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北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都発幕間旅情】瑞雲院(岐阜)金寶山瑞龍寺,臨済宗妙心寺派の特別な瑞雲をみせてやろう

2020-02-19 20:07:49 | 旅行記
■美濃国斎藤氏と京都応仁の乱
 応仁の乱の時代には京都は大変でしたが、全国城郭や寺社仏閣を巡りますと意外なほどに飛び火していた事を知り驚きます。その影響は遠く美濃にも。

 金寶山瑞龍寺、さて。特別な瑞雲を見せてやろう、というお言葉を頂きまして、岐阜市寺町へ行って参りました。岐阜市寺町は岐阜基地からも望見する金華山の麓にあり、市の中心部で繁華街の柳瀬通りから山麓を東へ進むと至る臨済宗妙心寺派寺院の坐禅修行専門道場だ。

 瑞雲院、雲龍院、鶴棲院、臥雲院、天澤院、開善院、と塔頭が並び本堂には雲龍の襖絵と美しい中庭等が並びます。実は普段非公開との事ですが、日曜日のみ写経会にて門扉が開かれると共に近くに梅花公園があり、その梅花祭に併せて堂宇は一般に公開されるという。

 応仁年間の1468年に創建のこの寺院は美濃国守護の土岐成頼に代わり実権を握った斎藤妙椿が土岐氏菩提寺として造営したものです。斎藤妙椿は美濃に生まれ幼少期に得度しますが齢50にして長兄の死去を受け還俗し土岐氏に仕え、室町幕府奉公衆として上京しました。

 後花園上皇より開山に際しては山号金寶山瑞龍寺の勅額を得ていまして、開祖は悟渓宗頓国師、文明年間の1470年には七堂伽藍として伽藍が広く七堂に会し、こうした堂宇を広げる等以て、東海随一の禅寺として土御門天皇により準十刹に列せられることとなりました。

 実のところここ金寶山瑞龍寺を歩みますと、その伽藍は広く数多くなのですが塔頭はどれも新しく、晴れ渡った青空が醸す情景が一際に初々しさを感じさせられるもので、成程妙心寺派の寺院ではあるのですが、一種摩訶不思議な印象を受けましたのが、正直なところ。

 応仁の乱、京都が大変な事になった時代に室町幕府奉公衆であった斎藤妙椿は山名宗全の西軍に参陣し京極政経と多賀高忠の軍勢を破りました。こうして戦火を利用する形ではありますが結果として美濃国を平定し、伊勢や越前の和睦を仲介、美濃周辺を安定化させる。

 瑞龍寺は美濃国の接遇施設としても寄与し将軍の子足利義視と足利義材の疎開地となったり、応仁の乱にて荒廃した京都に代わり室町幕府6代将軍足利義教の三十三回忌法要をここ瑞龍寺が用いられました。しかし準十刹とはいえ栄枯必衰というものは、例外ではない。

 斎藤義龍美濃国治世下の永禄年間の1561年に美濃国妙心寺派の整理統合を期して禅寺修行道場である瑞龍寺は反発、住持は美濃隣接の犬山瑞泉寺へ一時退く等の曲折がありました。この犬山瑞泉寺は犬山城に近く、岐阜基地を発着する戦闘機と天守閣の構図が撮れました。

 蒼龍山瑞泉寺という山号、金寶山瑞龍寺雲龍院、そして瑞雲院と続きますと、なにかこう旧海軍の航空母艦蒼龍や空母雲龍や艦載機の瑞雲水上偵察機等を彷彿とさせるのは、当方だけでしょうか、いや歴史からは海軍が影響を受けたという順番ではあるのですけれども。

 岐阜城を頭上に冠する瑞龍寺、しかし歴史の変動はこの寺院にも影響を及ぼし、慶長年間1600年の関ヶ原会戦、その前哨戦となった徳川家康隷下の福島正則軍勢による岐阜城攻城戦の巻き添えを受け伽藍全て炎上、文化年間1806年の隠山禅師再興までは停滞期にあった。

 太平洋戦争でも戦災に巻き込まれ1945年7月9日の岐阜空襲では市民860名が戦略爆撃機B-29の爆撃により犠牲となりましたが瑞龍寺も全焼、戦後復興半ばの1959年には今度は伊勢湾台風によりまたも伽藍は大打撃を受け、現在の姿に復興したのは1981年とのこと。

 特別な瑞雲といいますか仏教美術ですが、流石に撮影禁止とのことでして、まあそうなるな、と。岐阜市寺町は廃線の名鉄美濃町線沿線であり、鉄道が廃線となった事はこの地に地域社会と観光の縁を線路と共に取り払ってしまった風情ですが、静かに拝観できました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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