気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

佐藤正克越冬の地と天塩川スーポロの碑

2012-09-03 11:10:49 | 旅行
『佐藤正克越冬の地』
 北海道開拓使の役人であった彼が天塩川の調査のために越冬した地である所を訪れようとしたが、所在住所や案内板があるわけではないので、調べた情報が頼りであった。
名寄市街から国道239号線を下川町方向へ進み、名寄市朝日で左折し、七線橋を渡って左折するとあるはず・・・。しかし、行き過ぎたのか、元の橋の方へ戻って同じ道をゆっくり進んだ。橋から少し進んで、道路脇の林の繁みの中にある碑を発見。(判り難くかった・・・)
越冬の地の説明板には『明治5年、当時の北海道開拓使の役人であった佐藤正克は天塩川内部開拓のための調査を計画し、単身アイヌを道案内に、あらかじめ作らせて越冬小屋を起点に、名寄川・天塩川・剣淵川を行きに阻まれながら踏査しました。彼の残した[闢幽日記(へきゆうにっき)]によると、この地点から約二五〇米名寄川上流の拓進川の河口付近は佐藤正克が明治五年一0月一九日から翌六年一月四日(陰暦)まで和人としてはじめて、この地で越年、越冬した小屋があったと推定される場所です。・・・ (略)』天塩川調査などには和人として安政の松浦武四郎も大きな足跡を残していることを忘れてはいけないと私は個人的に思っている・・・。

越冬の地の碑(標柱の書は佐藤正克氏の孫にあたる佐藤勝造氏によるものと記載されている、)
(写真j・・・)
『スーポロ・智東遺跡群・金毘羅大権現の碑』
 智東駅の踏切の手前にある・・・という調べた情報であったが、カーナビには智東駅が出ているが、駅が見当たらない。車を止めて駅らしき建物を見つけた。位置的にはスーポロのポイントに来ている。やや進み、土手らしき所に「天塩川」と書いた青の柱が目に入った。しかし、その場所は深い川底のようにも見え、ガードレールからその地点に近づくことは無理かと思った。しかし、私のパートナーは草わらから行けると・・・歩いて行った。

正面から左が「スーポロ川舟安全祈願碑」、中央に「金毘羅大権現」右が「智東遺跡群」の説明板になっている。
「名寄市智東は東の九度山の山地と西の智恵文丘陵の間を天塩川が峡谷をなして流れています。特にここより川下側はかって川幅がより狭く、川の屈曲と川底の岩により早瀬となって流れていました。この所はアイヌ語で激流の所とも「カムイコタン(神々の住むところ)とも呼ばれ、丸木舟の操作に慣れたアイヌにも恐れられた天塩川随一の難所でした。和人の開拓後も鉄道が音威子府へ開通するまで、たびたび川舟の遭難があり、「天塩川智東の滝」とも呼ばれていました。・・」(以後略)明治43年この地の通行の安全を祈願するために関係者により「金毘羅大権現」が建立されたということです。
翌年に鉄道の資材を積んだ舟が転覆し、15名もの遭難者を出したと記載されていた。
「智東遺跡」の方は「名寄に人類が住み着いたのは、今から約一万年前。智東駅の付近の天塩川河岸などには縄文時代(今から約9千年前~2千年前)や擦文時代の遺跡が調査で分かったということ。「私たち人類の歴史を知る貴重な遺跡をみんなで大切にしたいものです。名寄市教育委員会」と記してありました。

第2目士別~美深(天塩川、名寄川流域のナイタイへ・リイチャニ等)

2012-09-02 11:25:52 | 旅行
『ナイタイへ』2012年8月27日、旭川のホテルをスタート。国道40号線を士別方面に進む。剣淵の道の駅「絵本のまち」に寄り道。R61号(士別~滝の上線)を内大部に行く。松浦武四郎探検の地である。「厚生橋」を渡ると(紋別方向に対して)左側に木碑がある。
ここは2009年の9月に訪れているので二度目である。
木碑の「松浦武四郎探検の地」の文字は3年前には読みが可能であったが、今回は読み取ることはできない状態に薄れていた。
ナイタイへの木碑写真

彼が実際に探検した場所は木碑の柱に貼り付けてあった地図によると木碑設置場所の向かい側西内大部川の100m位先の広がりのある土手のようだ。

『名寄川上流到達点』
次は国道239号線を下川市街から興部方向に進み、名士バス30号線のバス停を過ぎて目印は「二の橋」案内道路標識を確認して道路に横に「名寄川上流到達点」の木柱が立っている。(3年目の再訪)。
名寄川上流到達点で

『サンルベシベ』松浦武四郎野営の地。(「野」の文字が「堅」の文字に似ている漢字を使っている。
3年前には木柱のある付近に一軒の家があったが、車庫のみ残り、家は取り壊されて更地になっていたことが以前と変わった風景であった。
野営の地の写真

『サッテクベツ』
名寄方向に戻り、「親水公園」がある。そこから「九十九橋」を過ぎ「境橋」を渡って右折し、進行方向の左に松浦武四郎が野営をした「サッテクベツ」が天塩川堤防にある。ここも再訪であるが、旭川開発建設部で設置した「天塩川紀行」の説明板も以前と変わらず文字の看板の劣化もない良い状態であった。


『リイチャニ』更に道道239号線を進み、JR宗谷線の陸橋を過ぎ、道道976号線(西風連~士別線)をすすむ。3年前はリイチャニの場所が見当たらず、付近の家で聞いてわかった場所である。この時、玄関に出てきてくれた若い息子さんは「リイチャニって聞いたことがないよ。(奥にいるお父さんに)父さん知ってるかい?」と聞いてくれお父さんが「ああ・・・うちの畑の横を進むと土手があるから・・・」と教えてくれた所である。現地の方でも知れていない所ということです。
今回は、迷わず剣淵川土手に着いた。訪ねた家のお父さんの記憶に感謝です。
雑草をかき分けて案内板へ 

2012年8月松浦武四郎の足跡を訪ねる(道北エリア) (1)旭川~

2012-09-01 21:12:25 | 旅行
2012年8月26日、森ICから高速を利用し、鷹栖ICで降り、クーチンコロ顕彰碑のある嵐山公園を目指した。何分、公園のどのへんに碑があるのか・・・カーナビに入っている東側から侵入したが、展望台など案内版にはクーチンコロ碑は見当たらず、地図を読み直しし、中和清浄所の方に教えていただく。オサラッペ川の歩道橋を渡り、アイヌ伝承の森に着いた。
オサラッペ川の写真

クーチンコロはぺニシンクル(上川地方)の大酋長で明治2年明治政府がぺニシンクルのアイヌを日本海側の「石狩場所」に一か所に集め、労働力として移住させようとしたが、クーチンコロは徹底的に抵抗して移住を中止させた・・・。安政4年松浦武四郎は調査の際クーチンコロに歓待されたということを「丁巳日誌」に記している。
クーチンコロ顕彰碑の写真


顕彰碑の横にあるレリーフの碑文には『上川地方の偉大な指導者であったクーチンコロエカシはアイヌの尊い神々を深く敬慕しながら、常にコタンの幸せを希求し続けた人であった。明治二年兵部省と開拓使の無法きわまる強制移住命令に対し憤然と  堂々たる正論をもって遂に屈服させウタリの土地を守りぬいたのもクーチンコロエカシであり、松浦武四郎ら多くの探検家たちはクーチンコロエカシ導かれてこそ奥地踏査が可能だったのである・・・(中略)ここわれらのチノミシリに顕彰の碑を建立し、この地に生き、この地に埋もれた代々のエカシフチの象徴として永らくウタリの鑑とする』と刻まれている。

次に向かったのは、北門町にある中学校。ここには1903年登別で生まれ、19歳で夭折した「アイヌ神謡集」著者の知里幸恵文学碑がある。
 学校は休日であるので、校内の「知里幸恵資料館」は諦め、文学碑だけ撮影して帰ろうとしていた。そのとき、校舎から先生が出てきて駐車場の車に乗り発進した。先生は私たちの車を見て、窓をあけたので、文学碑を見学にきたことを話すと、車から降り、校舎内へ通じるインターホーンからどなたかに連らくをしてくださった。見学には事前に教頭先生に連絡をするようになっていたので、事前連絡なしの私たちでしたが、女神様が微笑んでくれたのか・・・校舎内に教頭先生がおられたのです。
教頭先生から資料室に案内していただき、直に幸恵に関する説明を受けました。大変貴重な資料を見させていただき大感激でした。駐車場の先生が北門中学校の校長先生であることをしりました。校舎を去る時、学生から気持ちよく挨拶をされた。生活指導の行き届いている学校と思いました。
北門中学校内、知里幸恵文学碑