■臥龍城,丹波之国の福知山城
戦国武将明智光秀を主人公としましたNHK大河ドラマ"麒麟がくる"が佳境を迎える今、福知山が話題です。
福知山城。京都駅を出発した快速電車が長い旅路を終えようとするその頃合いに山陰本線の高架線から丹波の美しい山並みと滔々と流れを湛える由良川のその奥に、凛としてしかし厳粛な風景が気分を高揚させる、その風景とは小山の上に威容を示す福知山城という。
京都駅から亀岡を超えますと綾部の工業団地までは京都府の丹波山地という奥深さを満喫するところではありますが、綾部から二つに分かれる路線はいっぽうが舞鶴へ、もう一方が山陰本線を福知山へ向かいまして、路線は徐々に高架線へ、栄えてゆく印象があります。
太平洋戦争後の1985年に鉄筋コンクリートにて再建された再建天守閣が聳えています福知山城、日本の国民総生産GNI/GNPが西ドイツを抜いて世界第二位となったのは1968年、1950年代に急ぎ復旧した復興天守と異なり意匠まで再現できる余裕の時代の天守は美しい。
丹波山地を超えて到達しましただけに、感慨深いのは丹波は哲郎、ではなく旧国名でして、丹波の国の中心がここ福知山であった、という事なのですね。山陰本線は遠く出雲の国へ続きます。その立地が示す通り要衝であり、和銅年間の8世紀から国司が置かれていた。
大神狛麻呂が国司として配せられたのは和銅元年の西暦708年でして、鎌倉時代からは守護が置かれ、1392年からは細川氏が代々所領として1575年まで守護をになって来ました。ここから戦国時代一旦、波多野氏所領となったのちに、明智光秀の所領となったのですね。
明智光秀、昨今新しく注目が集まっています戦国武将、福知山城は彼の手により天象7年こと西暦1579年に築城される事となりました。実は今の様な天守閣は江戸時代中期に建築されたものを再現したもので、全容は不明の部分が多いのですが縄張りは当時のものです。
臥龍城、横山城、八幡城、福智山城、掻上城、様々な名を持つここ福知山城は山陰本線福知山駅から徒歩十五分ほど、慣れていないと大通り増に市役所を経由し二十分というところでしょうか、山頂の城郭までは自由に来訪者へ門扉を開いており、丁度良い散歩道です。
戦国時代の縄張りに依拠する城郭、しかし、明治時代から親しまれる城郭を模索し、結果として軍事拠点や行政拠点から文化の拠点となった歴史を示すように、こう経路は階段に手すり案内板が整備されていまして、城郭に文字通り上る際の郭のその迷い道さえ楽しい。
由良川を自然の防壁とする福知山城は、明智光秀が織田信長の命令により中国攻めに向けて造営した一つの兵站策源地であり、考えてみると山陰本線の重要拠点である福知山駅は、JR時代でも九州の門司行普通列車、日本最長列車やブルートレインが運行されていました。
八幡山に掻上城という城郭が中世の塩見頼勝治世の時代から置かれていまして、元々福知山王が築城される前にはもう少し山手に沿った城郭が造営されていました、ここを近代的城郭に再構成したのが明智光秀、という事なのですね。実際見上げると天守閣威容は凄い。
掻上城の時代は、今の近代城郭というよりは山麓に大名屋敷というべき兵站拠点と行政拠点が整然と広がり、しかし山頂には物見台のようなものが配置されていたというもので、今の福知山城は山之上に天守閣はじめ中枢が置かれているのとは真逆の配置だったという。
明智光秀の福知山城、こう認識されることは城郭の造営は時間を要するものでして、光秀の丹波所領時代は天正8年の1580年から僅か二年弱と短く、基本的に此処をどのような市街地に発展させるかの都市計画を確定しただけ、というのがその実態の様でもありますね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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戦国武将明智光秀を主人公としましたNHK大河ドラマ"麒麟がくる"が佳境を迎える今、福知山が話題です。
福知山城。京都駅を出発した快速電車が長い旅路を終えようとするその頃合いに山陰本線の高架線から丹波の美しい山並みと滔々と流れを湛える由良川のその奥に、凛としてしかし厳粛な風景が気分を高揚させる、その風景とは小山の上に威容を示す福知山城という。
京都駅から亀岡を超えますと綾部の工業団地までは京都府の丹波山地という奥深さを満喫するところではありますが、綾部から二つに分かれる路線はいっぽうが舞鶴へ、もう一方が山陰本線を福知山へ向かいまして、路線は徐々に高架線へ、栄えてゆく印象があります。
太平洋戦争後の1985年に鉄筋コンクリートにて再建された再建天守閣が聳えています福知山城、日本の国民総生産GNI/GNPが西ドイツを抜いて世界第二位となったのは1968年、1950年代に急ぎ復旧した復興天守と異なり意匠まで再現できる余裕の時代の天守は美しい。
丹波山地を超えて到達しましただけに、感慨深いのは丹波は哲郎、ではなく旧国名でして、丹波の国の中心がここ福知山であった、という事なのですね。山陰本線は遠く出雲の国へ続きます。その立地が示す通り要衝であり、和銅年間の8世紀から国司が置かれていた。
大神狛麻呂が国司として配せられたのは和銅元年の西暦708年でして、鎌倉時代からは守護が置かれ、1392年からは細川氏が代々所領として1575年まで守護をになって来ました。ここから戦国時代一旦、波多野氏所領となったのちに、明智光秀の所領となったのですね。
明智光秀、昨今新しく注目が集まっています戦国武将、福知山城は彼の手により天象7年こと西暦1579年に築城される事となりました。実は今の様な天守閣は江戸時代中期に建築されたものを再現したもので、全容は不明の部分が多いのですが縄張りは当時のものです。
臥龍城、横山城、八幡城、福智山城、掻上城、様々な名を持つここ福知山城は山陰本線福知山駅から徒歩十五分ほど、慣れていないと大通り増に市役所を経由し二十分というところでしょうか、山頂の城郭までは自由に来訪者へ門扉を開いており、丁度良い散歩道です。
戦国時代の縄張りに依拠する城郭、しかし、明治時代から親しまれる城郭を模索し、結果として軍事拠点や行政拠点から文化の拠点となった歴史を示すように、こう経路は階段に手すり案内板が整備されていまして、城郭に文字通り上る際の郭のその迷い道さえ楽しい。
由良川を自然の防壁とする福知山城は、明智光秀が織田信長の命令により中国攻めに向けて造営した一つの兵站策源地であり、考えてみると山陰本線の重要拠点である福知山駅は、JR時代でも九州の門司行普通列車、日本最長列車やブルートレインが運行されていました。
八幡山に掻上城という城郭が中世の塩見頼勝治世の時代から置かれていまして、元々福知山王が築城される前にはもう少し山手に沿った城郭が造営されていました、ここを近代的城郭に再構成したのが明智光秀、という事なのですね。実際見上げると天守閣威容は凄い。
掻上城の時代は、今の近代城郭というよりは山麓に大名屋敷というべき兵站拠点と行政拠点が整然と広がり、しかし山頂には物見台のようなものが配置されていたというもので、今の福知山城は山之上に天守閣はじめ中枢が置かれているのとは真逆の配置だったという。
明智光秀の福知山城、こう認識されることは城郭の造営は時間を要するものでして、光秀の丹波所領時代は天正8年の1580年から僅か二年弱と短く、基本的に此処をどのような市街地に発展させるかの都市計画を確定しただけ、というのがその実態の様でもありますね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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