秋葉實翻訳「松浦武四郎選集」の「蝦夷婆奈誌 坤」には『頼子春(鴨)と1日百印百詩のこと』として弘化三年の年、江刺滞留の時、頼子春(頼三樹三郎)来り給えども、一向に人其業を慕うもの無、来春迄最早何地に行くこともなりがたし。この地に滞留せばやと思えども、誰有て糊口を助ける人無故気案ずるに、是にては致し方無、何とかして子春の誌に長じて又書も工(たくみ)なることをしらさばやと存じ「霜月十四日一日を限りとして、山ノ上町雲石楼に於いて我が頑刀を以石に題文を彫すべし。・・・其客に題を求め、我則其文字を銑、子春其作を速書、先早天の題よりして晩景に及ぶまで百首百刻了。
その第一首が
『 清晨
山青斬月薄 、灯白古邦寒、 橋霜人未過、満耳水珊々 』 と詠っている。
この百印百詩が江差町の小公園に建立されている。
檜山振興局の位置地図より
石碑の中には赤い刻印があるが、武四郎の篆刻。
顕彰碑と建立の説明碑
説明には
『齋藤鴎洲ゆかりの雲石楼に多くの雅人が集い詩会が開かれた。頼三樹三郎が詩を詠み、松浦武四郎が誌題を印石に篆刻し「百印百詩」を一日で完成させた。その文芸史上に画期的な偉業を顕彰し、この碑を建立したものである。 平成十二年十月 町制施行百周年記念
江差町の歴史を紀行し友好を進める会 会長 本田義一』と書かれている。
江差ではニシン街道として街並みも古街道を感じさせるような建物が並んでいる。昔の蔵を喫茶店にした処で休憩。
鷗島を散策した。
復元された開陽丸
開陽丸は徳川幕府の軍艦で・・・江差沖で座礁し、沈没したもの。平成2年に、実物大で再現
瓶子岩
北前船に水を補給したという井戸
ここには「明治9年(1876)江差商人の村上三郎右衛門は北前船の船乗りたちに飲み水を提供するため、井戸を掘りました。」と説明。
北前船の石碑
鷗島には遊歩道が出来ており、高台から北側の海に降りることも出来る。瓶子岩のある方を進むと、崖下に北前船の帆の形をした碑がある。
石碑には「いつの時代にも 青年の夢が やがて世界を揺り動かして行く。」と刻まれている。
その第一首が
『 清晨
山青斬月薄 、灯白古邦寒、 橋霜人未過、満耳水珊々 』 と詠っている。
この百印百詩が江差町の小公園に建立されている。
檜山振興局の位置地図より
石碑の中には赤い刻印があるが、武四郎の篆刻。
顕彰碑と建立の説明碑
説明には
『齋藤鴎洲ゆかりの雲石楼に多くの雅人が集い詩会が開かれた。頼三樹三郎が詩を詠み、松浦武四郎が誌題を印石に篆刻し「百印百詩」を一日で完成させた。その文芸史上に画期的な偉業を顕彰し、この碑を建立したものである。 平成十二年十月 町制施行百周年記念
江差町の歴史を紀行し友好を進める会 会長 本田義一』と書かれている。
江差ではニシン街道として街並みも古街道を感じさせるような建物が並んでいる。昔の蔵を喫茶店にした処で休憩。
鷗島を散策した。
復元された開陽丸
開陽丸は徳川幕府の軍艦で・・・江差沖で座礁し、沈没したもの。平成2年に、実物大で再現
瓶子岩
北前船に水を補給したという井戸
ここには「明治9年(1876)江差商人の村上三郎右衛門は北前船の船乗りたちに飲み水を提供するため、井戸を掘りました。」と説明。
北前船の石碑
鷗島には遊歩道が出来ており、高台から北側の海に降りることも出来る。瓶子岩のある方を進むと、崖下に北前船の帆の形をした碑がある。
石碑には「いつの時代にも 青年の夢が やがて世界を揺り動かして行く。」と刻まれている。
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