生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼(199)マキャベリーの君主論

2021年12月03日 07時39分16秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼(199)
TITLE:マキャベリーの君主論
初回作成年月日;2021.12.1 最終改定日;
『』内は、著書からの引用です。

 塩野七生著、「マキャヴェッリ語録」新潮社(2003)は、少し変わった書き方をしている。この本は、彼女のイタリアに関する本の何冊目なのだろう。奥付けの略歴を見ると、先ずは、今年の大谷翔平並みに賞を総なめしている。しかし、作家というよりは、文章家と言いたい。読んだことを直ぐに文章化しないでは気が済まないのだろう。



 生きた証をどのように残すかは、ヒトそれぞれだ。大組織に入り、社長になって勲章をもらうことは現代日本の典型に思える。ひたすら論文を書き続ける人もいる。私は、塩野派で文章に残すことがそれになっている。著者のキャベリーに対する評価もそのようだ。『マキャヴェッリにとって、書くということは、生の証し、だったのです。』(p.3)とある。

 「語録」であって、彼の思想の要約や解説ではないと、最初に断言をしている。つまり、イタリア語の原書から、忠実に翻訳をした文章を並べている。理由がいくつか述べられているのだが、その一つが「フレンツェ共和国を描くのに適切な素材」と考えたとしている。古代ギリシャ、古代ローマ、ヴェネチアを書いた後で、残されたフレンツェを書くのに適していると考えたようだ。その一つに「注釈が一切なかった」ことを挙げている。注釈がないということは、その時代のそこに住む人々にとって、注釈が必要にないほどに自明なことだから、がその理由になっている。言い得て妙だと思う。
 
 もう一つの理由は、彼の独創性にあるようだ。『彼と、五百年後の日本人の間に横たわる柵を取り払ってしまいたかったのです。書かれた当時にみなぎったいた生気を、何とかして読者にも味わってもらいたかった。』(p.7)とある。私は、文藝春秋にほぼ毎号掲載されている彼女の文章は、欠かさずに読んでいるつもりだが、毎回そのことを感じてしまう。
しかし、これを読んでも、今の日本の若年層に「みなぎったいた生気」が伝わるようには、中々に思えない。

 マキャヴェッリの特に「君主論」には、賛否両論があるのが常識になっている。彼女は、その双方に反論をして、中立を保つとしている。私は、賛成派に属するのだが、それは、冒頭の「読者に」の最後にこう書かれていることにも関係がある。
 『最後に、「君主」の原語であるプリンチペとは、現代でも、第一人者、リーダー、指導者を指す場合に用いられる表現であり、「国家」も、場合によっては、共同体とか組織とかに意訳して読んでも差し支えないというのが、西欧での読み方である、・・・。』(p.14) 、とのことで、このことは日本にはあまり伝わっていない。

 そこで、二つだけを引用する。
 第7項;『人々の頭脳をあやつることを熟知していた君主のほうが、人を信じた君主よりも、結果から見れば超えた事業を成功させている。』(p.64)とある。
 これは、「君主」を「企業経営者」と読み直すことができる。すると、現代のFaceBookやGoogleに、見事に当て嵌まる。

 第52項;『誰でも、なるべくならば容易にものごとを処理したいと願うものである。だが同じことでもたやすく実現できる人と、大変な苦労をした末にしか実現できない者に分かれるのも事実である。その原因は、あらかじめできている準備を、訪れたその機に投入すべきかまたはしないほうがよいかを見きわめる判断力にあると思う。(pp.215-216)
 これは、まさしく私がその場考学で目指していたものなので、驚いた。「あらかじめできている準備」と云われると、いかにも大変そうなのだが、実生活と会社での定型業務の中では、実は全く簡単なことが大部分なのだ。

 最近は、デジタル庁などを作って、国を挙げてのデジタル化が叫ばれている。しかし、デジタル化が目的になっていて、「容易にものごとを処理したい」という本来の目的が達成できていない。「あらかじめできている準備」が皆無のためなのだろう。



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