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【京都幕間旅情】東寺-観桜拝観,花つつむ京都最古の寺院はこの国の新しい一歩目指した平安京はじまりの地

2023-04-26 20:00:40 | 写真
■早春に満開の桜
 この春のさくら満開の早さを考えますとしょうしょう昔話のような構図となりますが。

 東寺、一仕事終えて近鉄線に乗りました際にちょっと寄り道をしてみようかなと思う際にはどうしても五重塔、京都タワーよりももう一つ先に近鉄京都駅が見えてくる頃合いに大きな存在感の堂宇はやはり心ひくものがあります。近鉄東寺駅はその最寄り駅だ。

 京都市南区九条町、延暦15年こと西暦796年に開かれました東寺、教王護国寺とも呼ばれる寺院であり、京都では最も高い木造高層建築物である五重塔が象徴的な建物です。不思議なもので、いま京都といえば玄関口は京都駅、京都駅が洛中の中央に位置している。

 羅生門、これが平安朝の平安遷都の頃となりましたらば東寺の名の通り、こちらがつまり京都駅から西側にあります東寺が、正面に当たる羅生門の東側にあったといいますので、京都はヴェゲナーの大陸移動説も驚くほどに大きく東に移動したという象徴といえる。

 平安遷都の時代、羅生門は朱雀大路、京都の中心を行く中心道路から東西に分かれていまして、そもそもこの平安京の造営は当時からわが国との重要な隣国であった唐の首都長安を模していた都市計画に基づくとされています、その関係は日本の外交関係の起点だ。

 東寺というのは迎賓館に当たる位置づけの建物であったという説があり、これは日本の外交関係において、中国を意識しつつ、中国から距離を置かなければならないという、何か日本の現代外交と似た関係のようなものがありました。東寺はその舞台でもあった。

 中華思想と冊封体制、日本が国家として中央集権体制を構築してゆくとともに外国という概念と外交という概念を意識し始めた際、日本という立ち位置を考えるうえでいわゆる大国の衛星国という位置、中華思想の概念と国家の価値観が差し障ることに気づかされる。

 迎賓館的な位置づけでの造営と千百年前の中国首都を擬した首都建設は、いわば大陸と日本を互角たらしめたい、という一種願いのような気概とともに造営されたものといえます。これは遣隋使遣唐使と中国との関係を結ぶ中で冊封体制から距離を置いた点に表れる。

 遣唐使の時代に合って、あれは朝貢外交以外何物でもない一方で、隣国新羅のような冊封体制の国との差異を唐に求めるなど、飛鳥時代奈良時代にこうした独立性を求める意思は形成されていたようで、この指針は唐以外の国の使者を厚遇し優位を示す事となります。

 渤海や新羅などからの使者を厚遇することで国内的には朝貢を受けているような、小中華思想的な枠組みを模索していたのが奈良時代の日本であり、大陸の鴻臚寺のような迎賓施設としての地位を東寺の立地、羅生門の東西に位置する建物に求めていたといえます。

 聖武天皇の時代、天皇の装束は神官を束ねる白装束に大陸風の冠を身につける装束が正装となったといい、外交と国内統治を装束に反映させていたことが理解できます、ただ九世紀初頭の光仁天皇は装束が中国の皇帝を示す黄色の装束に代わり、大陸的となった。

 正倉院、奈良にはこの当時の装束が、劣化してはいるものの残っていまして日本が国家としての意識を持つようになりますと、その自我として国際関係、特に周辺国との関係に悩むようになったことがわかります。これは技術などは欲しいが冊封下には入りたくない。

 平安遷都の頃、この東寺は羅生門を挟む西寺とともに文字通り都の玄関口にあり、渤海などからの使者を接遇した施設であった。これがいつしか寺院となるようになったという。もっとも、東寺の創建には諸説があり、これはその説の一つでもあるのですが、ね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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