◆京都最北の城址公園
山陰本線から舞鶴線で、京都府の日本海側、日本海防衛の要衝舞鶴基地へ向かう途上、西舞鶴駅を発車し終点の東舞鶴へ列車が動き出したところで、注意深く車窓の先を見渡すと、幽かに城郭のようなものがみえる。
この城郭こそ、舞鶴城として親しまれる田辺城の姿である。西舞鶴駅にて特急を降り、そこから歩くこと数分、田辺城の城門が見えてくる。田辺城は、細川藤孝が織田信長からこの地を与えられ、1579年に造営された城郭で、完成したのは1581年、本能寺の変の前年だ。もともとは宮津城を居城としていた細川藤孝が、交通の要衝である田辺に居城を移したことで誕生した。
田辺城は、輪郭式平城として天守閣も有した城郭構造となっていたが、1600年、東軍についた細川氏に対し石田三成隷下の15000名が攻撃を加え、当時の城主細川忠興以下2800名が徳川家康の上杉征伐へ出陣していたことから、城に残った僅か500名が細川藤孝とともに籠城することとなった。この田辺城籠城は、50日間に及び、細川藤孝の身を案じた後陽成天皇の仲介もあり、開城に至った。
その後、江戸時代に入り、細川忠興が小倉に移ったのち、京極氏のもとで舞鶴藩が創立されたが、一国一城令により破壊、舞鶴藩が宮津藩、田辺藩と別れた際、再び田辺城が藩主の居城として再興された。この混乱とともに天守閣などは失われており、京極氏から牧野氏と藩主の変遷を辿りつつ、1874年に廃藩置県とともに廃城となった。
当時の遺構は石垣、堀、庭園などとなっており、加えて1940年に櫓が、1997年に城門が再建され、現在は自由に立ち入ることが出来る公園として市民に開放されている。別名舞鶴城と呼ばれる田辺城だが、舞鶴とは舞鶴市と同じマイヅルではなく、ブガク、と読むのだそうだ。
旧海軍の航空母艦などで瑞鶴をズイカク、翔鶴をショウカクと読むのだから合点は行くのだが、まいづる、と呼び慣れた優美な地名の地に、ぶがく、という威厳を伴ったような響きの別名をを聴くと、ある種新鮮に思えてくる。他方、舞鶴、つまりブカクと呼ぶ空母も、あり得たのかな、と思ったりもしてしまう。
さて、舞鶴という地名は、天橋立を始めとした美しい地形が、舞う鶴の翼を思い起こさせる優美な地名なのだが、宮津、田辺という地名はあったものの、舞鶴という地名が定着したのは、明治時代に入ってのことである。これは、田辺という地名が和歌山にもあり、紀伊田辺との混同を避けるために、明治初期、廃藩置県の直前に舞鶴藩という名前が再興したことが、今日の舞鶴市につながっているともいわれる。
田辺城は、ごく一部が再建されているにとどまり、二層櫓、城門以外は、庭園が往時の様子と時の流れを現代に伝えているのみである。従って、舞鶴線の車窓からは、このような城郭らしい姿は見ることが出来ず、庭園が手前に、そしてその向こう側に二層櫓や城門がみえる、という配置になっている。
城門の銃眼。ここから鉄砲などを突きだしてみると、撮影につきだしたのはカメラとレンズだが、射線に道がしっかりと収まる。この写真を撮ったあたりで雨が降り始めてきた。城門の建築物は、その中が田辺城資料館となっており、こちらも無料で開放されているので、見学することとした。
“いにしへも今もかはらぬ世の中に こころの種を残す言の葉”、舞鶴と田辺城を造営した細川藤孝の言葉である。細川藤孝、またの名を細川幽齋は、古典文学や政治儀礼、能楽に秀でた伝承者で、朝廷との橋渡しとして、足利義昭、織田信長や徳川家康に仕えた安土桃山時代の武将だ。
田辺城資料館は、交通の要衝としての舞鶴の歴史や、田辺城の誕生や、変遷、田辺城籠城などの城の歴史などが展示されている。ちなみに、今日、舞鶴市役所は、東舞鶴に置かれているが、もともと東舞鶴は、旧海軍が舞鶴鎮守府を置くにあたって誕生した軍事都市で、東舞鶴市と西舞鶴市が合併することにより舞鶴市が誕生したとのこと。
歴史などを解説するパネルだけではなく、舞鶴の昔を再現した模型、そして大名行列などの情景の模型に加え、火縄銃や刀、甲冑などといった武具も展示されている。この田辺城資料館は、0900~1700時に開かれており、閉館日は毎週月曜日、月曜日が祝日の場合は、その翌日が閉館日となる。
大きな城郭でもなく、建築物も重文や国宝のようなものはないが、京都府北辺の城郭ということで、楽しむことが出来た。こうして田辺城を一通り見学し、西舞鶴駅に向かう。西舞鶴と東舞鶴はひと駅違いだが約7kmの距離があり、舞鶴線の運行本数が特急を含めても毎時0~2本と、非常に少なく、さらに終電が運行される時間も早いことから、移動には時刻表と時計の確認が必要だ。西舞鶴は、JR西日本と、北近畿タンゴ鉄道が乗り入れている。
田辺城と京都府警舞鶴警察署。庭園とともに親しまれる田辺城、夜の城郭というと、立ち入ることができるとしても、やや怖く感じることもあるが、警察署が隣にあるので、治安は安心だ。場所は、西舞鶴駅から歩いてゆくので基本、町が合うことは無いと思うが、線路から見える道筋を歩いてゆけば迷うことは無い。
田辺城と警察署、そして駅前と駅前に広がる商店街。典型的な城下町としてのつくりとなっている。駅前を歩いてみると、東舞鶴と比べ、西舞鶴の方が商店街の規模もやや大きく、ホテルの数も多いようだ。これは、天橋立に向かう北近畿タンゴ鉄道の始発駅が西舞鶴にあるということで、観光地としての役割がある為だろう。
田辺城最寄の西舞鶴駅へは、JR西日本の特急まいづる号が、京都駅から運行されており便利である。使用される183系特急車は、北陸本線特急雷鳥に使用される485系から改造されたものもあり、設備も含め、古いことは否めないが、言いかえればレトロ感溢れる特急だ。窓が小さいのがやや残念だが、旅情を感じることが出来る特急。
観光特急として、北近畿タンゴ鉄道のタンゴディスカバリー号が運行されている。本数は、まいづる号と比べ少ないが、KTR-8000形気動車は比較的新しく、展望スペースも設けられている。また、新大阪から北近畿タンゴ鉄道線を経由し西舞鶴に向かうタンゴエクスプローラ号には、眺望が素晴らしいハイデッカー構造のKTR001形気動車が使われている。
HARUNA
[本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる]
私も城址が好きなのであっちこっち見て歩いています。ただ残念なのは、戦災や廃藩置県などで潰してしまい戦後に建てられたものが多いですね。
さて、私がもっとも好きな城は、愛知県の犬山城です。特に桜の季節は最高ですよ!
犬山城、当方は名鉄撮影でパノラマカーが現役の頃は近くまではよく通ったのですが、犬山城へ行ったのは数回程度ですね。
↓ちなみにこんな写真も
http://harunakurama.blog.ocn.ne.jp/kitaooji/2007/12/f15j_4897.html
青春18きっぷ利用で、山陽本線沿線の城郭と、静岡県内の東海道本線沿線の城郭を回ってみたいと数年前から思っているのですが、なかなか機会が無い・・・。
大手門は二条城を思わせますね。最近、琵琶湖
周辺に点々と行くことがあり、時間を見つけて城
めぐりしたり。
田辺城は行ったことがありませんが、行きたい
ところです。実は舞鶴自体、行ったことがありま
せんでして。
城は、曲輪含めてでは彦根城辺りが好きですね。
姫路城もいいのですが行き飽きました(笑)。
しかし、一番の感動があったのは、近代天守閣
(と言っても1500年代以降ですが)の祖であり、
興味津々の信長の築城の安土城址に行ったとき
ですね。勿論天守閣も、周辺主要建築物も残って
いませんが、往時をしのんで、「無い」ことが想像力
をかきたて、何故だか至る所で立ち止まったり
でした。早く隠居して、全国城巡りがしたいです。
まず最初に残念なお知らせ、安土町が町村合併で無くなります・・・。近江八幡市になるそうで。小さな町ですが、安土城を活かした街創りに町長さんはじめ、熱意があって、面白そうな町でしたから残念。
舞鶴の田辺城、小さな城で、遺構もかなり確認できない場所が多く、ちょっと、田辺城だけを見るために観光、というのは無理がありそうで。西舞鶴から、北近畿タンゴ鉄道にて天橋立を観光するための列車の待ち時間を利用して足を運んでみるのが面白いかも。
城郭めぐりですが、まもなく姫路城が平成の大修理に入りまして、天守閣は事実上一度解体され、整備を受けるとのこと。一方で、山陽道沿いの城郭が、これはチャンスと、アピールの機会を図っているようです。忠臣蔵で有名な赤穂城など、遺構は限られているものの、街並そのものの観光に足を運ぼうか考えている今日この頃。
西舞鶴と舞鶴基地がある東舞鶴はかなり距離があるのですが、横須賀基地と比べれば規模は小さな舞鶴基地、それでも舞鶴航空基地と並び、8月の一般公開では、けっこう楽しめるやもしれません。元護衛艦はるな、もまだ、舞鶴にブイ係留されています。