北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】建仁寺,小泉淳作の双龍図や俵屋宗達風神雷神図複製など写真として記録できる文化財の大きな意義

2024-05-22 20:20:50 | 写真
■歴史と哲学史の分岐点
 建仁寺というのは歴史と哲学史における一つの分岐点なのだなあということがざっと調べただけでもこれほどわかるものでして。

 地球は滅亡しない、という事を日本に広めた、という説明ですとなにか大げさすぎるところではあるのですけれども末法思想とともに末法元年から何か落ち着かない日本の世情とともに、確かに平安朝末期の混乱など、武家政権の台頭などが起ってゆくのですが。

 歴史地震を俯瞰しますと末法元年ののちには、小康状態もありまして、やはり考え過ぎだ、という機運は広まっていたのかもしれません、ただ、末法の世というものは実際には恐れられていたもので、その心の虚無の空白は宗教が救いを見い出せないことで増幅されて。

 栄西さんは、ここで臨済宗の、しかしやや粗暴と云える悟りへの中国式の近道を省いて哲学的な部分を、それまで日本で習得した密教と天台宗との心の寄る辺への研究と併せた、日本式の臨済宗、そして禅宗というものを確立したことで大きな問題を解決している。

 末法思想の先に、仏教哲学が中国ではどのように広まっているかという事で、単純終末論の先に心の在り方を見つけると共に、著書を通じて、要するに言いなり外来のものを説明も無しにこれはいいものだ、とつきつけ自己満足に終わる様な事をしなかった点も功績で。

 歴史と哲学史という視座からこの建仁寺を見ますと、もちろんその伽藍は実にお菊堂々としているところなのですけれども、また一つ見え方が変わってくるところではないでしょうか。そしてもう一つ、ここは拝観者を広く歓迎している寺院と云えるのかもしれない。

 職業カメラマンはお断りという但し書きと共に動画撮影など、昨今の動画配信により利益というものに対しては然るべき手続きを求められるのですけれども、拝観者が、普通に、撮影する事については本当に間口を広く開けて迎えてくれる寺院という印象がつよいのだ。

 建仁寺は京都市東山区大和大路四条下る四丁目小松町、ご本尊の釈迦如来像は法堂において拝観者を迎えると共に、別に撮影禁止の注意書きもありませんと云いますか法堂の双龍図の撮影が許されていますので自動的に竜神を見守る御本尊も撮影できるということ。

 小泉淳作の双龍図は創建800年を記念して2002年に落成したものであり、それは確かに新しいのかもしれませんが堂宇に凛としてしかし確たる存在感と共に、御本尊とよく調和を考えられた見事な絵図となっていて、見上げる拝観者の姿さえも情景にとけこむほど。

 御本尊を拝むだけではなく撮影する事で、こうした価値観の共有への寄る辺となることはありがたいこの寺院、建仁寺というのは創建年である建仁2年の元号を執ったもので、そしてその年は西暦であれば1202年と八百余年の歴史を当地に湛える堂宇でもあるという。

 開山は栄西さんで開基は源頼家、その源頼朝の時代に鎌倉での布教という臨済宗と鎌倉幕府との関係もある寺院ですが、創建時には真言院と止観院という同情を並列しまして天台と真言そして禅宗の三宗並立道場という、日本に禅宗を定着させる一大拠点となる。

 俵屋宗達の風神雷神図がほうじられていた寺院としても有名であり、実物は博物館において保管保存展示されていますが、精巧なレプリカを当時その場所にあった一角に展示されていまして、こちらも撮影する事が出来ますのは写真にて風神雷神図を示しましたとおり。

 京都には数多寺院が有るのですけれども、祇園の一角は花見小路の先に在る寺院、というついでのような拝観というよりは、やはりここは日本御文化と哲学の分岐点を悪い方向に逸れさせず軟着陸させた、一つの史跡であり今を活きる寺院として拝観をおすすめします。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】建仁寺,臨済宗哲学観と世界観のみ記した興禅護国論の歴史的意義

2024-05-22 20:00:38 | 写真
■臨済宗とは禅宗とは
 理念や概念は紹介する事だけならば簡単なのかもしれませんが定着させるとなりますと大きな課題が突如たちはだかるものです。

 栄西さん、数多ある功績の一つの茶の文化を再度普及させたというものがありまして、いや、奈良時代に一度伝来しているものの貴人の嗜好品という以上に普及しなかったという歴史がある、だから再度普及させたというのは功績で山内にも茶葉は数多い。

 禅宗、しかし最大の功績はやはり宗教が個人や社会と政治の価値判断に影響を及ぼす時代にあって禅宗を持ち込み定着させたことにあるとおもう、その栄西さんは幼少より優秀で、久安4年こと1148年、8歳にして倶舎論、婆沙論という哲学書をを読んだとされている。

 倶舎論、婆沙論、いや小学校の頃にカントを読んだぞとかヴェーバーを読んだとか、ハーマンカーン読んで中学受験したとか反論が出そうですが、栄西さんは続いて久寿元年こと西暦では1154年に14歳をむかえたさいに比叡山は延暦寺へと出家得度しています。

 天才は最初から天才か、と思われるかもしれませんがそうではなくこの栄西さんはブレなかったということで、延暦寺につづいて、今の岡山県にある吉備安養寺、そして今は鳥取県の伯耆大山寺などで天台宗の教学と密教を学んでいまして、真言宗についてもふかく。

 最澄と空海のそくせきを辿った訳でして、仁安2年こと西暦1167年には伯耆大山寺の基好より両部灌頂を受けています。栄西の研究は龍谷大学あたりでかなりの研究が有ると聞いたのですが、末法元年から百余年を経て、やはり栄西さんが考える程のことがあったよう。

 新しい仏教をもとめ、仁安3年こと1168年4月、日本天台宗を立て直すべく、新しく台頭した武家の平氏から支援を得て南宋に留学することとなりました。ただ、この頃には南宋では禅宗が一種の流行となっていて、留学僧も玉石混交であったとつたわっています。

 南宋留学、なにしろ南宋だ、モンゴル帝国の影響により分断した宋帝国という状況があり、いっぽうで栄西さんが留学したのは天台宗の建て直しが目的なのですが、この頃はとりあえず南宋に留学すると箔がつく的な感覚で、中国語の出来ない留学僧さえすくなくない。

 日本からの留学僧は多いもののなにをしているのかわからない留学僧が只寺に入り浸って惰眠を云々、と当時の南宋の僧侶が日記に記したり、日本国内でも問題視されていた時代なのですが、栄西さんはこのなかで禅宗と天台宗の補完関係について考える訳です。

 禅宗を普及させた、ここが重要なところでして建仁寺が日本最初禅寺と大書して扁額を掲げているのは。禅宗そのものを日本に持ち込む事は簡単なのですが、天台宗と真言宗、そしてもともとの南都六宗の仏教界に両立させる事が実のところ保守的な日本では難しい。

 興禅護国論、栄西さんはこの著書を著す事で、そもそも禅宗と天台宗は同質のものである、と先ず融合を独自理論として構築しています、これが臨済宗の日本における始まりなのですが、臨済宗の中国での展開と異なり、日本における禅宗独立宣言の書ともよばれるもの。

 臨済宗とは、臨済さんが開いたから臨済宗というのですが、悟るまで師匠と弟子が殴打連発の試行錯誤を経て、いわば生みの苦しみが大きい宗派だなあ、とおもったものですが、それは中国における臨済宗であり、哲学観と世界観のみを栄西さんは日本へ持ち込んだ。

 経・律・論、既に日本にある天台宗をもとに、こころの融和性と寛容というようなものを解くことにより、鎮護国家という天台宗の目指すところが叶うとし、一つの哲学体系のようなものとして日本に紹介した事で、波を建てる事無く定着させられた、ということです。

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ウクライナ情勢-ウクライナ軍ハリコフ州要塞線構築に難渋,ウクライナ経済2023年実質成長率GDP5%

2024-05-22 07:01:45 | 国際・政治
■防衛情報-ウクライナ戦争
 国境要塞が無いという点では日本も同じ。

 ウクライナ軍はハリコフ州での要塞線構築に難渋している、ISWアメリカ戦争研究所5月15日の戦況報告においてハリコフ州行政当局者のはなしをつたえています。これによればロシアとの国境3kmから5kmの地域に要塞線をしくことが理想ではあるものの、その圏内はロシア軍砲撃を真正面からうけるため不可能だとしています。

 要塞線の構築は、12km程度離隔した地域での構築に重点が置かれていて、ウクライナ軍はハリコフ州の国境から12km乃至20kmの地域に複数の防衛戦を構築しているとしています。ただ一方でゼレンスキー大統領の発言としてウクライナ軍はハリコフ地域における情勢の安定化に成功したとし、ロシア軍前進を阻止しつつあるとのこと。

 ウクライナ軍ホルティツイア群報道官のヴォロシン中佐はロシア軍の侵攻阻止について、砲撃と無人機攻撃が威力を発揮しているとして、特にロシア軍はルキャンツイとヴォフチャンスクに陣地構築をこころみているものの、砲撃など長距離攻撃が阻止した。ロシア軍はハリコフ州トラヴィヤンスク貯水池東岸を占拠しています。
■防衛情報-ウクライナ戦争
 戦争を支えるには経済力が重要で日本も日露戦争の際には外債や増税で大変ではありましたが乗り越えました。

 ウクライナ経済の2023年実質成長率はGD5%である、イギリス国防省ウクライナ戦況報告5月16日付発表がウクライナの経済状況について発表していまして、ウクライナ経済は回復力を維持しているという朗報を示しています。これはロシア軍による発電所など電力インフラへの攻撃が続く中での戦時中の経済回復力という点で驚き。

 ロシアウクライナ戦争が開戦となった2022年のウクライナ経済はマイナス29%という厳しい結果となりました、主要産業である穀物輸出の停止などもありますがなにより突然の開戦により様々な社会システムの破綻や予備役動員開始など戦時経済への移行といった混乱が背景にあったといえますが、ウクライナは2023年にこれを乗り越えた。

 2024年経済成長はミサイル攻撃の増大により成長率はプラス3%にとどまると思われています。一方インフレ率は3%、これも2022年には26%というインフレに見回れましたが落ち着きを見せているもよう、ただこちらも今年は増大の可能性が。ウクライナ中央銀行はインフレ低減を受け政策金利を14.5%から13.5%に下げました。

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