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【京都幕間旅情】車折神社,天皇の御車壊れ御縁あり今にも伝わる清原頼業と官位の職責と教養

2020-02-05 20:12:50 | 写真
■藝能神社朱之玉垣とともに
 地名で知っているけれども拝観参拝となればなかなかに、そんな名所旧跡が沢山とあるのも京都散歩の興味深い所です。

 車折神社、右京区嵯峨朝日町に在る神社、嵐電本線車折神社前駅で名前だけ知っている、という方も多いのではないでしょうか。清原頼業を祀る天龍寺の末寺です。創建は文治年間の1189年、平安朝末期から鎌倉時代へと移ろう、武家時代の幕開けに創建されました。

 宝寿院という名を持つ車折神社は、実のところ長く神社ではなく寺院でありこの地からほど近い天龍寺の末寺でした。宝寿院とは平安朝末期の高官清原頼業、その法名でありましてこの車折神社そのものが清原頼業の邸宅跡地であったという。若干洛中から遠いですね。

 後嵯峨天皇の牛車が折れた事が御縁という。いや、車折神社というのだから自動車など車輪に関する御利益がある神社なのだろうと思っていましたが、天皇さんの車が壊れた場所で神社というのも、明治天皇御行幸休憩御所のようで妙だなあ、と思ったのがほんとう。

 牛車が壊れた、これは後嵯峨天皇の大堰川遊幸に際して小さな社殿の前で牛車が動かなくなり、神社の神主に此処は何処かを問うと清原頼業を祀る社と云われ、その業績を思い返した天皇が車折大明神の神号と正一位の神階を贈った事が始り。そんな歴史を秘めている。

 大堰川遊幸の最中に現在の車折神社、なるほど大堰川といえば嵯峨嵐山で嵐電本線の終点です。御所は嵐電本線始発駅あたりですので、天皇さんも我々も、今も昔も市内から嵐山へ行く際には同じ経路を通っているのだなあ、と妙に歴史情緒にひたる事も出来ました。

 清原頼業は平安朝末期の漢学者で儒学者で明経博士、局務大外記上首を24年間在職という、平安時代の財務官僚で有る方です。この当時の官僚は文才と教養が現代以上に求められましたが、その教養から高倉天皇侍読即ち教授方として治承1179年より奉職しています。

 高倉天皇侍読、その生きた時代は平清盛の治世下であり、その才覚は外交にも発揮されています。これは当時の宋が清盛へ贈り物を渡す際、送り文が冊封体制の属国に送るものと解釈できる文章が添えられ、これを即座に見抜き受け取りを拒否した、という話も残る。

 平清盛の日宋関係、中国との関係ですが外交文書の礼式は細部を視れば一般庶民は見逃しそうですが、受け取った受け取らないが百年単位で軍事介入や隷属要求の口実となる為に有為無為を問わず重要で、それだけに官僚は物凄い知識と注意に自制と忠節が求められる。

 藝能神社、境内社の芸能神天宇受売命を祀る藝能神社がありまして、車折神社は芸能上達祈願を祈念する数多の芸能人や文化人に知識人とが表参道に朱之玉垣が寄進奉納されています。こうした関係でしょうか、不思議な情景で藝能神社のほうが有名になっているとも。

 朱之玉垣とは一枚一万三千円で奉納できまして、朱之玉垣奉納から二年間此処に奉じられるとのこと。朱之玉垣は誰でも自分の名前を奉納でき、いわばこれ一つの大きな名刺といえる。そこから生まれる縁によりまして、実は人を結ぶ神社とも親しまれているのですね。

 水戸黄門、吉宗評判記-暴れん坊将軍、松平右近事件帳、長七郎江戸日記、名奉行-遠山の金さん、これは朱之玉垣を藝能神社に奉じたというのではなく、実は大映や松竹に東映の撮影所が近い関係もありまして、今日もBS衛星放送で放映される作品のロケ地だ、という。

 嵐電、車折神社という事でそういえば昭和一桁時代の釣り掛け電車が現役だったりしまして、最初にこの神社の由来が牛車の故障と知りました際には不思議な印象を受けたのですが、成程その境内を参拝へ歩みを進めますと興味深い風情と歴史を湛えている社殿でした。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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