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【京都幕間旅情】東寺観桜,無理な左右対称省いた平安京造営は多様性と日本の自我その基点と包むさくら

2024-05-08 20:21:44 | 写真
■その個性長所悪癖すべて
 歴史と共に散策するというのはたのしいものです。

 京都には今の日本の成り立ちの背景となるものが幾つも存在している、それは価値観であったり文化観であったり制度の下となった習慣であったり。そして自分の依拠した文化や価値観というものは第三者の視点で客観的に見ることはじつのところ難しい。

 会議会議で日本の場合はトヨタなど幾つかの先進的な試みの企業を除けば会議が業務時間を圧迫するけれども会議を経なければ業務の具体性が確定できないために上限知らずの会議を続けている、しかしこれは責任を分散させる室町幕府の制度の延長といえて。

 前例踏襲主義というものは日本の国是のようなものですけれども、御霊信仰のような例外的なことを行った場合を実は直接の原因ではないもののほかに責任転嫁できない故に特定の対象に原因を当てつける結果と原因を曖昧化させた歴史の名残ともいえます。

 減点主義であり成果を伸ばすことを第一とする加点主義を採用できない事は過去の天平天然痘を経て島国でもあるにもかかわらず農耕民族で極端な地域主義となった為に一度の失敗を取り戻せないという価値観が数十世代積み重ねて醸成したものといえる。

 しかしこれも積み重ねがあっての物であり、東寺が造営された時代というのはまだ日本自身が、自分たちが何者なのか、ニッポンジンという概念を定着させることができなかった時代でもありまして、ここに大陸を模倣した平安京建設というものも含まれた。

 東寺と西寺の造営、しかし地形がそもそも広い平野部が限られ今の大阪平野さえ適地には見えるものの当時は湿地帯で建物を建てられる場所が限られ、火山性地形故に峻険な山間部からは活断層に割れ目に沿って不規則に大河が構成され水害も数多い。

 密教が間に合った背景には洪水多発地帯に近い西寺の方に資材を集中していたという背景がありますが、しかし結果、水害というのは毎年同じように降ることで起きるものではないし、秦氏による治水事業の成功という背景も含めるべきだろう、西寺が進む。

 空海に任された。当時の造営には武士の英雄と言われる坂上田村麻呂も造営官を命じられていますが、遅れているところに細心の部教師層が入りまして、その指示の高さから一気に進められました。そして密教寺院として長らく役割を担う事となります。

 結局のところ、先ず無理な左右対称というものを省いたことが当時の歴史的な意義の一つなのかなあ、と当時はまさか千年もこの寺院が親しまれるとは考えていなかったであろうことともに思い浮かべる次第です。そしてもちろん多種多様な信仰の寄る辺にも。

 寺院が歴史を超えるには役割というものが重要でして、東寺がこう永らえた背景には真言宗が普及していった背景があります。もっとも、真言宗は先行する最澄の天台宗と、集中を防いだ政治的意図を考えてしまうのですが、併せて南都六宗への牽制も担う。

 多様性が叫ばれる現代世界ですが、一方で一つに集中させないという密教と南都六宗との概念は、結局排他的ではある日本に在って、外の文化はしかし積極的に取り入れる努力と、吟味する慎重さにより排他的すぎない文化観を醸成した事にも、なるのかなあ。

 永らえたことにより、こうして今日も当時の観桜を春の愉しみとできる訳です。散ってしまうまでは早い桜なのですけれども、京都満開宣言からはほぼほぼ一週間を隔てたのちの東寺拝観のこの順路というものは、かくも美しく彩られていましたね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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