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メタエンジニアの眼シリーズ(105)「古代中国の呉と日本への移民」

2019年02月02日 08時14分35秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(105)「古代中国の呉と日本への移民」

① 汪 向栄「古代の中国と日本」桜楓社 [1992] 
② 竹田 昌暉「神武は呉からやってきた」徳間書店 [1997] 
③ 林 青梧「阿倍仲麻呂の暗号」PHP研究所 [1997] 
④ 竹田 昌暉「1300年間解かれなかった日本書紀の謎」徳間書店 [2004] 

初回作成日;H31.1.28 最終改定日;H31.2.1

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

この4冊は、一貫して大和朝廷の始まりは、古代中国の三国時代を生き抜いた呉の民族によるものとの説を唱えている。
中国から日本への大量移民は、紀元前の秦の統一に関するものと、三国時代の魏と呉が主たるもののように思える。
親魏倭王の金印が示すように、北九州は魏(漢人)との関係が深かった。その最大の敵国だった呉の民(非漢人)は、したがって、南九州と紀伊半島の南端、出雲(?)に居を構えたとの説は、私には理解しやすかった。そのもととなった部分を4冊の中から引用する。
                    
書籍名;「古代の中国と日本」 [1992] 
著者;汪 向栄 発行所;桜楓社 発行日;1992.10.1



中国の歴史の専門家が、古代の日本について深く考えることはあまりない。秦に追われて朝鮮半島に逃げ、そこにも居られなくなって、古代の倭国まで逃げのびた、いわば難民の話になるからだ。しかし、この著者はかなり公平に詳しく記述を進めていると思う。

 先ずは、第2次大戦後に日本の歴史学者が、「帰化人」ではなく、「渡来人」と言い始めたことについて、「正確には移民というべきである」としている。そして、その「移民」については、次のように記している。
 『古代、特に日本の先史時期、あるいは闘史時代と呼ばれる時代に、日本列島に入ったこれらの外国移民は、先進文明を伝え、生産技術を持って行き、日本列島の開発、開化のために貢献した者が多かった。これらの外国移民の中で、最も多く貢献したのはもちろん中国移民であった。当時の中国は、文化知識においても、また生産技術の方面においても、すべて周囲の民族、国家(日本国内も含めて)の水準よりずっと優れていたからである。
これら日本列島に進入した中国移民については、中国史籍中に別に何らの記載もなく、日本の史籍中に若干の根跡が見られても、それはやや後の事である。しかし、ここ数十年来の考古学の発達によって、われわれは早期に日本列島に移住した中国移民の事跡について理解することが可能となった。当然、考古学においては、遺跡、遺物に基づいて総論して、当時当地にこのような事があったことを知ることができるだけで、 文字で記載されている歴史のように、具体的に名指しすることはできない。 ただこれらの遺跡、遺物だけで、日本列島が、まだ原始未開の状態に置かれていた時、中国大陸、それから朝鮮半島からやってきた外国移民の貢献があったことをすでに十分に物語っている。』(pp.44)

 さらに、三国志の魏書ではなく、晋書の内容を引用している。
『太伯は呉国の始祖であるが、それも別に事実だというわけではない。「史記」には「呉太伯世家」の記載があるが、恐らく伝説を書き記したものであろう。呉国は春秋時代の強国のーつであり、他の強国もそれぞれ始祖の伝説が史書に書き記されているからであり、呉太伯の記載もまたこの類に属するかもしれず、このため、「三国志」の編纂者である陳寿が、基本的に「魏略」をそのまま引用して、「倭入伝」を選述した時この部分を削除したのである。』(pp.45)

 そして、それをもとに、古代日本には呉の文化が根強く伝わっているのではとしている。
 『日本人が呉太伯の後継であるというのは、伝説にすぎない。伝説は歴史であるというわけではないが、少なくとも―つの事実、即ちはやく魚蒙が「魏略」を撰述した紀元三世紀・中国人の間にすでに呉太伯の子孫が海を渡って日本列島に到り、日本列島の住民の祖先になったという伝説があったことを物語っている。つまり、中国には、早くから中国移民が日本列島に移住したという説があり、彼らの根拠は、日本列島における漁民(水人)は入れ墨して、大魚や水禽の害を避け、その後、修飾を加えて、男子は大人も小児も、皆鯨面(顔面の入れ墨)文身(身体の入れ墨)するようになり、そして、中国の呉越の沿海部の住民もすべて断髪文身していたということである。風俗習慣が同じであることから、日本列島の住民は呉越人の後高であり、中国から移っていったものであると認めたのである。』(pp.46)

面白いのは、中国人の眼からは、「呉の民」は、漢民族ではないと明言していることだ。
『日本民族は最初からそのようであったわけではなく、次第に形成されたものである。長い歴史の中に、幾多の外来民族の混入があったので、紀元前八、九世紀のころ、中国移民(もし呉越を指すとすれば、非漢民族と言わねばならない)がそこへ行って定住し、以後の日本人の祖先になったということがあるかどうかは、まだ明確にし難い。』(pp.46)

中国大陸から日本への移民については、中国の政治状況によって、大量には2回に分けて行われたことが定説となっている。紀元前と紀元後の二派だが、後者については「呉」ではないかとしている。
『現在日本の学者は、先史時代に日本列島に入った中国移民を時間的に二次に分け、それを第一次渡来人と第二次渡来人と名付けている。縄文末期、即ち紀元前三、四世紀を第一次渡来人が日本列島に進出した最集中の時期とし、 第二次渡来人が比較的集中する時期は、弥生前期と中期、即ち紀元前後であるとしていてそ
れらは事実にあっていると言うべきである。』(pp.77)

 また、その移民は九州に定着したが、まもなく近畿地方に中心を移したであろうと、遺物の量をもとに推定をしている。
 『日本列島で、九州を中心とする須玖式文化を発見することもできるが、しばらくして弥生中期にはすでに近畿地方に移っている。この事実は日本列島に入った外来移民(中国移民ばかりではない)が集中案居した地が、すでに九州から近畿に移ったことを表しており、言い換えれば日本列島における生産力の発展の中心はすでに九州ではなく、近畿地方に移ったことを示しているいる。』(pp.82)

 
②  書籍名;「神武は呉からやってきた」 [1997] 
著者;竹田 昌暉 発行所;徳間書店 発行日;1997.8.31 



 この書は、三国志の魏書ではなく、「呉書」をもとに書かれている。後漢の次の三国時代は、魏が勝利したが、まもなく晋にとって代わられ滅びた。呉はそれでも残ったが、ついに晋に滅ぼされる羽目になった。その時の話である。
 『呉はやがて、孫晧の時代の天紀四年(西暦二八〇年)にわずか四代で西晋に滅ぼされることになる。「呉書」 によると、そのとき呉の人ロは二三〇万、兵二三万、舟船五〇〇〇余般であったという。 その天紀四年四月戊辰の「呉書」に、注目すべき記事があるのだ。』(pp.12)

 その漢文の文章を和訳すると、『呉国の暦で天紀四年にあたる西暦二八〇年、西晋は濁の軍船を使って揚子江上流から呉の攻略を開始した。呉軍は西晋の大兵力を前に敗北を重ね、首都建業(南京)ももはや陥落かと思われた同年四月戊辰に、呉将・陶溶が武昌からようやくもどり、最後の呉王・孫晧に、「敵の軍船はどれもこれも小型です。わたくしに二万の兵と大型の艦船をお貸しください。かならずたたきつぶしてごらんにいれます」(前出書、守屋洋・竹内良雄訳)と進言する。孫晧はただちにその策を受け入れるのだが、問題の記述「明日、発せんとするに、・・・。』(pp.12)
 とあり、早朝にはどこかへ消えてしまい、大船団が丸ごと行方不明になった。西晋の書にも、この船団の記述はないので、戦って沈められたのではない。

 この呉の最後の大船団が、黒潮に乗って、日本の数か所に分散上陸をして、新たな国を作った。そのいきさつをこのように記している。
 『すでに明らかにしたように、呉の水軍の主力船隊は南九州と河内に分散上陸したが(これを〈第一仮説〉とする)、三世紀末の日本の古代史の主役はおそらく河内に上陸したという伝承があるニギハヤヒのほうだったろう。
「先代旧事本紀」の第3巻天神本紀によると、 物部氏の祖ニギハヤヒは天孫ニニギの実兄で同母兄弟である。しかもニニギより先に天磐船に乗って河内に天降ったと明記されている。
ニギハヤヒの軍団は近畿の河内から大和に進出して、弥生時代に日本最大の集落があった奈良盆地からこの唐古・鍵遺跡周辺の大穀倉地帯を制したのであろう。この進駐が戦闘によったか、平和裏に行われたかについては一考を要する。 その後に神武=ホホデミの東征伝承があるからで、ニギハヤヒの場合には平和裏に進駐したと見るほうが妥当ではないか。』(pp.76)

 当時の倭国の王たちは、魏や晋と親しくしており、この時に進駐した呉の民が恐れていたのは、呉の民と身分が知られることであった、という。そこから、ややこしい古代日本史が始まったというわけである。

③  書籍名;「阿倍仲麻呂の暗号」 [1997] 
著者;林 青梧 発行所;PHP研究所 発行日;1997.11.13

 この書は、阿倍仲麻呂の有名な「あまのはら ふりさけみれば かすがなる・・・」の歌を、本来の記述だった漢字の使い方が奇妙である、との考えから出発して、彼の唐からの帰国計画と、当時の大和朝廷の関係を解きほぐしている。特に2か所ある「の」に対して、「能」の字を当てることへの疑問が大きく、暗号解読の発端となっている。
 しかし、私の興味は当時の交通路にあり、日本と中国の往復は、はるか南の揚子江のさらに南、つまりかつての呉のくにを通過して行われていたことだ。

 「和歌はいったい、どこからきたのであろうか」で始まる記述では、特に万葉集や古今和歌集の歌の傾向が、呉の国の古い歌と同じであるとして、次のように述べている。
 『呉歌というのは山歌の一種で、自然感情を歌いあげる場合が多く、山中における歩行者同士が安全を確認しあったり、難路をはげましあったりした歌で、長短まちまち、ときには尋ねたりこたえたり、拝情叙述にまたがったりする。原始形態の日本の和歌も長短まちまちで、スタイルは質朴、思うままに歌って、統一したリズムをもっていなかった。朗吟しながら鑑賞するところに、呉歌の趣きが混入しているようにみられる。和歌と呉歌の関係を、研究者はもっと重視すべきだと、楊副教授は主張するのである。 このことから、和歌は当初日本に来航する呉人たちの伝える山歌(呉歌)が、三十一文字の形式に落ち着いて、日本詩歌(和歌)とよばれるようになったのだろうと考えられる。』(pp.184)

 当時の呉については、
 『ここで取りあげる呉は、南京を中心とする三国時代の呉で、その後五世紀になって国家として成立した日本と、さかんに交流をかさね、日本に多大な影響を与えた国のことである。
国際呉文化学術研討会に提出された論文で、蘇州大学の楊暁東副教授が書いた「呉文化与日本」(呉文化と日本)のなかで、楊副教授は、呉と日本の関係に触れて、こう述べている。「善舟習水(舟をうまく操り、泳ぎが上手)の古代呉人が、日本との交渉を続けていたことは明白で、古代倭人はみずからを呉太伯の後人と称しているという(「翰苑残巻」「羅山文集」による)説は、まだ検討の余地があるが、江南の地域が日本と密接な関係をもち、呉地の先住民が、数千年も前に日本の地に赴いたことは、事実である。』(pp.183)
 さらに続けて、
 『古代中日文化交流には、江南の呉文化が濃厚に影響しており、たとえば日本の民族衣装といわれる「和服」については、多くの人が唐朝の服飾との関係をいうが、江南呉服の服飾・腰帯・飾り物などの影響のほうが、はるかに直接的である。それゆえに和服は、日本では呉服ともよばれるのである。江南呉語方言では、「和服」の和と「呉服」の呉の発音は「hou」と全く同音なのである。
呉文化研究所で、李恵然教授によって復元された呉入たちの結婚式のビデオをみせてもらって、わたしは驚いた。日本の昔のそれとそっくりだったからだ。』(pp.183)

 この著書では、仲麻呂の漢字の和歌の真意は、日本に帰る遣唐使に託す歌として、次の解釈になっている。
 『わたし仲介人仲麻呂は、中国皇帝の許にいて、日本に約東を果たしに行けないので、日本国天皇はそれを不満に思って、不機嫌になり、箕や篩で、穀物をふるっているだろう。こうして わたしは、やむなくここにとどまることになってしまったが、仲介人としてさらにはかりごとはないものかと、夜な夜な工作にふけっている。思えばいく転変、苦労を重ねてきたわたしの生涯であったが、この夜の月よ、どうかわたしの志を、少しでもよいから伝えてもらいたいも のだ。』(pp.189)

④  書籍名;「1300年間解かれなかった日本書紀の謎」 [1997] 
著者;竹田 昌暉 発行所;徳間書店 発行日;2004.1.31

 この書も、三国志の魏書ではなく、「呉書」をもとに書かれた同氏の説の統編になっている。今回は、神武だけではなく、日本書紀全体に彼の説を当てはめたわけである。
第5章は、「呉軍渡来説を支持する考古学的証拠」と称して、目本各地の例を挙げている。先ずは日向で、 次の記述になっている。
『これまで王仲殊氏の三角縁神獣鏡の研究と、「呉書」の記述から、「記紀」の「天孫降臨」伝承の実態 は、二世紀末に呉から呉王・孫氏の軍船が黒潮ルートで倭国に渡来した史実の伝承と見てきたが、それが史実だとすると、それを支持する考古学的な証拠が必要である。宮崎県は,奈良県や北関東とともに全国でも古墳が最も多いことで知られ、古墳時代全期を通じて古墳が築造されている。なかでも宮崎県と鹿児島県の大隅地方には、独特の地下式横穴古墳がある。この古墳の特徴は次のような点である
①  古墳の構造が中国の慕制と共通していて、目本の弥生時代の墳墓とつながらない。』(pp.70)
さらに樹ナて・被葬者の畿内との関係、宮崎市内から出土の銅銭、鏡の文様の特徴など7項目を挙げている。

第8章では、明治30年に発表きれた「上世年紀考」の記述について考察をしている。
『日韓の古代史を比較べると、雄略天皇以後の双方の記事には甚だしい違いはないが、允恭天皇以前の記述はその食い違いが甚だしい。その原因は允恭天皇以前の年紀が正しくないからである。よって上古の両国 交渉を研究するには、まずこの年紀の食い違った根本を正さなければならない。 戦後は一転して「記紀」否定が常識となってしまったが、「記紀」を香定せず年代の食い違いの原因を検討しようといり素朴な提言に、新鮮なショックを受けた.』(pp. 144)

ここには、自然科学に通じる記述もある。
『「上世年紀考」は那珂博士が明治一0年以来、「記紀」の年代を古代朝鮮及び中国の史書と比較研究し て、三回目にようやく集大成きれた著作で今目でも紀年研究の基礎となる重要な文献である。 博士の史観は明治維新期の若さにあふれ、「記紀」の誤謬を指摘するは、これを破壊するためにあらず。それを正しい史実に戻して信ずるためなり』 と冒頭で明言して、歴史に対する探求心が、自然科学に通ずる客観的な史観によって裏付けされている。もちろん今目では肯定できない部分も多いが、博士の史観は客観的なので時空を超えている』(up. 145)
そしで、結論的には次の様に記している。
『「日本書紀」では、神武元年が辛酉年となっていることから、平安時代の中期以降、「日本書紀」元年す なわち神武元年が、辛酉革命説によって設定されていることが知られていた。「上世年紀考」の功績は、「日本書紀」が辛西革命説によって、推古九年(六〇一)の辛酉の年を起点として、それより一蔀(一ニ六二年)きかのぼった蔀首の西暦前六六〇年を日本書紀元年、すなわち神武元年に設定しためだとはじめて科学的に解明したことである。
このように「日本書紀」は、最初に神武紀元年を西暦前六六〇年と設定し、神武元年から神功皇后六九年 二六九)までの九二九年間を、神功皇后を含む一五代の天皇で割り振ったので、一代の平均在位年数が、 六一・九年と異常に延長される結果となったのである。』(pp. 147)

私は,和眼を「呉服」と言ったり、漢字の音読みの中では、「漢音」(例えば男女は、だんじょ)よりも「呉音」(男女は、なんにょ)に目本人の心を感じてしまうので、この説には共感を覚える。更に、魏からの移民は友好の民だったが、呉からの移民は多くの軍船と王族・貴族を伴っていたのだとすると、その後の倭の国の政治に大きな影響を及ぼしたことへの想像は難くない。日本の古代史は、早く定まってほしいものだ。         


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