世の中の二乗>75の二乗

話せば長くなる話をする。知っても特にならない話をする。

骨太ちゃん

2010年06月13日 21時25分04秒 | Weblog
清水邦夫作・蜷川幸雄演出「真情あふるる軽薄さ」2001年版を見た。
おもしろかった。
舞台で見たらもっとおもしろかったろう。
人が多く舞台に上がっているだけで迫力というのはすごい。
それが長い行列を組んで整然としていると際立つ。
隊列が一瞬にして崩れると見てる側までざわつく。
長い行列とそれを挑発する青年の話。
初演の68年の時には舞台と闘争の新宿がリンクしていたという。
なるほど機動隊がでてきて行列の市民を殴る。
青年は権力に対して挑発しているのであって、
青年と権力の間の仲立ちに「中年男」という大学教授が出ていたらしい。
2001年には闘争はないので、
青年は権力に対しているという感じはしない。
見てる側はなんか、狂ってるなあこいつ、という感じだ。
なんか、怒ってるなあ、とか。
今でもなんかよくわからんけど怒ってるなあという人は街にいるので、そういう人を見る感じ。
普通はそういう人は黙殺される。
誰も好んで関わりになりたくないし、とばっちりを受けたくないから。
でも行列に並んでる時は暇なので、そんな狂ってる人と「遊んであげる」気になるのはわかる。
だから最初ストレスをためていた人たちが、どんどん怒りに任せてストレスを解消していったり、挑発遊びに付き合うことで解放されていく感じがおもしろかった。
挑発した相手に逆に遊ばれていくという感じはちゃんと伝わる。
だから最後に彼が死んだ時、遊び相手が死んだような喪失感が人たちの間に流れた、というのがすごくよかった。ぐっときた。
権力というものは2001年にはあんまり見えなくなっている。
なので、古田新太演じる「中年男」はたぶん大学教授という権力くさい位置にいなくて、
恋人関係みたいな個人レベルの位置で彼を翻弄していたんだろう。
2001年には「彼の担任教授です」というよりは「彼の恋人です」と言ったほうが彼にとって不愉快なんだ。
2001年には女と青年との間にはもう「恋人」しか割り込めない。
おもしろい。
最後、「青年」でも「女」でも「中年男」でもなく、群衆を殺しまわった「少年」がぱくっと開いた舞台の搬入口から本当の街へ姿を消していくのはやっぱり時代だなあと思った。
秋葉原の事件を思い出した。
あれはもう少年じゃないけど。
新宿にいる時思うのはこの人数は刃物じゃ刺しきれないなあということだ。
「ガンツ」という漫画では銃器で渋谷の人を撃ち殺していたけど、
そりゃあ、そうでもしないとたくさん人を殺すのはたいへんだ。
芝居でならみんな役者だからおもちゃのマシンガンで撃つまねをしたらみんな死んだふりをしてくれるけど、
でも現実はそうじゃない。
だからあの「少年」はちゃんとおもちゃの銃を置いて搬入口から出て行ったんだなあ、きっと。
でも、おもちゃを置いていったってことは、虚構から離れて現実に向かっていくという現われでもあると思った。
おもちゃのマシンガンを本物のナイフに持ちかえるなんてこともしなかったし、
私はあれは現実に立ち向かっていこうとする「少年」の堅実な姿勢にも思えた。
たとえば、引きこもりから外に出て行くというような。
「少年」が最初から舞台にいたわけじゃなくて、
最後目の前の惨劇とは全く関係ないというようにひょっこり現れて、顔を見せないまま、何にも関心を示さないまま、歩き去ったのがよかった。
おもしろい舞台だった。蜷川さん、さすがだなあ。

小栗康平監督作品「死の棘」見た。
これもおもしろかった。
島尾敏雄が自分の妻をモデルに書いたというものだから、
孫であるしまおまほの小さい頃を子供である父が写真におさめた写真集「まほちゃん」を知っている身からすれば、
あの家庭の歴史にこんな闇が、と思うのだけど、
映画の中ですげえ子供がいずらそうでよかったなあ。
あと、大抵の問題は子供が寝ているときに起こるものよのうと思って感慨深かった。
ウチにもあったんだろうなあ。
私らが寝てて知らないだけで。
お互いに追いつめあって、でも生きつなぎあっている夫婦の話だった。
なじられてなじられてわーとなっちゃうとこがでてきてよかった。
わーとならないとなじるのをやめられないからね。
わーとなれる相手だということと、
わーとなったらちゃんと止めてあげられるというのがこの夫婦の強みだ。
寒々しくてスリリングだけど、なぜか根底に安心が流れているような映画だった。
妻が、電気メーターの回ってる赤い印を「それがあんただ」と例えるとこがすごい!と思った。
よっぽど追いつめられないとそんな陰鬱な比喩表現でてこねえよ。

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