北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】松本城-観桜,善政とはなにか-次々代わる藩主と天守閣造営と寛永通宝松本銭鋳造に安政東海地震

2024-05-01 20:23:03 | 旅行記
■複合連結式層塔型五重六階
 複合連結式層塔型五重六階の天守閣はやはりどの角度から見ましてもその威容は凄いものが有ります。

 松本城と小笠原氏の歴史はこれまでに示しました通りで、武田氏により信濃守護の座を追われ流浪のみとなりましたが、世代を超えて帰還を果たしました。それは時間はかかりましたが世代を超えて念願成就というものはある種の大団円といえるでしょう。

 複合連結式層塔型五重六階の天守閣は、ただ、しかし造営にはもう一つの話題も。蕎麦処である信州は言い換えれば耕作不適地が溢れているとは依然示しましたが、実は松本藩の石高は8万石でしかありません、つけくわえると豊前小倉藩15万石の半分強でしかない。

 旧領復帰、しかし8万石であっても世代を超えた悲願である松本復帰、良政を敷くために東奔西走し年貢の融和制度による離散農民帰着推進と街道整備、石川氏時代には城郭造営にくわえてそれもおおきな負担となっていましたが諸役免除など優遇策を行う。

 小笠原秀政は石川家改易後の慶長18年こと1613年に松本入りしていますが、この時今の天守閣はまだなかった、と現在の研究では。元和3年こと1617年に小笠原氏は明石藩主となり信濃松本藩7万石として松平康長が松本藩主となります。時代は変わった。

 松平康長が松本藩主となりましたが、小笠原家の家臣団の多くは小笠原忠真を慕い明石へ移住します。ただ松平康長も第3代将軍家光補佐役という人格者、小笠原時代の制度をほぼすべて継承するとともに検地制度を公平に行うことで領民の支持を得ました。

 出世城、というべきなのでしょうか、松平康長とその子康直は地侍の登用など良政を敷いたことで幕府に評価され、明石藩主に建てられました、けれども。松平直政、徳川家康の孫にあたる越前大野藩主が松本藩主となりますと、その先にはきびしいことがありまして。

 天守閣造営と寛永通宝松本銭鋳造など、この時松本藩は7万石であったのですが無理を押し通しまして。この時までは良かったのですが、次の堀田正盛が藩主となりますと巳午の飢饉という大飢饉が起こり、応急的ですが労役免除や年貢猶予などの善政を敷きました。

 堀田正盛は幕府老中の経験がありましたが、下総佐倉藩へ移封が飢饉の最中に行われ、続いて三河吉田藩主水野忠清が7万石で入封しますと、水野氏の時代となり、財政難から年貢を実質四割増しし、飢饉においても年貢猶予を認めないという、厳しい政策をとります。

 貞享騒動という貞享3年こと1686年の農民一揆は一万もの農民が松本城へ押しかける騒ぎとなる。磔8名と獄門20名の極刑となりまして、実は松本城は天守閣に傾きが見つかるなど無理な工事を経ていることが判明していますが、極刑の祟り、と揶揄される事も。

 天守閣の傾きは明治の写真などに顕著であり、ただこれは祟りなどではなく、この松本という盆地由来の軟弱地形に重量のある天守閣を造営した事と、明治時代に天守閣を支える十六本もの心柱が老朽化により折れ始めたための自重が原因とのことでしたが。

 安政東海地震の影響なども資料には残っていまして、そして今も天守閣内には耐震補強工事などの必要性が示されているところがあるという。ただ、8万石とか7万石という石高のほかの半の城郭を見ますといかにも巨大ではあるとか感じる城郭ではありますね。

 国宝天守閣。ただ城郭が今の平和の時代を生き残るにはそれなりの役割があった訳です、それは城下町松本共に城郭を慕う郷土愛と観光需要とを結びつける熱意があるからにほかならず、故に長い時を経て松本城の天守閣は今も威容を親しまれているのでしょう。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】松本城-観桜,松本城と小笠原氏の歴史は敗北と離散と戦火の果ての望郷と帰還への希望

2024-05-01 20:00:57 | 旅行記
■林城の戦いと大坂冬の陣
 歴史は現代史を考えるうえでの一助となる事が多い。

 松本城と小笠原氏の歴史、現代史から見ますとディアスボラという訳では無いのでしょうけれども熱意があれば多少世代を超えることはあるのかもしれませんが、仮に戦火でうまれ故郷を追われたとしても帰ることができるということなのでしょうか。

 武田信玄に故郷を追われた小笠原貞慶、林城の戦いでの敗走を経て塩尻峠の戦いの敗北により小笠原氏は信濃から潰走を強いられることとなりますが、先ず上杉氏を頼り越後に、上杉謙信と武田信玄は永禄4年こと1561年より川中島の戦いで激突します。

 上杉謙信は、しかし川中島の戦いでは勝利を得るには至らず一進一退、このことから実父小笠原長時ともども京都に逃れることとなりまして、三好氏の庇護下に入ります、三好三人衆として形骸化しつつあるとはいえ室町幕府に大きな影響を及ぼしていたゆえ。

 六条合戦として三好三人衆が足利将軍家に刃を向け、その三年前の永禄の変では室町第13代将軍足利義輝を討ったように第15代将軍足利義昭を討ち取ろうとしたところ、室町幕府の要請を受け上洛する織田信長が加わり、三好三人衆は決定的な敗北を被る。

 三好氏に呼応して参陣した小笠原氏も小笠原信定戦死という厳しい状況となり、しかしこの結果として生き残った小笠原氏は織田氏はいかとなり、元亀4年こと1573年には織田氏の武田氏や上杉氏との交渉を一任されるまでとなり、所領に筑摩郡を任される。

 甲州征伐として長篠の戦を経た織田信長の対武田攻勢がはじまると深志城を後の有楽こと織田長益が陥落させ、これを機に旧領回復を目指すのですがこの時はかなわず、ただこの歳に本能寺の変が起きたため、徳川家康に接近、実父小笠原長時が悲願を果たす。

 深志城を松本城と改名しましたのはこの時といいまして、旧武田領の本能寺の変を受けての騒擾を天正壬午の乱としてまとめられるのですが、ただ逆に小笠原貞慶はこのとき小笠原長時が徳川家康との宥和を期して人質に出されます。しかし、結果的にこれが。

 石川数正が家康人質となった小笠原長時を預かるのですが、この日とは徳川を裏切り豊臣方に出奔した事でも知られ、天正18年こと1590年に小田原城落城と共に北条氏が滅亡すると徳川家康の関東移封となります、すると石川数正が松本城城主になってしまう。

 松本城二転三転というところなのかもしれませんが、ただ、この際に石川数正は松本城の大規模拡張を行い、難工事である掘割や石垣の築城を担う。もっともこの時造営されたのは連結式望楼型天守閣であり現存していません、が基礎固めを果たした構図だ。

 江戸時代に入りますと石川氏の当主石川康長が大久保長安事件により改易となりまして、ここに遂に念願の、というべきでしょうか、小笠原長時の松本城入りが叶うのです。関ケ原の戦いでの宇都宮城防衛を評価された故ですが、その後大坂冬の陣で没する。

 小笠原氏は、この大坂冬の陣で小笠原秀政は実子小笠原忠脩ともども討ち死にしますが、次男小笠原忠真が家督を受け継ぎ、なにしろ激戦の果ての家督であるため家康の評価は高く、先ず播磨三木明石10万石加増、続いて豊前小倉15万石移封となる。

 宮本武蔵が仕えたことでも有名な小笠原忠真は、時間こそかかりましたが信濃帰還を果たしたのちに九州の大藩を任され小倉城主となります。とれは鎮西探題といわれるような幕府の九州監視という役割でもあり、時間をかけ帰還、そして拡大を実現しました。

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【京都発幕間旅情】榛名さんの総監部グルメ日誌-愛知岩倉,COVID-19禍下の2021年に春日井で凄いステーキ店が誕生した

2024-05-01 18:11:08 | グルメ
榛名さんの総監部グルメ日誌
 この話題を紹介するまでチェーン展開では無く頑張っている個人点だと思っていたほどなのですけれども凄いお店でした。

 全国チェーンとは言わないまでもかなり多くのチェーン店網を展開しているらしいのだけれども、出先で知るまでその存在を知らなかった、ということは数多あるものなのですが、愛知県発祥で首都圏から滋賀県と岐阜県まで展開しているが京都府には無いという。

 小牧基地近くでステーキのお店、気にはなっていたのですが派手な看板とともに安すぎて混雑していた印象が長く入り難い印象だったものの、まあ入ってみよう、と試してみましたならば、凄いなあ、と。なにより食券を買って二分少々でカウンターにて熱々料理が。

 感動の肉と米、というお店です。その創業は意外と新しく2021年に愛知県春日井市にて一号店が創業したという。今回探訪しましたのは小牧基地の近く、岩倉店です。名鉄犬山線の岩倉駅から西方に、岩倉中学校の北側にあるのですが、気にはなっていたお店でして。

 ステーキ専門店、というのは世の中に溢れるほど存在するのですがここは1000円以下のステーキも提供しているのですが、何より驚くのはご飯お替り自由となっているほか、味噌汁はもちろんイカの塩辛やキムチにめかぶまで、いま塩辛は休止中か、お替り自由という。

 中落ちステーキセットという、900円の料理なのですが、現在はインフレで世界中が大変な2024年なのだが、このお値段、ロースステーキが1000円でダブルロースステーキでやっと1800円、ポークステーキは800円で粗挽きハンバーグも800円、チキンは780円と。

 安いのだけれども手抜きはない、先ず大量の分厚い鉄板を容易して高温で熱して、客が券売機で買った瞬間に肉を載せて紙の蓋をしてしまうので調理は迅速、客は席まで持って行き鉄板で焼きあがるのを待つ、あとはテーブルの多種多様なソースや醤油や塩で愉しむ。

 徹底した自動化の流れのサービスを2021年という世界中が大変な時代に考え上げたという、これには驚くなあと思いつつ、ステーキの他に塩辛や雌株とご飯も美味しい、健康ばかり考えてストレスを抱え込むくらいならば、こういうステーキで発散は大事だと思うのです。

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ウクライナ情勢-自爆用無人機迎撃するYak-52初等練習機とアウディイフカ北西突出部の概況

2024-05-01 07:00:08 | 防衛・安全保障
■防衛情報-ウクライナ戦争
 T-7のような練習機でもM-134ミニガンでも搭載するならば自爆用無人機迎撃に寄与するのでしょうか。

 ウクライナ軍はロシア軍無人機迎撃にYak-52を投入しているもようです。Yak-52はソ連のヤコヴレフ設計局が1979年に開発した初等練習機で、初等練習機ではあるものの練習機としては比較的強力な360hpのエンジンを搭載している事からエアレースなどに対応する民間アクロバット航空機としても運用されています。そして空軍の装備ではありません。

 COIN機、対叛乱制圧機という、近代的な防空システムを有する相手や戦闘機を運用する相手にははがたたないものの武装勢力などに対して機銃やロケット弾等を装備して上空から制圧する航空機がありますが、ウクライナ軍は民間アクロバット航空機に何らかの機銃などを搭載し、反撃をせず単純に低速で飛行する自爆用無人機迎撃に当てているとのこと。

 自爆用無人機は射程1000kmを超えるものでも兎に角安価であり数が投入される一方、迎撃に地対空ミサイルや戦闘機を投入した場合はその運用費用や弾薬枯渇が大きな問題となりますが、運用費用が安価な初等練習機に武装させ、自爆用無人機長距離攻撃に対応させるという運用は、今後各国の自爆用無人機対策に一石を投じる事となるのかもしれない。
■アウディイフカ北西部
 アウディイフカ北西部の概況について。自衛隊が退役させた203mm自走榴弾砲などがもう使わない砲弾共々供与されていればこれも充分撃退できたのだろうかとおもったりする。

 ロシア軍はアウディイフカ北西部の突出点を安定化させつつある、4月25日付ISWアメリカ戦争研究所ウクライナ戦況報告の情報です。これは同時にウクライナ軍がアウディイフカ失陥後に防御に適した地域を確保出来ておらず暫時ロシア軍の侵攻を許している現所があり、ISWはウクライナ軍がアウディイフカ西部の防衛線から後退する可能性を示した。

 アウディイフカ北西部ではロシア軍が中央軍集団より装備の優れた4個旅団を集中していて25日中にノボバフムチフカからソロビヨフカまで前進したことが確実となっていて、このまま前進した場合はアウディイフカ近郊のベルディチとウマンスケ等を結ぶウクライナ防衛線の現有兵力で確保する事が難しく、ここがロシア軍戦車部隊に突破される可能性も。

 ベルディチとウマンスケ等を結ぶウクライナ防衛線についててゃ、ただ確保する事は難しいもののロシア軍が此処を突破した場合でも前線崩壊が起こる可能性は無いとISWは分析しています。一方、ウクライナ軍は反撃を開始しており、シヴェルスク東方方面においてロシア軍占領地域へ前進を成功させたとも分析しており、状況は不確実性を増しています。

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