◆F-2Bの迫力に霧島火山も噴火で応えた!
F-15の機動飛行に続いて、日米共同開発、F-2支援戦闘機の機動飛行が開始されます。
F-2支援戦闘機、福岡県の築城基地より機動飛行のために飛来したF-2支援戦闘機です。築城基地は1942年に海軍航空隊地区王飛行場として建設され、1945年には米軍の空爆により損害を被った翌々日に九州核攻撃へ展開するB-29へ零戦を緊急発進させた基地、現在は航空自衛隊第八航空団となりました。
第八航空団は、航空団を構成する二個飛行隊が制空戦闘機であるF-15飛行隊と支援戦闘機であるF-2飛行隊を各一個有する、古い表現では戦爆連合というような特異な編成となっています。まあ、そういう事を言いますと新田原基地の第五航空団も一個飛行隊のF-4だけで編制される特異な航空団なのですけれども。
鋭い機動で蒼穹の大空へ群青の洋上迷彩が吸い込まれてゆきます、F-2支援戦闘機は冷戦時代にソ連軍両用戦部隊の北海道着上陸が行われる脅威に対して、対艦ミサイル四発を搭載し洋上阻止任務にあたる支援戦闘機が求められ、米軍機を筆頭に導入し得る候補機に能力を満たせる機体が無かったことで米空軍のF-16を原型として日米共同開発が行われたもの。
このF-2支援戦闘機のほかに、欧州共同開発のトーネードIDS攻撃機などは国産のASM-1空対艦ミサイルの射程40kmに匹敵する射程38kmのコルモラン空対艦ミサイル四発を搭載でき、戦闘行動半径もほぼ要求を満たしますので、候補としてはもう少し考えられても、と思ったのですが、F-2のような中射程空対空ミサイルをトーネードIDSは運用できませんので、日米共同開発は妥当だったのでしょう。
F-2の機動飛行がヴェイパーを曳きます、鋭い機動性はフライバイワイヤ操縦システムの賜物で、この技術は日米共同開発が決定時、アメリカから日本への技術供与が行われるという理解が為されていたのですけれども、これが覆り、日本が開発する必要に見舞われました。一部下馬評で開発難航の可能性が指摘されたものの、P-2V-SFSやT-2CCVにより基礎を完成させていた我が国は一年で完成させました。
このF-2支援戦闘機は戦闘機の中では小型に部類されるF-16を原型としていますが兵装搭載量は8t以上あります。これは日本が独自に開発した炭素繊維複合素材により一体成型された機体が用いられ、日米共同開発で技術提供されたこの技術がF-22やF-35の機体開発に応用されているほか、ボーイング787胴体部分の生産を日本が行う、いわば技術的サンプル量産品をアメリカに提示した、という意味もあったりします。
CCV、高機動性研究の技術も飛行プログラムも応用されており、これが操縦特性に反映されているほか、統合電子戦システムの開発と搭載やAESAレーダーとなったAPG-1レーダーの国産開発など、日本にもこれだけの技術があり、その技術は開発室だけではなく実運用にも耐える性能がある、というものを見せつけたもの。
航空自衛隊のF-35導入に際し、国際共同開発航空機であるF-35へ我が国は後発参入にもかかわらず非常に好条件で生産基盤を国内誘致でき、日本が重視していた戦闘機製造基盤を維持することが出来るようアメリカ側が妥協した背景に、日本にはこれを任せるに十分な技術がある、という事をこのF-2が示した賜物ともいえるやもしれません。
惜しむべくは石破長官時代にF-2の能力が正しく認識されず、生産が早期終了してしまったというところで、例えばF-2飛行隊を18機定数から24機定数として生産数を増やす措置を採っていたならば、三個飛行隊所要でも必要に応じて一個飛行隊分を抽出させる余裕が生まれ、今日のようなF-35開発長期化の影響を局限化することも出来たでしょう。
こうした視点から見れば、例えばEF-2000タイフーン戦闘機も候補機として高い評価を与えることが出来ます、アメリカ側がF-35を完成機供与のみ行う立場を堅持していた場合にはEF-2000を導入するべきでした、何故ならば完成機供与では稼働率が低下するからです、しかし、当初条件ではEF-2000が完全生産の条件が提示されていましたので、アメリカ側は妥協しました、結果、日本が生産基盤と整備基盤を持つ前提のF-35が好条件となった、ということ。
ただ、航空自衛隊は防空重視で、航空阻止と洋上阻止を重視していなかった点がF-2の評価を変えました、仮にドイツ海軍鉱区隊のトーネードのように、洋上阻止任務が海上自衛隊の専管任務であったならば、四個飛行隊程度は配備されていたやもしれません。・・・、その場合、F-16原型ではなくF/A-18C原型になって、F/A-18Eが日米共同開発になっていたやも、そしてDDHがさらに大型化してF-2を、それはないか。
こうしたF-2機動飛行を行っている背景で、少々驚くことが置きました、霧島火山が噴火していたのです。小規模な水蒸気爆発ですが、実は当方、火山噴火というのを見たのはこの時が初めてでした、F-2機動飛行に熱くなった霧島火山も噴火、というわけではないのですけれど。
続いて救難飛行展示、が、行われ、た、の、で、すけれども、・・・。最初の回に掲載したようにこの場所は基地の反対側です、順光なのでこの場所にしました、良い写真の連続でしょう、良い場所だ、基地で撮影していた方の話、浜松のMさんなどは逆光で大変だったそうです、飛行展示はこの場所で良かった。
そうなのだけれども、観ての通り、救難展示は遠かった、救難展示ももちろん会場をメインの観客として展示されるのですが、そうするとこの撮影位置、眺鷲台からはかなりの距離があります。超望遠でズームを精一杯しても無理、これは岐阜基地の南側から航空祭を撮影するのと同じ。
救難飛行展示を行っている最中は、あまり遠すぎる展示を撮影するのも、という事で航空祭の舞台裏を撮影、F-15に給油が行われています。F-15は見ての通り、大型の機体に可能な限りの電子機器と兵装を搭載し、入手しうる最強のエンジンを双発搭載することで最強の戦闘機として完成しました。
長大な航続距離と卓越した制空戦闘能力を有するのがF-15なのですが、みての通り大飯喰らいなのです。この機体について、例えば南西諸島で下地島や宮古島に飛行隊規模で前方展開させて、という話は識者の間でも、こちらへのコメントでも散見しますが、この機体を作戦可能な規模で維持するためには、基地機能維持と併せ本土からの物資輸送に専従でC-2輸送機をこの任務だけに20機以上が空輸に従事せねばならないのでは、と。
もちろん、那覇基地への支援を放棄して先島諸島のみに補給を行うならば航空自衛隊の輸送能力で何とかできないことはありませんが、南西諸島防空の要は那覇基地にあり、併せて近傍の嘉手納基地にあります。陸上自衛隊の空輸にも輸送機は必要ですので、日本にとり、その選択肢は必要不可欠なのか、考える必要はあるでしょう。
UH-60Jの救難飛行が完了しました。しかし、考えてみるとUH-60Jは救難塗装から殆どこの洋上迷彩だけになりましたね、今後は航空優勢の競合地域への戦闘救難任務を如何に実施するのか、という課題も航空自衛隊につきつけられることとなるやもしれませんね。
飛行展示を終えたUH-60Jが二機ならんでいます、このあたりはそこそこ最前列の人口密度はある模様。さてさて、今気づきましたがF-2もUH-60も同じ洋上迷彩です。洋上迷彩続きの飛行展示が行われたのですが、新田原基地航空祭の主役はもう一つ、F-4です。次回の新田原基地航空祭特集では次の飛行展示を紹介することとしましょう。
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