生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(106)「なぜ、人は宇宙を目指すのか」

2019年02月07日 07時18分30秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(106)  「なぜ、人は宇宙を目指すのか」
              
TITLE: 「なぜ、人は宇宙を目指すのか」
書籍名;「なぜ、人は宇宙を目指すのか」 [2015] 
著者;宇宙の人間学研究会 発行所;誠文堂新光社
発行日;2015.8.14
初回作成日;H31.2.5 最終改定日;H31.2.7
引用先;文化の文明化のプロセス Exploring

 
このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

副題は、「宇宙の人間学から考える宇宙進出の意味と価値」とあるので、人類の文明の将来に係る話があるものと期待して、この著書を選んだ。冒頭は「宇宙と人間の新たな関係」と題して、「カントの人間学」から始まっている。しかし、哲学ではなく、人類が発生以来経験した様々な経験論から解きほぐしてゆこうとの態度がうかがえた。
 そこで15人の著者の中から、著作やその他で親しみを感じているお二人を選んで読むことにした。宗教学者の山折哲雄さん(宇宙時代の人間)と、かつての宇宙研教授、所長の的川泰宣さん(科学・技術と宇宙・自然・地球・生命・人間の関わり)だ。

 先ずは山折哲雄さんの「宇宙時代の人間」からで、話は宇宙飛行士との会話から始まっている。土井飛行士との会話からは、次のようにある。

 『アポロ計画で月に行った宇宙飛行士たちのなかに、神や神秘を感じたケースがいくつかあったことを持ちだして、そのような予感が土井さんにもあるだろうか、ときいてみたのです。お答えは簡明なものでした。―こんど打ちあげられるスペースシヤトルはせいぜい地球から280kmの軌道を回る衛星である。地球の姿も視覚的には大きくみえるはずだ。 だから神秘に打たれるような経験はまずないだろう。けれども月や火星まで行けば、どうなるかわからない。要するに、視覚の問題ではないかと思う・… 。
私は土井さんと先のコンラッドさんが、それぞれ別の観点から宇宙イメージと視覚の問題について語っていることに、不思議な暗合を感ずるのです。宇宙と人間のあいだに張りめぐらされている相対感覚といったものの面白さといっていいでしょう。それは「神」の問題をも含んで、途方もない広がりをもっているようです。』(pp.156)
 その後著者は、視覚と聴覚からの受け取り方により、人間の精神の持ちようが変化するとしている。


『精神(あるいは意識といってもいいが肉体から分離していく感覚ということですが、それがまことに快適で穏やかな気分だったと強調されたのです。重力の状態がそういう意識の変換を演出したということなのでしょうか。また眠るということはいわば視覚の一時的な停止を意味しますが、もしもそうだとすると、その視覚の一時停止が意識と身体の分離という感覚を生みだしたことになります。人によっては、精神と身体の分離、もしくは魂と肉体の分離というかもしれない。無重力という物理的条件が軽快な魂のはたらきを活性化させるのだ、と解釈することも不可能ではないわけです。』(pp.156)

砂漠で生まれた一神教と、自然豊かな地で生まれた東洋的な宗教を比較した後で、

『信ずる宗教と感ずる宗教の対照性、といっていいでしょう。その信ずる宗教についてでありますが、そもそもこの信ずるという生き方をあらわすうえで「個」という言葉ほどふさわしいものはないように私にはみえるのです。自立した個人がそれぞれに、天上の彼方に絶対的な価値の存在することを信じようとする姿が、そこからは立ちのぼってくるからであります。個人とか個性とかいう言葉の本来の意味もまた、そこに発しているにちがいありません。
ところがこれにたいして、感ずる宗教の場合、その「個」にあたる言葉はどういうことになるのでしょうか。それが「ひとり」という大和言葉だったと私は考えているのであります。「ひとり」は 「独り」とも「一人」とも書く。寂家のなかの孤独、独り寝を楽しむ一人、極小のわが身を嘆くひとりから、宇宙大の自意識へと膨張していくひとりまで、「ひとり」をめぐる伝承や物語を追っていくと、あっという間に千年の歴史を超える。近代ヨーロッパ語から輸入した「個」とくらべるとき、その日常言語としての合意はさらに深く、イメージの波長も長い。』(pp.162)
 著者は指摘していないが、宇宙で生まれる宗教は、一神教になってしまうのだろうか。

 宇宙からの視覚(緑の森林が見える)、セスナ機からの視覚(広がる田畑が見える)、高層ビル(近代工業の結晶が見える)の高さからの視覚を比較したうえで、

『要するにそのとき、日本列島は三層構造でできあがっていると気がついたのです。森林山岳社会、農業革命以後の稲作農排社会、そして産業革命以後の近代工業社会の三層ででき上っている。そう考えたのです。そしてこの列島形成の重層性が、そのままわれわれの意識と感覚に重要な性格を刻みこんでいる。いわばその深層には縄文文化とその世界観や入間観が横たわり、中層には弥生文化とその価値観や入間観、そして最上層というか表層に近代的な人間観や価値観、そして世界観がつみ重なっている。その三層がそれぞれ他の層を克服したり排除したりするのではなく、それらが重層化することで多元的な価値観や柔軟な自然観を生み出している。』(pp.163)
 
そして、現代の不安定な世界については、「歴史の不気味な波動(視覚も聴覚も波動ということか)をコントロールできない状況だとして、

『ところがどっこい、そうは問屋がおろさなくなりました。「宗教」と「民族」が歴史の後景に追いやられるどころか、
このグローバル世界に躍りでてきて牙を剥き、自己を主張しはじめたからです。近代の実現を待望する楽観的な歴史観が足元を揺さぶられるようになったといっていいでしょう。
歴史の進歩という観念にたいする民族と宗教の逆襲、と映らないではない。もしもそうだとすると、その不気味な逆襲をどのようにして食いとめたらよいのか、いろんな手立てを講じなければならないはずです。なかでも緊急の課題がまずもって人類の歴史を「文明」という枠組のなかでとらえ直すということではないでしょうか。』(pp.164)

最期には、結論的に次の様に記している。
『そしてそのような新しい環境のなかで、人間の視覚や聴覚をはじめとする生命感覚がどのような反応や変容を示すのか、といった問題があります。そこまでいけばまさに人類が発生して以来の何億年にわたる生命のあり方までが問われることになるでしょう。そのような問題設定があまりにも空想的であるというなら、せめて今から5000年前、1万年前の地球人間たちの考え方をふり返り、想像してみればよい。仏教やキリスト教やイスラーム教が発生する遥か以前の時代のことです。そのころの地球上の人間たちは、どの大陸、どの文化圏に属していようと、ほとんどが「万物に生命(いのち)あり」という意識だけを唯一の心のよりどころに生きていたと想像されるからであります。そのような意識や感覚が、おそらくその時代の唯一の「普遍宗教」的な役割をはたしていたのではないかと私は想像しているのです。』(pp.166)

一方で、的川泰宣さんの「科学・技術と宇宙・自然・地球・生命・人間の関わり」は、科学者らしく順を追って論理的に説いている。先ずは、文明の始まりから、

『人問がその生き方を考える上では、自分を包む環境を知り、それと自己との関係を理解する必要があります。その環境の最大のものは、いつの時代も「宇宙」であり「世界」です。そこで「宇宙やこの世界がどのようなものであるか」「その宇宙や世界で人間はいったいどこにいるのか」という問いを、私たちの先祖は絶え間なく発し続けてきました。これは、ただ―つ、その「環境」と一括して呼んでいるものの中に、「生きもの」という、人間にとってかけがえのない存在がいることに、最近まで気づかなかったことを除けば、実に当然の展開だったと言えるでしょう。
今から7千年も前に花開いたと考えられている世界各地の大河流域の古代文明においては、さまざまな性格・性質の神々が創りだされ、彼らの行いや闘いに基づいて、宇宙の起源や成り立ち、移り変わりが説明されました。人間にまつわる事件や歴史も、神々の行動に巻き込まれるかたちで展開するとされたのでした。』(pp.168)

古代ギリシャの代表的な哲学者(というよりは、自然・物理学者)の所説を並べた後で、特にデモクリトスの原子モデル説に着目をして、

『彼によれば、人間の「魂」も原子から成り、それら原子は球形で動きやすく、「魂」を作っている原子群は他の物質の原子群よりもきわめて動きがよく、身体を動かし生命を与えるものと考えています。そして原子に支配される「魂」が動揺しないで安定していることが、「魂」の幸福な状態であるとしています。
こうして、人間を含めた世界を統一的・普遍的に把握しようと志向する傾向は、こうした古い時代からありましたが、 それが説得力をもつためには、自然のさまざまな諸相についての認識に合理性が認められ(科学)、それが人間の実践によって証明され(技術)、総じて宇宙・世界の全体の仕組みが示されなくてはなりません。』(pp.170)

そして、そこから、占星術からプトレマイオスの宇宙へと進んでゆく。そして、宇宙の中の人間について考えるには、古代にたち戻って考えた方が、良いのではとして、

『しかし、現在私たちが「科学・技術」と呼んでいる営みの萌芽が生じたと考えられるこの頃の人々の中に、合理的であると同時に普遍的でありたいという心が存在していたことに、驚きを禁じえません。私たちの生きている現代は、科学・技術的に正しいかどうかが、さまざまな価値判断の非常に強い基準となっています。今から20世紀以上も昔に生きたタレースたちが懸命に求めていた「宇宙の中の人間のあり方」という出発点に、今一度立ち返って学ぶことは大いに違いありません。』(pp.171)

 宇宙の視覚的なモデルとしての集大成は、プトレマイオスによって成された。

『それらを集大成した2世紀のプトレマイオス(90頃ー168頃)のモデルは、非常に高い精度で惑星運行を予言できるものとなっています。占星術の大成者を自認するプトレマイオスは、学間として正確な天文学を求めたのではなく、占星術に基づいて正確な予言をするためにこそ、正確な惑星運行表を必要としたのです。
そのプトレマィォスが著した「メガーレ・シンタクシス(大全書)』は、アラビア語に翻訳され、さらにラテン語に再翻訳されて『アルマゲスト 、(偉大な書)』と呼ばれるようになりました。』(pp.173)

 そして、コペルニクス的大転換になる。

『文豪ゲーテ(1749-1832)は、そのコペルニクス説の衝撃を印象的に語っています。
―あらゆる発見と信念の中で、コペルニクスの学説ほど、人間精神に多大な影響を及ぼしたものはないだろう。われわれの住むこの世界が、孤立したひとつの球体であることが明らかになるやいなや、宇宙の中心という絶大なる特権を放棄することになったのだから。ヒト間の精神に対しかくも厳しい要求が突き付けられたことは、かつてなかった。
この学説を認めることで、いっさいが露と消えた。第二の楽園も、無垢の世界も、文芸と信仰も、五感を通して得られる確かさも、そして詩的・宗教的な信念による確かさも。人々がそれらすべてを手放そうとせず、あらゆる手段でそれに抵抗したのもなんら不思議ではない。
しかしこの学説は、それを認める者に対しては、それまで知られていなかった、いやそれどころか予想すらされていなかったこと、すなわち、自由にものを考え、大きな枠組みで物事をとらえるという思想的立場に立つ権利を与え、それに参加するよう誘いかけるのである。(『色彩論』) 』(pp.175)

それから、ニュートン、デカルト、カントの功績により、現代風の理解がすすめられた。しかし、宇宙への理解が進むほど、人間の立ち位置が見えなくなってくる。

『そのような、時間的・空間的に人間を巨大なスケールで包み込む宇宙に生きているということを、「自らの科学・
技術の力で明らかにした結果」、私たちは、1万年以上にわたる文明史の中で、自らの立っている位置が非常に分かりにくくなっていることを感じているのではないでしょうか。かつて宇宙の中心に確固とした地位を占めていると思い込んでいた自信はとっくの昔に崩れ去り、自らの未来を「神の助けを借りて」何とかできると思っていた予感も、今では一体どこを足場にすればいいのか定かではありません。
現代を席巻している「科学・技術」というお化けのような存在に翻弄されているようにも見える人間。しかし所詮それは人間自身の営みですから、いまこの時代に進行しつつある事実をしっかりと整理して、人間が主体的に正しく未来を切り拓いていくための思想的準備をすることが、喫緊の課題として私たちの前にあります。』(pp.180)

そして、ようやく「生命についての問題」に取り掛かる。

『さあそこで、私たちが安易に叫んでいる「宇宙時代」の実体とは、いったい何でしょうか。それは、あの古代ギリシャの哲学者たちが、合理性に乏しいままではありましたが、「魂」の意昧を普遍性の中に位置づけようと努カを重ねました。その後の人間の営みの中に、アリストテレスを代表者とする、 自然(生物を含む)の事実と観察という粘り強い作業のあったことは、まことに有難いことです。ラファエッロ(1483-1520)の描いた『アテナイの学堂』という古代ギリシャの思想家たちを主題とする絵の中心に、天を指さすプラトンと手を地上に向けているアリストテレスが、歩きながら語り合う姿があります。』(pp.182)

さらに続けて、

『ネッサンスで無限空問に放り出された人間は、「魂の飛翔」を見せてよみがえり、アリストテレス以来蓄積されてきたデータをもとに、古代から潜在的な要求だった「合理性」を求める動きの中から、近代科学を生み出しました。そして20世紀、近代科学に基礎を置き、圧倒的に「科学・技術」の力に頼って、遂に「合理性と普遍性を兼ね備えた宇宙の認識」に到達したのでした。』(pp.182)

 結論は、次のように述べられている。

『しかしカントからヘーゲルに至るドイツ哲学の時代に、二元論の装いはありながら哲学は科学と技術に思想的な基礎を提供し、人間が合理的・普遍的に宇宙を可能にしました。こうした科学・技術の成功はめざましく、現代では「科学・技術」が、かつての「神」が果たしていた役割を担っているかのように感じている人は多いことでしょう。その「科学・技術」は、しょせん人間の活動の一環です。
1974年、マルティン・ハイデッガー(1889-1976)は、『芸術の由来と思索の使命』という小論の中で、現在の状況を「人間が科学的・技術的世界に閉じ込められている」と表現しています。そして「全地球的になった世界文明がかつてそこからその原初を奪いとった領域、その様な領域へと参入するという仕方でのみ(思索によって立ち戻る歩みが)可能となる」と語っています。
今は、哲学を先頭として、人文・社会・自然のあらゆる分野の人間の知恵を総動員して、「生きる」ことを軸に据えた新しい宇宙観を築くときです。そのために、ここまで築いた素晴らしい利学・技術を新たな宇宙観―「生きること」「いのち」をベースに置いた宇宙観― に脱皮させる時代に私たちは立ち至っているのだと思います。』(pp.184)

私は、「宇宙には夢がある」という言葉が、昔から嫌いだった。聞くたびに「宇宙には何もない」と繰り返していた。しかし、この著書を読んだ後での結論は、人類の文明の曙の時代をもう少し視野を広げて考えなければならない時代になったということだった。太古と現代は、共通して夢を宇宙に求めるしかないということなのだろう。
しかし科学者的な発想だけだと、どうしても人間機械論的、かつ性善説的な結論になってしまうように思われる。やはり、奥深くまで疑う哲学的な思考と常に並行して進めることが肝要なのだと思う。




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