四季と自然とはりんこの花菖蒲

季節の草花を撮り歩き 家では花菖蒲にボケてます

関ケ原合戦のあらすじ

2023年11月13日 | その他

JR関ケ原駅を出て右に行くと合戦の時系列が表示されています。(写真のように駅を正面に見ると左になります)

JR関ケ原駅を出ると正面に二人の大将が並んでいます。



関ケ原駅から徒歩約5分で関ケ原古戦場記念館に着きます。

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勝者は歴史に学ぶ 徳川家康

2023年11月11日 | その他

世間ではあまり知られていませんが、関ケ原合戦に挑むにあたり徳川家康は歴史に学ぶ賢者であった。

まず最初は合戦に備え前日に陣を構えた大垣市赤坂町にある岡山について

岡山(現在の勝山)を境内に持つ安楽寺は入口になります。

家康はここ安楽寺(聖徳太子が開祖)で必勝祈願をしています。

合戦に勝利した家康は帰り、安楽寺に立ち寄り御礼参りをして「葵の紋」を使うことを許可しました。

  👇 家康陣跡の左に囲まれた碑があります。

「弘文天皇壬申難古跡」と書かれています。弘文天皇とは『大友皇子』のことで壬申の乱の際 大海人皇子が安楽寺に必勝祈願を
命じ勝利した後、大友皇子の冥福を祈りここに祀った場所であります。(実は壬申の乱も関ケ原が舞台です)


家康が合戦当日 最初に陣を構えた関ケ原「桃配り山」


家康は験担ぎに縁起の良い場所を陣地に選んでいました。



 関ケ原古戦場記念館の隣が徳川家康最後の陣跡

奧の囲まれた場所で首実検が行われました。


関ケ原古戦場記念館の展示物から
徳川家康は尾張(愛知県)出身なので若い時から壬申の乱について学んでいたと思われます。

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大谷吉継なしでは語れぬ関ケ原

2023年11月11日 | その他

家康との戦をやめるよう三成に助言した大谷吉継だったが聞き入れられなかった。しかし豊臣家への忠義と戦友であった
三成との友情を優先し、負け戦を覚悟して西軍として参戦した。

「お主には人望がない」by 吉継


若宮八幡宮境内から右へ山に入ります。


松尾山眺望地へ


小早川秀秋の裏切りを予想していた吉継は待機していたが敗れた。


大谷吉継陣跡


大谷吉継の墓


吉継の墓と左は湯浅五助の墓(吉継自刃の後、首を隠し埋めた家臣)

※ 滋賀県米原市に大谷吉継の首塚がありますが合戦の最中には疑問があります。もう一つ関ケ原の山を越えて
岐阜県揖斐川町春日の古屋地区(岐阜県側伊吹山の麓)に首塚があり、昔から地元では『吉継さん』と呼んでいる。
 吉継の心意気と行動を称えた碑


岐阜県揖斐川町春日古屋地区は、伊吹山の岐阜県側登山口になる所ですが「吉継の首塚」へ行く道は崖崩れの
工事中(もう雪が降るので来年春以降)で通行止めで行けませんでした。

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石田三成と島左近

2023年11月10日 | その他

石田三成が陣取った笹尾山の直下に島左近あり!


義理人情 現場第一主義の島左近最後の戦となった。今更ながら無念の一言!

石田三成の陣跡




笹尾山から見下ろす合戦場


紺色が西軍、茶色が東軍、緑色は東軍の防御により動くことが出来なかった西軍(約3万)、赤色は裏切り者(約2万)の元西軍

机上理論では楽勝の三成西軍だったが、現場では約5万の軍(3万は動けず、2万は裏切り)を失う。今でもビジネスで使われる言葉「段取り8分行動は2分」
ビジネスマンが勉強する戦は「桶狭間の戦い」と「関ケ原合戦」。リーダーとは戦略を立て、それに沿って戦術を執る。家康のリーダーシップが一枚上手でした。

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島津義弘の判断と敵中突破

2023年11月08日 | その他

石田三成が陣を構える笹尾山の前衛に1500の兵を率いて島津義弘は陣取った、がっ・・・・?




『先日の作戦会議で夜襲を主張するも、聞き入れられず 戦意を失った義弘は
本戦では積極的に戦わず目の前に来た敵だけを相手にしたという。』・・・っと書いてあります。

戦いが白熱を帯びているなか 1500の島津隊は積極参加せず、そして小早川秀秋の軍が裏切り西軍は総崩れとなった。
結果論だが前日の杭瀬川の戦い後、夜襲をかけても家康を打ち取ることは無理かもしれないが、関ケ原で陣頭指揮を執ることは
できなかったかも。そして大垣の合戦があったかも(小早川秀秋は捨てて、毛利秀元や長塚正家は垂井に陣を構えていたので大垣に近い)

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