「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

ぐるぐると…思い巡らす

2013-11-13 09:13:44 | 第3章 世界認識に仕える思考
色々とやることがあり、あまり読書にかける時間がない

しかし何度も三章を読み返してみている

なんだかぬかるみに足を取られるような、わけのわからなさにがんじがらめになる感じ

思考を思考する場合の特殊性も、相変わらずよく理解出来ない

思考は感情と違って自我そのものの中で行っており、感情の場合には自我が受動的なのだから、同じ精神活動でも違うとのこと

感情は、感情を抱いているさなかに観察できるものかな?
感情的になりすぎたときには無理かも

でもその時には、自我は受動的なのだから、思考と同じように扱うことは出来ないとのこと

感情では、事象と私は密着しているけれど
思考の場合には、事象と私は同じ場にいない
という違いがあるとのこと( ? _ ? )

まあ、そうだとしてみれば、
自我がその分フリーなわけですね
密着しすぎると自我はちゃんと働けないのかな

確かに、誰かと喧嘩している時にも、それを冷めた目で見ている自分は別にいるということはあり得るかもしれない
あるいは、我にかえってみれば、我ながら軽率だった…などと思う場合には、我はどこかに置き去りにされていたり

一方、自我が全面的に中心となって、意思的に主体性を持って行うのが思考ということを、どう考えればよいのか?

思考は自我による宇宙的生産活動なので、生んでいる最中にはそれを俯瞰する余裕はないとのこと

そうなると自我の、本来の仕事は思考ということなのでしょうね
思考中はフル回転てことなので

思考は自我の中心で、観察によって点となって現れた事象の関係性を導き出すことで、世界、宇宙を包み込む

宇宙のラッピング?
それなら…
リボンをつけてあげようかな^o^

思考がどんなラッピングをするかによって、宇宙の色彩は変化する気がする

それとも、それが宇宙の実質なのかな
肉付け的な

その結果を自我が再び見て、また考察するに、

その時には、実質と実質の関係もわかります

だったら楽しいな^o^

いやそんなものではなくて、もっと厳密なもの?

自我、思考という言葉が曖昧だと、何もかもわからなくなりそう

うーんと…
でもそれでも、思考の働き、それを行う場の感覚が、少しはっきりしてきたかも







植物のぐるぐる巻き