四季と自然とはりんこの花菖蒲

季節の草花を撮り歩き 家では花菖蒲にボケてます

島津義弘の判断と敵中突破

2023年11月08日 | その他

石田三成が陣を構える笹尾山の前衛に1500の兵を率いて島津義弘は陣取った、がっ・・・・?




『先日の作戦会議で夜襲を主張するも、聞き入れられず 戦意を失った義弘は
本戦では積極的に戦わず目の前に来た敵だけを相手にしたという。』・・・っと書いてあります。

戦いが白熱を帯びているなか 1500の島津隊は積極参加せず、そして小早川秀秋の軍が裏切り西軍は総崩れとなった。
結果論だが前日の杭瀬川の戦い後、夜襲をかけても家康を打ち取ることは無理かもしれないが、関ケ原で陣頭指揮を執ることは
できなかったかも。そして大垣の合戦があったかも(小早川秀秋は捨てて、毛利秀元や長塚正家は垂井に陣を構えていたので大垣に近い)

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関ケ原合戦 前日の戦い

2023年11月08日 | その他

前にも書きましたが関ケ原合戦(9月15日)の前日14日に争いがありました。この争いが本戦に大きく影響しました。
合戦に備え東西陣営が関ケ原の東 大垣に集結しておりました。

徳川家康は大垣市赤坂町にある岡山(今は勝山と呼ばれており合戦に勝利した家康が名付けた)に陣を構えた。


対する石田三成は大垣城に陣を構えておりました。両軍とも詰めの作戦中に戦いが起きました。

大垣城内に展示してある14日の各陣営ジオラマ

大垣城の西軍

岡山の東軍

googleMAPから 岡山と大垣城は直線距離で4Km弱、その中間を流れる杭瀬川で戦いがありました。


大垣城の資料から


杭瀬川の戦いで勝利を収めた西軍大名の中に東軍が動揺しているうちに 「大垣城主の伊藤盛正は西軍の応援をして
地形は把握しており夜襲をかけてはどうか」と島津義弘から意見があったが石田三成は関ケ原での勝算を読み却下した。
この判断が本戦で西軍の足並みが乱れた。

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