的器官で観察した内容を思考した場よりも、一段奥の間に移動することになる
思考は精神的に観照する魂によって知覚されます。
その、奥の間の意識、「思考を観照する側の意識」を、シュタイナーは「観照する魂」と名付けている
奥の間の意識=魂
というわけ
うーむ、なんとなくイメージ出来てきた感じ(^-^)
@R_Steiner_jp:
思考についての思考が、思考の精神的観照に変化すると、普段自分の前に外的な感覚的対象があるように、思考が自分の前に存在します。
人間は外的な感覚的対象を、目と耳で知覚します。
思考は精神的に観照する魂によって知覚されます。
-ゲーテ・精神世界の先駆者-
久しぶりにTwitterをのぞいてみたら、シュタイナーbotさんのTweetに上記のものがあった
シュタイナー氏の力説する、思考を思考する場合の特殊性が理解出来なくて、次の章に進むことがためらわれる私としては有難いTweetである
なになに?
思考についての思考が、思考の精神的観照に変化する
精神的観照て?
webで調べると
観照=
主観をまじえずに、物事を冷静に観察し、その意味を明らかに知ること
主観を交えずに、冷静に、対象としての思考を、精神的に観察する
すると、
普段自分の前に外的な感覚的対象があるように、思考が自分の前に存在します
「思考を思考するとき、自分が移動する」というのがピンと来なかったのだが、これはヒントになりそう
意識は、対象を自分の外側に発見する
意識には、そういう性質があるのだ
だから、その対象が自分の生み出した思考内容であるときには、不思議な、しかし意識の性質からすれば当然とも言える現象が起きる
あー、だからシュタイナーは二章で、意識の性質をはっきりさせる必要があったのかもしれない
意識は、見た対象の世界と見る側の世界を二分する
だから、対象が自分の内世界の側に存在する思考であれば、内世界は観察する意識の側と観察される側に二分されることになる
思考を思考するにあたっても、やはり前に強調されていた「観察→思考」の手順を踏むのだから
思考を観察する側の意識は、内世界の中で、外の世界を肉体的器官で観察した内容を思考した場よりも、一段奥の間に移動することになる
思考は精神的に観照する魂によって知覚されます。
その、奥の間の意識、「思考を観照する側の意識」を、シュタイナーは「観照する魂」と名付けている
奥の間の意識=魂
というわけ
うーむ、なんとなくイメージ出来てきた感じ(^-^)