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韓国人による“壮大な自己批判”の試み『反日種族主義』は一読の価値あり!

2019-10-12 18:10:08 | 日記

文春オンライン                           

韓国人による“壮大な自己批判”の試み『反日種族主義』は一読の価値あり!

 
 
黒田 勝弘        
 
2019/10/11 05:30
 
  日本の朝鮮半島統治をめぐる日韓間の歴史認識の違いで、もっとも象徴的なポイントは「日本はいいこともした」という“事実”を韓国が決して認めようとしないことだ。日本統治時代を経験した人など私的、個別的にはそう語る人はいた。しかし歴史教科書を含む学校教育やメディアなど公式の歴史観においては絶対認められなかった。いや、私的な場でもその主張はダメで、時には暴力沙汰にまでなる。韓国ではタブーになって久しい。

 その結果、韓国では日本統治時代に関する歴史は今も「抑圧と収奪と抵抗」だけで語られ、教えられてきた。異論は一切不可である。 

韓国でベストセラーになった「反日種族主義」。日本語版「反日種族主義 日韓危機の根源」(李栄薫編著)は11月14日発売される予定 ©文藝春秋© 文春オンライン  韓国でベストセラーになった「反日種族主義」。日本語版「反日種族主義 日韓危機の根源」(李栄薫編著)は11月14日発売される予定 ©文藝春秋

 それでも学問的には“真実”を求め、それを公論化しようという動きは以前からあった。日本による統治時代が朝鮮(韓国)の近代化の時期にあたっていたため、日本の統治が彼の地に近代化をもたらしたことは事実だったからだ。結果的に「日本はいいこともした」を認めようという主張であり、これは「植民地近代化論」といわれてきた。

「虚偽の反日公式史観」と戦ってきた元ソウル大教授

 学界的には少数派ながら、この「植民地近代化論」者の代表格としてこれまで、研究を通じ「虚偽の反日公式史観」と長らく戦ってきたのが今回、 「文藝春秋」11月号 でインタビューした李栄薫・元ソウル大教授(68)だ。この夏、自らの編著で出版された『反日種族主義』(ソウル・未来社刊)はすでに10万部を超えるベストセラーになっており、韓国社会に衝撃を与えている(編集部注:本書の邦訳版『 反日種族主義 日韓危機の根源 』は、11月14日に文藝春秋から刊行予定)。

 李栄薫教授自身は実証主義的な経済史研究が専門。これまで日本統治時代については統計を基に人口増加の事実や、土地・食糧収奪のウソなどを究明している。しかし本書では慰安婦問題を精力的に取り上げ、今や定説化、公式化している「20万人の素朴な少女たちが日本軍に強制連行され性的奴隷にされた」説を虚偽と断じている。慰安婦問題こそが韓国社会を覆う「反日種族主義」による歴史的ウソの典型だというのだ。

“慰安婦シンドローム”の背景にある心理とは?

 このウソの慰安婦ストーリーによって慰安婦少女像が全国各地に立てられ、映画や演劇、イラスト、絵本が大量に作られ、政府制定の記念日まで生まれ、元慰安婦たちはまるで国家的・民族的ヒーローのようにもてはやされ、トランプ大統領歓迎の公式晩餐会にまで出席させられている……。

 こうした韓国における“慰安婦シンドローム”の背景について李教授は、民族主義以前の前近代的な、いわば部族社会にみられるようなシャーマニズム(呪術)的な心理を指摘する。それに伝統的な“華夷文化思想”に起因する“日本への敵意”が加わり、迷信のような「反日種族主義」が生まれた。「そうした集団においては個人は集団に没我し、近代社会にあるべき“自由な個人”は存在しえない」という。

虚偽だった「吉田清治証言」のことも紹介

 李教授にインタビューした9月下旬、ソウルの名門・延世大学では保守派の論客で社会学者(!)の柳錫春教授が大学の講義の際、「慰安婦は売春婦のようなもの」と語ったとして問題になっていた。受講の学生が外部に“通報”し、それにメディアが飛びつき非難殺到となった。大学は担当講義を中断させ処分を検討中とか。一流大学でも「反日種族主義」から自由でないということである。

 本書では「日本軍による強制連行説」の唯一の“証拠”として内外でもてはやされ、その後、日本では虚偽と判明した「吉田清治証言」のことが紹介されている。虚偽だったという“事実”を韓国に伝えたのはこれが初めてではないかと思うが、信じたくないことは知らなかったことにするのも「種族主義」かもしれない。今や宗教化し異論(異端)排除には手段・方法を選ばない慰安婦問題だけに、タブーに挑戦する李教授の覚悟のほどが分かる。

「日本の“良識的知識人”にも責任がある」

 本書には、いわゆる徴用工問題に関する韓国における「奴隷労働」説に対する実証的否定や、竹島問題について「韓国固有の領土」主張への実証的批判、さらには日本統治時代に朝鮮総督府が「韓民族の精気」を断つため各地の山に鉄杭を打ち込んだという、いわゆる“風水迷信”の実態など多くの「種族主義現象」が紹介されている。

 韓国における日本がらみの公式化された多様な「反日ウソ」が、韓国人の研究者によって厳しく暴かれているのだが、李教授はインタビューの最後に「反日種族主義には日本のいわゆる“良識的知識人”にも責任がある。彼らには贖罪感という善意はあったかもしれないが、それが韓国社会で反日ウソが維持・強化される原因にもなった」と語っていた。

 本書は韓国人にとっては壮大な「自己批判の作業」である。それがベストセラーになっていることを韓国社会のある種の変化の兆しとして期待したい。それ以上に李栄薫教授の安寧と「自由な個人」としてのさらなる健筆を心から祈りたい。

(黒田 勝弘/文藝春秋 2019年11月号)


ヨーロッパ諸国によるアジア侵略

2019-10-12 17:49:38 | 日記

中学校社会 歴史/

ヨーロッパ諸国によるアジア侵略

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ヨーロッパのアジア侵略[編集]

日本が鎖国していたころ、ヨーロッパでは、産業革命などによって、科学技術がものすごく発達し、ヨーロッパの兵器の技術も発達していった。

19世紀のころ、産業の近代化などで国力をつけていたヨーロッパ諸国は、アジアとの貿易のしかたを変えるようになった。

結論から言うと、ヨーロッパによるアジアへの侵略が始まっていった。

もっと、くわしく説明すると、つぎのような説明になる。

日本では戦国時代ごろだった16世紀ごろは、ヨーロッパは、貿易相手のアジアの国とは、あまり戦いをしなかった。

だが、そのあと、ヨーロッパの近代化でヨーロッパの国力が強まったことで、ヨーロッパはアジアに対しても侵略的になっていく。

(アフリカや南米では、ヨーロッパは、すでに侵略的だった。)

たとえば、直接、アジアと戦争をして領土を獲得して、領地で現地のアジア人を安い値段で働かせ農産物などを生産して、本国のヨーロッパに産物を輸出するようになった。

 また、ヨーロッパの武力を背景に、戦争で負かしたアジア諸国の国政に干渉するようになった。

イギリスのインド支配[編集]

1800年代のはじめごろ、イギリスはインドに進出していました。

イギリスの支配は、だんだんと強まっていきます。

イギリスに対する大きな反乱が1857年に起きました。

インド大反乱です。

シパーヒーが反乱を起こしたので、シパーヒーの乱(あるいは「セポイの乱」)とも言います。

ですが、イギリスは反乱を武力で平定し、そのあと、イギリスの支配をますますつよめ、インドを直接の支配下に置き、植民地にしました。

イギリスのアヘン戦争[編集]

 
 
アヘン戦争(アヘンせんそう)で、イギリス海軍の軍艦に吹き飛ばされる清軍のジャンク船を描いた絵。右奥のほうにイギリスの蒸気船が描かれている。

インド大反乱より昔になるが、1830年ごろ、イギリスはインドを中継地として清(しん)と貿易をしていました(三角貿易)。清は欧米との貿易の港を広州(こうしゅう、コワンチョウ)の一港に制限して欧米と貿易をしていました。

イギリスは、綿織物などの輸出品が、あまり清には売れず、そのいっぽうで、清からは茶(ちゃ)などを多く輸入しました。イギリスでは、紅茶を飲む習慣が広がっていました。

イギリスの貿易は赤字になり、そのためイギリスから支払いのための銀が多く流出しました。この銀の流出をいやがったイギリスが、貿易でかせごうとして、支配していたインドで麻薬(まやく)のアヘンをつくり、アヘンを清にこっそりと輸出します。

このため、清には多くの麻薬中毒者(まやくちゅうどくしゃ)が出てきて、また、支払いのための銀が清から流出していきました。

 
 
林則徐(りん そくじょ)

清が、アヘンの輸入を取り締まり始めます。清の役人の林則徐(りん そくじょ)が、アヘンの取締りを始めます。

林則徐は、密輸されたアヘンを没収し、焼き捨てさせました。

すると、イギリスは貿易の自由を口実にして、戦争を1840年にしかけました。これがアヘン戦争(アヘンせんそう)です。

イギリスの海軍の軍艦で、清の船を破壊するなどして、清は対抗手段がなくなり、戦争はイギリスの勝利でした。

戦争に負けた清は、不利な条約である 南京条約(ナンキンじょうやく) を1842年に結ばされ、さらに多額の賠償金(ばいしょうきん)を支払わされ、また清は香港(ホンコン)をイギリスにゆずりわたすことになってしまいました。

イギリスは香港を手に入れました。 また、上海(シャンハイ)など5つの港を開かせました。

清は、関税自主権(かんぜいじしゅけん)を失いました。

また、清は外国人を裁判にかける権利がなくなり、イギリスなど外国の領事が裁判権を持つことになりました。

外国が領事裁判権(りょうじ さいばんけん)を持つことになりました( いわゆる、治外法権(ちがいほうけん) )。

上海などの主な港の近くには、中国の主権がおよばない地域が作られ、外国人が母国のように自由に行動できる 租界(そかい) という居留地(きょりゅうち)が出来ました。

また、清はイギリスとの条約だけでなく、アメリカやフランスなどの、その他の欧米諸国とも、清が不利な不平等条約を結ばされました。

太平天国の乱[編集]

清は多額の賠償金を払うため、国民に重い税をかけた。

このことが清国民の不満を高めた。

また、もともと清の王朝は満州族の王朝であり、漢民族などは満州族による支配には不満をいだいていた。

洪秀全(こう しゅうぜん、ホンシウチュワン)を中心にする、満州族の政府である清国政府を倒そうとする反乱が1851年に起き、南京を拠点にして太平天国(たいへい てんごく)という国が、一時的に作られた。

この乱を、太平天国の乱(たいへいてんごく の らん)という。

太平天国は、運動の理想として、農民たちに土地を平等に分け与えることなどをかかげて、農民たちに支持されました。

しかし、イギリスなどの支援を受けた清国政府によって、太平天国は倒され、1864年には太平天国の拠点だった南京も占領され、洪秀全も自殺しました。

日本への影響[編集]

いっぽう、そのころの日本に、アヘン戦争での清の敗戦の知らせが、貿易相手のオランダなどを通して、幕府の上層部に伝わっていきました。

また、幕府のほかの民間の学者の中にも、アジアがヨーロッパに侵略されていっているという情勢(じょうせい)に気がつく者があらわれはじめてきます。

このあと、フランスなどの他のヨーロッパの国々も、イギリスのように、武力でアジアを支配するようになっていった。

日本の幕府は、貿易相手のオランダなどを通して清の敗戦を知ったこともあり、

異国船打払い(いこくせん うちはらい)の方針を変えないと欧米と戦争になり、日本が侵略されてしまう、と考え、

1842年に異国船打払いの方針をあらため、外国船に薪(たきぎ)や水・食料を補給(ほきゅう)することをゆるしました。

 
 

このページの最終更新日時は 2018年8月14日 (火) 05:06 です。


イザベラ・バードの紹介

2019-10-12 17:42:42 | 日記

イザベラ・バード      

イザベラ・バードの紹介      
イザベラ・バード      
 
イザベラ・バード (Isabella L. Bird, aka Mrs. J. F. Bishop, 1831~1904) はイギリスの旅行家・探検家で、世界各地を旅して数多くの旅行記を残した。      
 
日本へは1878(明治11)年6月に上陸し、日光・新潟・山形・秋田を経て北海道に渡り、アイヌ人の村落を調査した      
 
イザベラ・バード『日本紀行』

イザベラ・バード『日本紀行』

2019-10-12 17:15:11 | 日記

イザベラ・バード『日本紀行』      

上陸してつぎにわたしが感心したのは、浮浪者がひとりもいないこと、そして通りで見かける小柄で、醜くて、親切そうで、しなびていて、がに股で、猫背で、胸のへこんだ貧相な人々には、全員それぞれ気にかけるべきなんらかの自分の仕事というものがあったことです。 (上巻, pp. 43-44)      
日本人は洋服を着るとえらく小柄に見えます。どの洋服も不似合いで、貧弱な体型と国民全体の欠陥であるへこんだ胸とO脚が誇張されます。 (上巻, p. 55)      
その後わたしは本州奥地と蝦夷の一二〇〇マイル〔約一九二〇キロ〕を危険な目に逢うこともなくまったく安全に旅した。日本ほど女性がひとりで旅しても危険や無礼な行為とまったく無縁でいられる国はないと思う。 (上巻, p. 484)      
これほど自分の子供たちをかわいがる人々を見たことはありません。だっこやおんぶをしたり、手をつないで歩いたり、ゲームをやっているのを眺めたり、いっしょにやったり、しょっちゅうおもちゃを与えたり、遠足やお祭りに連れていったり、子供がいなくては気がすまず、また他人の子供に対してもそれ相応にかわいがり、世話を焼きます。 (上巻, pp. 182-183)      
なぜか子供は男の子が好まれるとはいえ、女の子も同じようにかわいがられます。子供たちはわたしたちの抱いている概念から言えば、おとなしすぎるししゃちほこばってもいますが、外見や態度は非常に好感が持てます。 (上巻, p. 183)      
疥癬、しらくも、輪癬、眼炎、不健康そうな発疹が流行っているのを見るのはつらいことです。それに村民の三割以上に疱瘡のひどい痕があります。 (上巻, p. 184)      
新しい馬はらくだのように体を揺らして歩き、小佐越で放免したときはほっとしました。小佐越は高原にある小さな村で、とても貧しく、家々は貧困に荒れています。子供たちはとても汚くて、ひどい皮膚病にかかり、女性たちは重労働のせいで血色が悪くて顔つきが険しく、木を炊く煙を大量に浴びているのでとても醜くて、その体つきは均整がとれているとはとてもいえません。 (上巻, p. 195)      
両側には住まいがあり、その前にはかなり腐敗した肥料の山があって、女性たちがはだしでその山を崩し、どろどろになるまでせっせと踏みつけています。みんな作業中はチョッキとズボンという姿ですが、家のなかでは短いペティコートしかつけていません。何人かの立派な母親たちが、なんら無作法と思わずにこの格好でほかの家を訪問するのをわたしは目にしています。幼い子供たちはひもに下げたお守り以外なにも見につけていません。人も衣服も家も害虫でいっぱいで、不潔ということばが自立して勤勉な人々に対しても遣われるなら、ここの人々は不潔です。 (上巻, pp. 200-201)      
ヨーロッパの国の多くでは、またたぶんイギリスでもどこかの地方では、女性がたったひとりでよその国の服装をして旅すれば、危険な目に遭うとまではいかなくとも、無礼に扱われたり、侮辱されたり、値段をふっかけられたりするでしょう。でもここではただの一度として無作法な扱いを受けたことも、法外な値段をふっかけられたこともないのです。それに野次馬が集まったとしても、無作法ではありません。 (上巻, p. 228)      
ついきのうも革ひもが一本なくなり、もう日は暮れていたにもかかわらず、馬子は一里引き返して革ひもを探してくれたうえ、わたしが渡したかった何銭かを、旅の終わりにはなにもかも無事な状態で引き渡すのが自分の責任だからと、受け取ろうとはしませんでした。 (上巻, p. 229)      
彼らは丁重で、親切で、勤勉で、大悪事とは無縁です。とはいえわたしが日本人と交わした会話や見たことから判断すると、基本的な道徳観念はとても低く、暮らしぶりは誠実でも純粋でもないのです。 (上巻, p. 237)      
わたしは野次馬に囲まれ、おおむね礼儀正しい原則のたったひとつの例外として、ひとりの子供がわたしを中国語で言うフェン・クワイ――野蛮な鬼――と呼びましたが、きつく叱られ、また警官がついさっき詫びにきました。 (上巻, p. 240)      
日本人は子供がとにかく好きですが、道徳観が堕落しているのと、嘘をつくことを教えるため、西洋の子供が日本人とあまりいっしょにいるのはよくありません。 (上巻, p. 272)      
彼らは汚く、ぎっしり集まっています。この家の女性たちはわたしが暑がっているのを知ると、気をきかせてうちわを取り出し、丸一時間わたしをあおいでくれました。代金を聞くと、それはいらないと答え、まったく受け取ろうとしません。これまで外国人を一度も見たことがない、本にわたしの「尊い名前」を書いてもらったからには、お金を受け取って自分たちを貶めるわけにはいかないというのです。 (上巻, pp. 312-313)      
吉田は豊かで繁栄しているように見え、沼は貧しくてみすぼらしいものの、山腹から救出された沼のわずかな農地は吉田のそれと同じようにすばらしく整然として手入れが行き届き、完璧に耕されています。また日当たりのいい米沢の平野の広い農地と同じように、気候に合った作物をふんだんに産します。そしてこれはどこでもそうなのです。「無精者の畑」は日本には存在しないのです。 (上巻, pp. 321-322)      
ごちそうだということを示すために、ぺちゃぺちゃ、ごくごくと音をたてて食べたり飲んだり派手に息を吸ったりするのは正しいことです。作法では厳然とそう定められており、これは西洋人にとってはとても困ったことで、わたしはこのお客さまの食べ方にもう少しで笑い出してしまうところでした。 (上巻, p. 338)      
どこでも警察は人々に対してとてもやさしく、反抗しない相手には、二言三言静かに発するか、手をひと振りするかすれば事足ります。 (上巻, p. 374)      
港には二万二〇〇〇人の見物人が町外から集まったと警官が教えてくれました。それでも三万二〇〇〇人の行楽客に対して、警官は二五人いれば事足りるのです。その場を引き上げた午後三時まで、わたしはひとりの酔っ払いも見かけませんでしたし、粗野な振る舞いや無作法な態度をただの一度も目にしませんでした。しかもいちばん人で込んだところですら、みんな暗黙に了解しているかのように輪をつくり、息のできる空間をわたしに残してくれたのです。 (上巻, p. 401)      
午前五時には豊岡の全住民が集まり、朝食をとるあいだ、わたしは外にいる村人全員ばかりか、土間に立ってはしごを見上げている四〇人以上の人々の注目の「的」となりました。人々は宿のあるじからいついなくなってくれるのかと訊かれると、「こんなにめずらしいものを一人占めするとはずるいし、隣人の思いやりに欠ける。外国人の女性なんて、いま見ておかなければ、一生見られる機会はないかもしれない」と答えました。それで彼らはいてもいいということになったのです! (上巻, p. 407)      
そこかしこで出会う親切な人々について話したいのですが、馬子ふたりは特に親切で、わたしが辺鄙な内陸で足止めをくわされるのを怖れて蝦夷行きを急いでいると知ると、そっとわたしを抱き上げて馬に乗せてくれたり、乗るときに背中を踏み台代わりにしてくれたり、野草の赤い実を集めてくれたり、手を尽くしてわたしに協力してくれました。赤い実は礼儀上食べたものの、なにか嘔吐剤のような味がしました。 (上巻, p. 418)      
わたしの宿泊費は(伊藤の分も含めて)一日三シリング未満で、これまでほぼどこに行っても、快適にすごしてもらいたいという心温まる思いやりがありましたし、日本人ですら足を踏み入れない一般コースをはずれた小さくて素朴な村落に泊まることが多いことを考えると、宿泊設備は、蚤と臭気をのぞけば、驚くほどすばらしく、世界のどの国へ行っても、同じように辺鄙なところで同等の宿泊設備は得られないと考えるべきでしょう。 (上巻, p. 426)      
日本の女性は独自の集いを持っており、そこでは実に東洋的な、品のないおしゃべりが特徴のうわさ話や雑談が主なものです。多くのことごと、なかんずく表面的なことにおいて、日本人はわたしたちよりすぐれていると思いますが、その他のことにおいては格段にわたしたちより遅れています。この丁重で勤勉で文明化された人々に混じって暮らしていると、彼らの流儀を何世紀にもわたってキリスト教の強い影響を受けてきた人々のそれと比べるのは、彼らに対してきわめて不当な行為であるのを忘れるようになります。わたしたちが十二分にキリスト教化されていて、比較した結果がいつもこちらのほうに有利になればいいのですが、そうはいかないのです! (上巻, p. 429)      
しばらくそのまま馬を引いていたところ、鹿皮を積んだ荷馬の行列を連れたふたりの日本人に会いました。ふたりは鞍を元に戻してくれたばかりでなく、わたしが乗るあいだ鐙を支えてくれ、別れ際には丁重にお辞儀をしました。これほど礼儀深くて親切な人々をどうして好きにならずにいられるでしょう。 (下巻, p. 53)      
黄色い肌、馬毛のように硬い毛髪、弱々しいまぶた、細長い目、平たい鼻、へこんだ胸、モンゴロイド特有の顔立ち、脆弱な肉体、男のよろよろした足取り、女のよちよちとした歩き方など、総じて日本人の外見からは退化しているという印象を受けますが、それに対しアイヌからはたいへん特異な印象を受けます。 (下巻, p. 104)      
伊藤が夕食用に鶏を買いましたが、一時間後に絞めようとしたら、嘆き悲しんだ売り主がここまで育ててきた鶏が殺されるのを見るのはしのびないとお金を返してきました。ここは未開の辺鄙な場所ですが、勘は美しいところだと告げています。 (下巻, p. 161)      
 
日本紀行』イザベラ・バードの旅のコース 案内人      
        
日本紀行』イザベラ・バードの旅のコース      
 
伊藤鶴吉(1857~1913) 神奈川県三浦郡菊名村出身、後に「横浜通訳協志会」会長となり当時の通訳の第一人者として活躍。      
 
バードは横浜で通訳兼従者を雇うためにヘプバーン博士(1815~1911)立会いの下で応募者と面談を行い、三人目の応募者と契約しそうになったところへ、四人目の応募者である伊藤がなんの推薦状も持たずに現れる。
 
以前植物採集家のマリーズ氏と東北や北海道を旅したことがあるという。(後で伊藤の背信行為がばれる)      
 
バードは伊藤を信用できず気に入りませんでしたが、伊藤にはバードの英語が分かりバードには伊藤の英語が分かる。
 
早く旅に出たいこともあり伊藤を月12ドルで雇うことにし、伊藤の頼みで一カ月分の賃金を前払いした。       
       
伊藤は18歳(20歳という説もあり)で身長は150㎝足らず。『がに股ながら、よく均整のとれた頑丈そうな体軀の持ち主です。顔は丸顔で妙にのっぺりしており、きれいな歯と細い目をしています。それに重そうに垂れたまぶたはまるで日本人によくあるまぶたを戯曲化したようです。』      
  『伊藤はその割におしゃれがえらく好きで、歯を白くしたり、鏡の前で丁寧に顔に粉をはたいたり、日に焼けるのをひどく嫌がったりするのです。手にも粉をはたいていますし、爪を磨き、外に出るときは必ず手袋をはめます。』      
 旅の途中(藤原)では、『伊藤はとても頭がよく、いまでは料理人、洗濯人、一般的なお供、それにガイドと通訳をすべて兼ねるほど有能で(中略)彼は強烈に日本人的で、その愛国心には自分の虚栄という弱みと強みがしっかりとあり、外国のものは何でも劣ると思っています。』      
伊藤は頭がよく、旅支度などは指示されなくとも手際よく整え、人との交渉においてもその能力を遺憾なく発揮している。      
                     
 伊藤という通訳者無しでは今回の旅は成し得なかったかもしれないし、バードの手紙も内容は乏しいものになったことが想像できる。また、週に一度長い手紙を母宛に送っているし、送金もしており親孝行な若者といえる。旅行中の唯一の楽しみは夜の按摩だったという。      
バードは函館で伊藤と別れるときこう書いている。『愉快な蝦夷の旅を終えるのがひどく心残りで、(中略)この若者と別れるのがとても残念だったのです。』、『今日は大変残念に思いつつ、ついに伊藤と別れました。伊藤は私に忠実に仕えてくれ、(中略)わたしは既に彼を恋しく思っています。』      
 
イザベラ・バード『日本紀行』イザベラ・バード自ら描いた挿絵      
イザベラ・バード自ら描いた挿絵 新潟の運河      
イザベラ・バード自ら描いた挿絵 秋田の農家      
イザベラ・バード自ら描いた挿絵 アイヌの小屋      
 
イザベラ・バード自ら描いた挿絵 アイヌ民族の男性      
イザベラ・バード自ら描いた挿絵 屋台の蕎麦屋      
ザベラ・バード自ら描いた挿絵 大八車と人夫      
 
イザベラ・バード自ら描いた挿絵 飛脚      
イザベラ・バード自ら描いた挿絵 アイヌ民族 高床式倉庫      
 
イザベラ・バード自ら描いた挿絵 日光で9泊した金谷善一郎の私邸      
 

 

    


米韓、主張にズレ 日韓軍事協定破棄で

2019-10-12 15:10:42 | 日記

米韓、主張にズレ 日韓軍事協定破棄で

日韓対立

            

2019/8/23 20:05

日経

 

 

韓国はGSOMIA破棄の決定に際して「米国の理解を得た」と説明するが、トランプ政権は「強い懸念と失望を表明する」と不快感をあらわにした

【ワシントン=永沢毅、ソウル=恩地洋介】

韓国政府は23日、日本との軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄を日本政府に通告した。

協定は11月23日午前0時に失効する。韓国は決定に際して「米国の理解を得た」と説明してきたが、維持を働きかけてきたトランプ米政権は「強い懸念と失望を表明する」(国防総省)と不快感をあらわにした。

米政府当局者には韓国の離反が加速し、中国や北朝鮮を利するのを警戒する声も出ている。

【関連記事】文政権、米国の説得聞かず 総選挙へ反日世論あおる

「韓国には、今回の決定は米国や同盟国の安全保障に悪影響を与えると繰り返し伝えてきた」。

米国務省は22日の声明で、米韓の国家安全保障会議(NSC)間の協議で米国の理解を得ていたとする韓国側の説明を全面否定した。

これに対し、韓国の金鉉宗(キム・ヒョンジョン)国家安保室第2次長は23日の記者会見で「米国がGSOMIAの継続を希望してきたのは事実だ。

希望通りにならず失望したのは当然だ」と述べ、これまでの見解を軌道修正した。同時に「韓米同盟は弱化どころか、堅固にすべく努力する」と強調した。

23日、日韓軍事情報協定の破棄通告を発表する韓国大統領府の金鉉宗(キム・ヒョンジョン)国家安保室第2次長=AP

23日、日韓軍事情報協定の破棄通告を発表する韓国大統領府の金鉉宗(キム・ヒョンジョン)国家安保室第2次長=AP

 

米国が同盟国に対し異例とも言える強い表現を用いたのは、米政権高官が韓国に協定の維持を含めた日米韓協力の重要性を繰り返し訴えてきたことがある。

7月下旬にボルトン大統領補佐官(国家安全保障担当)、8月上旬はエスパー国防長官が相次ぎ訪韓。ポンペオ国務長官もバンコクでの国際会議にあわせ、康京和(カン・ギョンファ)外相と会談した。

米国は当初、対立を深める日韓への介入に及び腰だった。

それが一転したのは7月、日本の輸出管理厳格化への対抗措置として、GSOMIAの見直し論が韓国政府内に浮上したためだ。

GSOMIAは北朝鮮によるミサイル発射など朝鮮半島有事の際、円滑な対応に不可欠な枠組みだ。

韓国によるなりふり構わぬ日本への揺さぶりに「この関係が壊れれば、米国の利益も危険な状態にさらされる」(国務省高官)と危機感を募らせた。

だが最終的に韓国は米国の要請を振り切った。

関係者によると、韓国政府内でも国防省は協定の維持を望んだが、大統領府の対日強硬派の主張が通ったという。

韓国メディアによると、エスパー氏は23日、韓国の鄭景斗(チョン・ギョンドゥ)国防相から電話で協定終了の説明を受けた際、情報交換が制限されることに懸念を示した。

「今回の決定は、私たちが直面する北東アジアの安保の課題について文在寅(ムン・ジェイン)政権の深刻な思い違いを反映している」。米国務省は声明で、米韓の認識の違いを辛辣に指摘した。

一つは北朝鮮だ。

南北関係改善を悲願とする文政権は南北経済協力に前向きで、非核化の手法でも北朝鮮が求めている非核化措置を取るごとに見返りを受ける「段階的な非核化」に理解を示す。

経済制裁の効果を薄めるとしてトランプ政権はいずれも否定的だ。

もう一つは中国の存在がある。米国は対中抑止の柱に「インド太平洋戦略」を掲げ、日本やオーストラリアとともに韓国に協力を求めている。

だが韓国は中国に気兼ねして協力には慎重で、米国には文政権への不信が募っている。

中国外務省の耿爽副報道局長は23日の記者会見で「軍事安全協力を対外的に展開するか、終結するか(の決定)は主権国家の自主的な権利だ」として、韓国の決定に注目していると述べた。

米政府当局者には今回の動きを契機に、韓国の米国離れが加速する展開を懸念する声が強い。

不発に終わった米の仲介努力は、力を増す中国の陰で米国のアジアでの影響力が陰りつつある状況を映し出す。