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日本と世界

世界の中の日本

幻のスパイ、底辺のまなざしアイヌ3

2019-10-16 17:16:42 | 日記

幻のスパイ、底辺のまなざし

「 松岡が私に与えた仕事とは大体次のようなことだった。
 
1.通州事件(1937年)、南京事件のような戦闘中に起こった暴虐行為の真偽を調べる
 
2.戦場で起こった暴虐事件のうち作戦行動とは関係なく起こされた人倫にもとる行為と見られるものを調べる
 
3.北満州の張鼓峰事件について蒙古人社会の思想状況を調べる
 
4.中国を中心に、東南アジア地域の思想傾向を調べる 」 ―『戦場の狗』より
シクルシイ氏の諜報活動は、ここに書かれてある松岡の意図に沿ったものであったはずだが、読んでどうにも納得がいきかねるのは、「それを調べてどうする(した)のだ」というところだ。
 
 1938年、入隊前のシクルシイ氏が熱海で最後に松岡と対面した際に、松岡は、「アメリカとの戦争だけは絶対に避けなければならないが、今の日本政府には軍部を圧えこむ力はないので、近いうちに戦うことになるだろう。
 
そうなったら必ず負ける」と語ったという。
 
そして、「私は政治家で国を守る責任がある。
 
国を失った人民がどれほど惨めなものかも知っている。
 
国を失うようなことは命を賭しても防がなければならない」と言って、上に挙げた任務を命じた、というのだ。
松岡は、敗戦後の日本を、中国大陸の現状から透視しようとしているのか。
 
 それとも、集めさせた情報を、来るべき敗戦処理に活用しようというのだろうか。
 
 あるいは、シクルシイ氏の最初の任務がノモンハン事件の事後調査だったことを考えると、当初の松岡は日米開戦の阻止を目的としていたものの、戦況の推移とともに敗戦を見据えた情報収集に舵を切ったのかもしれない。
 
しかしいずれにせよ、松岡は極東軍事裁判の渦中に病気で亡くなっており、彼の集めた情報、特に非人道的行為に関する情報をどう利用したのか、利用するつもりであったのかは、よくわからない。
 
そして、その困難な任務に耐えられる人材を養成するために、シクルシイ氏以前の候補を含めて30年の時間と膨大なコストを費やしているのだ。
シクルシイ氏も、自分は7年余りも戦場を渡り歩いて、見たままを淡々と報告しただけで、軍には何の恩義も感じていないと書いている。
 
 と同時に、アイヌ故に受けた差別や、屈辱的な去勢手術、凄まじい拷問についても、ただ淡々と述べるだけで、恨みがましい表現は何一つとしてしていない。
 
要するに自分は家族から国に売られ、それに逆らう術を持たなかったゆえに、戦場の狗となり道具となった(そしてそれを完璧にやりおおせた、一人の命も奪うことなしに)、後のことは、国が勝手に決めればいい。
 
 そんな諦念と、強靭な自負と思える筆致が、この手記全体を貫いている。
和気市夫中尉、またの名シクルシイ、大陸においては哥老会の薫之祥(クン・ズシアン)を名乗るスパイの、戦後47年が経ってからの告白を、我々はどう受け取ればいいのだろうか。
 
ここに書かれてあることを一つ一つ検証すれば、事実はある程度判明するはずだ。
 
 同様に考える読者は多いのだろう、シクルシイ氏の実在を確かめようと、出版社や北海道各地の図書館に照会して廻った人がいたようだが、小学校の先生の名前が見つかったくらいで、そもそも和気市夫なる人物がいたかどうかは全くわからなかったようだ。
裏権力の実態と、歴史の闇に葬られたもう一つの真実。
 
あるいは、「天才アイヌ少年シクルシイ」という、社会の周辺部にうまれた半架空の人物を主人公にした、ロマンチックでヒロイックな、ビターテイストの裏日本史。
 
どちらにしても、映画以上に映画的な物語だ。 仮に映像化しても、かえって嘘臭くなるばかりだろう。
 
しかし、誰かが確かに見た、聞いた底辺の事実を、やはり社会の底辺の痛みを知る人物がまとめ上げて世に問うたと考えたらどうだろうか。
 
シクルシイ氏はその後、第一生命保険の人権問題研修推進本部の顧問を務めたとされ、彼の死後『まつろはぬもの』を世に出した加藤昌彦氏は、大阪の開放出版社の編集者(こちらは実在)であったようだ。
 
 中国大陸における詳細を極めた戦場の報告、各地で強姦に次ぐ強姦の責め苦を負った女性たちの悲劇、日本軍による捕虜大量虐殺の事実。
 
 こうした理不尽を、「シクルシイ」の言葉を借りて明るみに出したい。
 
 誰よりも有能で、高潔で、なおかつ去勢された男―非加害者―が、社会の最底辺から見た戦争=社会を描き出す。
 
 従順そうに見えて、実は決して服従しない『まつろはぬもの』の、鋭利で、しかし読者をワクワクとさせる娯楽性も備えた強靭な書物――。
私は、この2冊をそのように解釈することにした。 これを読んだ他の読者は、どのように思っただろうか。
 
(おしまい)

ロマンチックな戦場?アイヌ2

2019-10-16 17:13:22 | 日記

ロマンチックな戦場?

アイヌの少年シクルシイが、その天才ゆえに歩まされた波乱万丈の半生――。
 
 『まつろはぬもの』にいきいきと描かれる、コタンでの母との暮らし、厳しいけれど温かく優しく導いてくれた女先生、差別に苦しむ一家を助けてくれた駅員や駐在さん、樺太に別宅を構えて事業を営む父の下へ、汽車と徒歩で野宿しながらの単独行、濡れ衣を着せられた際に勇気ある証言をしてくれた、和歌山から来た(おそらく被差別出身の)人びと。
 
少年時代のシクルシイ氏の回想は、誰もが一度は読んだことのある清々しいビルドゥングスロマンの色彩を帯び、読者はきっと、心の中で彼の成長を応援しながらページをめくるはずだ。
そして、国際都市満州に移ってからの、目まぐるしい身辺の変化。
 
 満鉄副総裁松岡洋右と対面した彼は、これまでの特別教育のいきさつと、今後彼を待ち受ける「任務」を告げられ、教育の内容は、語学以外に武器弾薬の扱いや格闘技、暗号の処理など、スパイそのものを養成するための内容に変わってゆく。
 
戦争はいよいよ避けられぬものとなり、彼は厳しい修業の末に、諜報員として野に放たれる。
哥老会、魯花公司、公利商行、黒幫、青幫、馬賊(緑林の徒)、ハイラル機関、アパカ機関、興安機関といった、広い中国にくまなく巡らされた様々な特殊組織や秘密結社とその情報網が、時に彼の隠れ蓑となり、その行動を手引きし、ある所からは密かに尾行され、命を狙われる。
 
苦力に身をやつして荷を運び、人買いに身を売って重慶の地下要塞に潜入したり、髪を剃り落としラマ僧の格好で探索行を続け、天津のフランス租界では、ナイトクラブで暴れていた憲兵を一撃で倒すなど、危険と隣り合わせの日々は、読む者にとってロマンチックですらある。
現金代わりに隠し持った上質の阿片を有力者に献上したり、駄賃として渡しながら隠密行動を続け、「眠っている間に殺されるのではないかと思いながら眠りにつき、朝、目覚めると生命を完うしたことを喜ぶ」7年間の戦場での単独行動。
しかし、『戦場の狗』で、ふいに書かれたこの一節に、読者は慄然とさせられるのだ。 ――東京に戻ると、すぐに去勢手術のために病院へ連れていかれ、一時間もすると処置は終わっていた。
 
松岡は「復元は可能だ」と言ったが、担当の軍医は「無理じゃないかな」と、こともなげに言い放った。   
私ははじめ、2010年に出版された『まつろはぬもの』を縁あって読んだが、シクルシイ氏と面識のある加藤昌彦氏による巻末の解説に、1993年刊行の『戦場の狗』と抱き合わせで読むべきであるとあったので、急ぎ取り寄せた。
 
 ともにシクルシイ氏の回想録であるが、『戦場の狗』を筑摩書房から出版するに当たり、大幅に削られた少年時代の逸話をこのまま公表しないのはいかにも惜しいと、関係者の手で自費出版に近い形で刊行されたのが、『まつろはぬもの』である。
 
 これに対して 『戦場の狗』には、満州にわたってからの特殊訓練の模様、スタニスロー教授とそのチームとの研究生活に名を借りた7年間の世界行脚の足跡(スタニスロー氏は米国CIAの前身機関の特殊工作員であった)、
 
そして何よりも、松岡の狗として戦場を這いずり回る生活と、世の人に知られることのない戦場の実態報告、さらに逮捕拘禁されてからの数ヶ月にわたる中国とアメリカ当局による取調べの内容が事細かに書かれている。
最初の手記『戦場の狗』から17年後、シクルシイ氏の死後10年経ってから出された『まつろはぬもの』を読んで、本当にこんな人生がありうるのかと驚き、
 
もっとシクルシイ氏について知りたい、彼が他に語っていることがあるならそれを聞いてみたいという衝動のままに 『戦場の狗』を読んだが、
 
そこに書かれてあったことは、さらに微に入り細を穿つ戦場の報告であり、家族から政府に売られ、そして使い捨てにされたアイヌの、身も蓋もない半生記であった。
では、彼の任務とは、松岡洋右がシクルシイ氏に命じたことは、具体的にどのようなものだったのか。 どんな意図があって、彼は自分の手駒を養成し、放ち、もたらされた情報を何に使ったのか。 
(さらにつづく)

ある特務諜報員の手記 アイヌ1

2019-10-16 17:10:51 | 日記

ある特務諜報員の手記

数年前からアイヌへの関心が高まっており、各地の資料館や博物館を訪れたり、地道に本を繙いたりしているが、昨年暮れに、全くもって驚くべき本に出会ってしまった。
 
『まつろはぬもの 松岡洋右の密偵となったあるアイヌの半生』2010年/寿郎社 『戦場の狗 ―ある特務諜報員の手記』1993年/筑摩書房 いずれも、和名・和気市夫、アイヌ名をシクルシイと名乗る男性の手記だ。
和気シクルシイ氏は、大正9(1920)年に屈斜路にあるコタン(アイヌの集落)に産まれた。
 
 母はエカシ(アイヌの長老)の娘、父は祖父とともに和歌山から流れてきた屯田兵上がりの山っ気のある和人だった。
 
父は早くから家を出たため、彼は母からさまざまなアイヌの教えを受けて育つ。
 
 シクルシイ4歳の時、彼はその天才を見込まれて小学校中級に編入、正体不明の権力者の援助で飛び級に次ぐ飛び級を重ね、夜間は英語の特別教育を受け、やがて8歳の時に母親の下を離れて旭川の商業高校に入り、ロシア語・フランス語・中国語を叩き込まれる。
11歳になると、満州はハルピンの亡命ロシア人家族のもとに送られ、モンゴル語・ラテン語・ギリシャ語と、格闘技、武器爆薬の扱い方、無線・暗号などの徹底した訓練を受ける。
 
 そしてある日、大連に呼び出された彼は、満鉄の副総裁である松岡洋右と対面し、自分が満鉄の極秘プロジェクトによって選抜された人間であると知らされ、松岡の口から、今後の自分に科せられた任務を告げ られる。
ハルピンでの特別教育を終えると、彼は北京に移り、今度は中国人・薫之祥(クン・ズシアン)として、ロッカフェラー財団傘下の燕京大学人類学部多言語科に籍を置き、ユダヤ系ハンガリー人スタニスロー氏に師事する。
 
 氏の学術調査の助手としての生活は、インドでの丸一年の滞在や中南米での長期的な遺跡調査などを含め、世界中を移動しながら7年間にわたり、南カリフォルニア大学に籍を置いて、言語学と人類学の2つの分野で博士号を取得する。
1938年、18歳の時に日本人として帰国し、築地6丁目の教育隊で、変装、乗馬、麻薬などに関する訓練を受け、1年のカリキュラムを3ヶ月で終えると、大本営で陸軍少尉の辞令を受け憲兵隊に配属、中国大陸全地域での情報活動を命ぜられる。
 
彼は命令にしたがって、新京から羊飼いのキャラバンの一員となって満ソ国境を越え、ノモンハン事件の起きた場所を調査する。
 
 報告を終えると天津に拠点を移し、松岡の口利きで、日本の商社・岩井商店や、阿片を取り扱う魯花貿易公司の庇護の下、幫(パン)と呼ばれる中国の秘密結社の作法を会得して、延安、西安、蘭州と周り、次いで黎城での日本軍の暴行・略奪の実情を調査、その後は街全体が要塞と噂される重慶の地下に潜入して情報を収集、そのあと南京へ回って、4年前の南京大虐殺の後始末のようすを観察した。
 
そのあと、日本軍の南下政策を追うようにインドシナ半島を巡り、日本軍の阿片密造工場を発見し(のちに魯花公司が破壊)、非戦闘員の虐殺や組織的な女性陵辱、窃盗などの数々の証言を集めた。
1945年、マレー半島からインドネシア、フィリピンに出て情報収集したのちに、北京に戻ったところで日本の敗戦が決まった。
 
彼は中国国民政府公安部にスパイ容疑で逮捕され、3ヶ月にわたる取調べと拷問に続き、
 
土牢に2ヶ月間監禁されたあと、瀕死の状態で極東裁判の重要証人として東京に送還されるが、松岡洋右の死をもって不起訴となり、
 
米ソ交渉の結果、仮釈放の状態のまま、GHQが接収した第一生命保険ビルの一室で米国対敵情報部隊の指揮下に入ることになった―― 。
本人の証言のままにシクルシイ氏の半生を要約すると、以上のようになる。
(つづく)