生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの目(200)科学と技術と哲学, 原子力時代における哲学

2021年12月05日 08時18分04秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの目(200)
TITLE:科学と技術と哲学
初回作成年月日;2021.12.5 最終改定日;

 今朝(2021.12.5)の読売新聞の書評に、「世界は関係でできている」という書の紹介があった。著者はイタリア人の理論物理学者で、書評は日本の生命科学者が書いている。この組み合わせから、中身は想像に難くないが、量子論の誕生と、その解釈についての後の第3部について、3か所が直接の引用文になっている。
 『心的世界と物理的世界は根本的に違う、という神話を一掃することができる』、『わたしたちが観察しているこの世界は、絶えず相互作用の網なのだ』、『わたしたちは科学に哲学を順応させるべきなのであって、その逆ではない』

 今の時代、劣勢にある哲学が、科学に近づこうとしているようだが、それは真逆であると、最先端の理論物理学者が言っているのは頼もしい。ここで紹介する、國分巧一朗著「原子力時代における哲学、(2019)晶文社は、まさにその一端だ。福島原発事故から大分たった3年前の発行なのだが、もし、原発に関する科学者が、事故前に、いや原発建設前に、この哲学者を学んでいれば、事故は防げたかもしれない。



 この書は、厄介な書だ。確かに表題は正しいのだが、内容は「放下」の解説書になっている。「放下」とは、理解することが極端に難しい。つまり、「この語は、副詞であり、名詞でもある」、「この語は、能動態でも受動態でもない、中動態である」、「放下とは、意志によるコントロールを離れて、しかし思惟することである」ということなのだ。

 昭和30年代に理想社から出版された、「ハイデガー選集」の第15巻が、「放下」という題名で、主文はたったの31ページで、残りは注釈と、3者(研究者、学者、教師)の対話が延々と書かれている。その本の解説書と見るのが妥当なように思える。

 カバーの裏には、短い文章が書かれている。『哲学者でただ一人、原子力の本質的な危険性を早くから指摘した人がいる。それが、マルティン・ハイデッガー。並みいる知識人たちが原子力の平和利用に傾いてゆく中で、なぜハイデッガーだけが原子力の危険性を指摘で来たのか。』とある。
 「放下」は、英国に最初の原子力発電所が稼働する直前の1955年に、ハイデッガーが、ある著名な作曲家にたいする記念講演会で語ったことの講演録になっている。第2次世界大戦後の米ソの冷戦の中で、世間は原爆への驚異を語っていたが、彼は、原爆よりも原子力の平和利用の方が危険であると明言した。
 確かに、戦後に発生した大事故や大災害は、原爆ではなく、世界中の原子炉だった。

 しかし、哲学者の彼が指摘する危険性はそれではない。人類が、常に管理をし続けなければならない、新たな技術について、深く考えることを放棄していることが、最大の危険だとしている。例え、原爆や原子力の平和利用が、反対運動により放棄されても、人類は新たに、それに代わるものを発明するというわけである。これは、新たな技術に対して、深く思惟することを放下している、というわけである。ここで何故、中動態である「放下」という言葉を持ち出したのか。その解説書になっている。
 このことを、通常のページ順に追っていったのでは、訳が分からなくなりそうなので、逆から追うことにする。
 
 研究者、学者、教師の3者による会話が延々と続いた後に、『放下を巡っては、意志によるコントロールの排除が徹底されている。(中略)その命名を為したのは「我々の中の誰でもない」。まさしく会話をしながら待っていることで、語そのものがその場に到達したかのように描かれているのである。』(p.304)
 つまり、始めから特定の問題意識を持って会話をするのではなく、なんとなく話しているうちに(つまり能動でも受動でもない状態)ある根本的な問題が浮かび上がってくる、ということを云っている。
 
 ハイデッガーは、『能動と受動の区別を意志と結びつける。放下が能動性と受動性の外部にあるということは、それが意志の領域の外部にあるということである。』(p.304)
 このことは、新たな技術について、その危険性を深く思惟するためには、総ての意思(つまり、賛成論と反対論)を捨てた自然の対話の中から考え始める必要がある、と言いたかったのであろう。

 『ハイデッガーが恐れていたのはそのような、「思惟からの逃走」ではないでしょうか。もしそうなら、かりに脱原発が実現したとしても、何も問題は解決していないことになります。同じような問題が繰り返されることになります。』(p.267)
 続けて、『ならば何を考えなければいけないか。既に問題は見えています。それは、なぜ我々は原子力をこれほどまでに使いたいと願ってきたのかという問題です。』(p.268)
 確かに、賛成論と反対論の議論の中からは、このような問いは生じてこないのだろう。

 『ハイデッガーは、原子力のような技術が世界を支配することも不気味だけれど、それ以上に不気味なのは我々がそのことについて全然考えていないことだと言います。』(p.255)

 このことは、現代に当てはめると納得がゆく。例えばAIが人間の知能を超えた結論を導き出すこと、スマホに拠るビックデータにより、大衆の行動が決められてしまうこと、などが当て嵌まる。不気味なのだが、専門家は考えようとしないで、先へ先へと進んでゆく。

 『重要なのは、「これを考えるぞ!」という態度で何かを考えるのではなくて、何か発信されているものを受け取ることができるような状態をつくり出すことであり、それが思惟であり放下である。』(p.223)
 『我々がものを考えるためには、放下の状態に到達しなければならない。』(p.222)

 このことは、メタエンジニアリングのMiningとExploringに相当するように思われる。能動や受動の立場からMiningを始めても、見えていない課題には出会えない。やはり、「放下」の状態からスタートしなければならない。

 能動性と受動性については、『中動態とはギリシア語などにあった動詞の態で、後の言語ではそれを捨て去って、能動態と受動態の対立に支配されるようになってしまいました。(中略)何事も「する」と「される」の対立で捉えてしまいます。』(p.219)

 3者の長い会話の中ほどの科学者の発言として、『我々は思惟の本質を規定することを試みています。』(p.221)として、ここから放下に関する会話が始まっている。
 ハイデッガーの「技術とテクネ―」について、日本語の「技術」という言葉をたどってゆくと、ギリシア語の「テクネ―」にたどり着く。『テクネ―というものはいったい何だろうという問いが、ハイデッガーが技術を考える際の出発点になっています。』(p.105)
 それについてのハイデッガーの発言は、『テクネ―において決定的なことは、作ることや道具を使って仕事をすることではないし、さまざまな手段の利用ということでもなく、既に述べたような開蔵ということなのである。』(p.106)
 ここで、「開蔵」とは、「所蔵されているものを開く」ということで、核分裂でエネルギーを取り出すことを指すのだが、それは、地下に埋もれている鉄鉱石から鉄を取り出すことにも適用される。

 そもそもの始まりは、この様に記されている。原子力エネルギーの利用は、どのような形態であれ「管理し続けなければならない」。それは、イコール「完全には管理できていない」ということで、その使用をひたすら望むのは、人間の技術に対する本性であり、『この力を制御しえない人間の行為の無能を密かに暴露しているのです。』(p.85)
 これが、一連の「ハイデガーの技術論」の本質になっている。






 
 


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