世の中の二乗>75の二乗

話せば長くなる話をする。知っても特にならない話をする。

彼はトーマスをどうやって見たか

2010年10月26日 22時37分31秒 | Weblog
2歳の男の子が
「きのう、YouTubeでトーマス見た」と言った。
すごく驚いた。
2歳児のまだ会話すらままならない舌足らずな口から
「ゆーちゅーぶ」とはっきり出たからだ。
なんか私はまだ毎日一緒にいる子供たちのことを
異世界の住人のように思っている節があって、
そのあっち側の住人が、突然こっち側の言葉を話したような衝撃だった。
そうか、この人たちはちゃんとこっち側にいるんだなあ、
こっち側にいて、ときどきあっち側にも行く人たちなんだなあと、
「ゴードンが」とか、
「人を乗せる電車は泣いちゃダメだって言ったんだよ」とか言っている顔を見て思った。

どーしても食べたいのっ

2010年10月20日 23時47分37秒 | Weblog
栗ご飯がそうだった。
どーしても、栗のほこほこ入った栗ごはんが食べたかった。
お婆ちゃんが作ってくれるようなあんな素栗のみの栗ごはんが食べたかったの。
だから炊き込み型の栗ごはんセット(山菜入り)を買ったのさ。
まっじーんだ、これが。
栗があっまーいんだ。
あっまーすぎんだ。
結局栗だけ残して(泣)山菜炊き込みご飯として食べたさ。
もう怒った。
ぜったいに栗ご飯を自分で作れるようになってやる。
なってやるからね。
見てろ。
栗め。
お前なんかすぐひん剥いて炊き込んでやるからね。
今期中に!

いやな予感

2010年10月19日 00時46分25秒 | Weblog
「乱暴と待機」みてきた。
本谷有希子らしく、相変わらず気持ち悪い人たちが出てきて楽しかった。
途中から「あれ、もしかしてこの女、幸せになっちゃうんじゃない?」といういやな予感がよぎって、
そしたらその予感が当たったのでいやーな気分になった。
そうか、つくってる人はこの女を幸せにしたかったのか。
こんな女でも幸せにしたかったのか。
うーん。
この嫌悪感はたぶん同属嫌悪だな。
なんでこの女が幸せになって私は幸せにならないんだ?というような類の嫌悪感だな。
めんどくさい業を背負った人が幸せになって喜ばしいはずなのに
そうとは思えないのは結局そういうことだな。
この映画くらい美女美男が出ていないと正視に耐えない映画はないんじゃないかな。
ほんとみんな気持ち悪いもん。
これは見世物小屋だな。
そういう意味でエンターテインメント。

杉村春子だ!!

2010年10月13日 21時04分03秒 | Weblog
9日~11日まで実家に帰ってお手伝い。
なんの手伝いかというと、
父方の親戚、母方の親戚がそれぞれ我が新築の実家へねぶり集まって
新築祝いと親戚会をやっちゃおうという、
まあものすごく血の濃い2日間を乗り切るためだ。

9日。
母方の親戚会。
母の兄弟とその連れ合いたち。と、母の母。私にしたらおじさんおばさん、お婆ちゃん。
総勢8名。
とにかく新築の家にあるもの何でもかんでもよく褒めてくれた。
あと、母の欲しがっていたメダカをくれた。
母は大きな甕を買って、庭で睡蓮と共にメダカを飼うのが夢なのだ。
本日のメニュー。
寿司、すき焼き、近所の中華料理屋から手配した中華前菜セット、手製のサラダ、手製芋きんとん、食後のケーキ。
おおごちそう。
が、なにぶんほとんどみんな還暦過ぎであるため残る残る。
ビールはすぽんすぽん開いたが、中華前菜にいたってはほぼ手付かず。
さすが食に対して保守的な母の親族だけのことはあると私は納得した。
途中で父の父母も顔を出し、
両家の親同士が約20年ぶりの再会。
お婆ちゃん同士が手を取り合って喜んでいた。
父の親であるお爺ちゃんの出生から勤めのことまでの話を、母の兄弟のおじさん二人が熱心に聞いてあげていたのもおもしろい光景だった。
それがまた、年季の入った聞き上手なおじさんたちなので、お爺ちゃん大喜びで話す話す。
それを見てお婆ちゃんが
「今日これがあるからってどきどきして午前中まで寝てたのに」と言った。

10日。
中休み。
母とメダカを入れる甕を買いに行く。
母は散々迷って一番地味な甕にした。
さすがこの母、と子は思った。
午後、母の車を借りて美術館へ。
宇野亜喜良展を見に行く。
これが期待以上にすごくよかった。
原画がたくさん見れたのだけど、
そのペン使いや、色の塗り方、画材の使い方、驚いた。
自由に書いている。
そんなイラストたち。
憧れる。
かっこいい。
ひゃーと思って図録買ってしまう。

11日。
父方の親戚。
父の父母。少しややこしいが、父の母の兄弟とその連れ合いたち。私にしたらお爺ちゃん、お婆ちゃん、あとはなんて呼べば正しいのかわからないので、父が呼ぶのにしたがって「おじさん、おばさん」。
総勢13人。
さすがに昔の人なのでお婆ちゃんは兄弟が多く、生きている兄弟で6人。
そのうちお婆ちゃんが一番上で、一番年下のおじさんまで年齢差が22歳。
なのでウチの父とその一番年下のおじさんがけっこう近い歳。
で、そのおじさんが大工で、今回家をおじさんに建ててもらったのもあり、父とおじさんが仲良くつるんで飲んでいた。
ここで私は初めて人に「行かず後家」と言われることになる。
この古いOSを使ってしゃべったのは、
父の母の妹で、もうまさに杉村春子!というようなチャキチャキした性格の持ち主。
あ、ここでいう杉村春子というのは小津映画「東京物語」の杉村春子がやっていた役という意味です。
美容院をやってるのも一緒。
そんな彼女のチャキチャキ語に言わせると、
「結婚なんて免許みたいなもんなんだから、いつまでも行かず後家みたいに大事にせず、免許だけでも早くとったほうがいい。免許とった後ならなにしようが誰も何にも言わないし、嫌なら捨てたっていい。人のやることはなんでもしてみて、合わなければやめればいいだけの話。」
大筋では納得がいくんだけど、なにせチャキチャキしてるのでその言葉のチョイスや話し方のぶっきらぼうさに面食らう。
たぶん、みゆみゆは私のこういうとこに引くんだろうなと己の血を見せ付けられた感じ。
小さい頃には会っていると思うが、記憶にないくらい遠いことなので、こちらとしてはほぼ全員はじめましてという心境。
おじさんおばさんにしても、遠い親戚の子のことなので、私に関する知識が曖昧で、
「明日は学校があるの?」や「今どこに住んでるの?」などほぼないに等しいお互いへの興味をなんとかたぐり寄せながらの会食。
本日のメニュー。
お婆ちゃんが作ってきた栗ごはんおにぎり、煮豚。お婆ちゃんの妹達が作ったうなぎの蒲焼、肝の佃煮、里芋の煮っ転がし、きゅうり日本酒漬け、なます、いくらの醤油漬け、炊き込みご飯おにぎり。持ち寄った刺身、蟹、ウインナー、ケーキ。
さすがというほど女たちは料理を山のように作って持ってきた。
そしてどれもうまい。
さすが。
今生きているだけで6人も兄弟がいて、
毎年のように兄弟会をしているお婆ちゃんから少し離れて、
自分には兄弟がおらず、耳が遠いせいもあり、なかなか会話に入らないお爺ちゃんがぽつんと一人で烏龍茶飲んでたのが印象的だった。

ジャン健在!!

2010年10月06日 22時46分58秒 | Weblog
ジャン・ピエール・ジュネ監督作品「ミックマック」見てきた。
相変わらず楽しい。裏切らない。
ファンなら絶対に満足できる作品。
「リアリティなんかに興味はない」とのたまう監督。
ここまできたら確かにリアリティなんて要らないよね。
まるで空白を恐れるように次々あらわれる奇抜なアイディアと緻密な計算。
それがすっかりうまくいく快感。
これはピタゴラスイッチを見る快感に似ている。
見終わったあとの驚きと喜び。
天才まだまだ現役!!

予告編で気になった映画。
フランス映画が多いのは映画館の趣味だろう。
「プチ・ニコラ」。


「リトル・ランボーズ」。


あと、「クリスマス・ストーリー」。
これに出てくるマチュー・アマルリックという俳優の顔が
私はたぶん一番どストライクの好みだと思っているんだけど、
「芸能人でいうと誰が好き?」の質問に
「マチュー・アマルリック!」と元気よく答えても誰も(普通の日本人女子カラオケ好きお一人様できない)わからないと思うので、
普通は「浅野忠信」としか言わない。
顔の系統が似ているなあと思っている三上博史でも、
「芸能人でいうと」の質問者にはわかってもらえないと思う。
しかし私はこの顔が好きだ。
たぶん面と向かったら「ぎゃー」と言って走って逃げると思う。
そのくらい好きな顔。
そんなマチュー・アマルリックが出ているフランス映画「クリスマス・ストーリー」の予告動画は
探しましたが見つかりませんでした。
たぶん、その単純な題名のせいで他の動画に埋もれているんじゃないかな。
マチュー・アマルリックの顔はもし興味があればググって探したらいいのじゃないかと思います。

大切

2010年10月05日 21時56分14秒 | Weblog
「ブリ大切 298円」。
近くのスーパーでブリの切り身が売られていた。
しばし見つめて正しい読みは「おおぎり」と自分で判断する。

3歳の男としゃべっていて。
ふいに何気なく
「こんなに長い間話してたら好きになっちゃうよ」
と言われる。

ハイブリットバスなるものに乗った。
電気とガソリンで走り、
電気はタイヤの回転で発電し、充電も可能。
それをちくいち報告してくる電光掲示板が設置してある。
いま、電気で走ってます。
今はガソリン、はい、アイドリング中です、つぎ充電してます。
予想以上に目まぐるしい状況報告。
思わず目で追っていて、気づいたら完全に車酔いしていた。

交差点ですれ違った若い女の子が
「てゆーかさぁ、ぶっちゃけよくない?タメ語だろうが敬語だろうが、楽しけりゃー」と言っていた。
これにはいろいろ異議がある。

「ほんとは内緒だけど、生徒にちみきられたの」と
手のひらにできた血マメを母に見せられる。
「ちみきる」が方言だと知らなかった国語教諭です。
ちなみに「つねる」のような意。

小学生くらいの男の子と母親の会話。
「絶対この人バーチャルな世界にしかいない人だよね。」
「そういうイメージがするってこと?」
「現実の世界にきたら消えちゃうんじゃない?」
「ああ、確かに雰囲気だけだもんね」
松田龍平のポスターを見ながら。

ところどころ(後半)

2010年10月02日 23時43分33秒 | Weblog
9月21日(火)つづき
お昼頃、フェリーで小豆島へ渡る。
所要時間は約1時間。
なぜかフェリーの発着時に勇ましいファンファーレが流れる。
しばし出兵のような気分。
明るい薄曇の空とおんなじ色の海の中を行く。
いくつもの島があらわれては通り過ぎる。
後ろに去った景色は光で輪郭がとばされていく感じ。
どんどん白く明るくなって、見えなくなっていく。
遠くの方にぽこんぽこんと灰色がかった島の影たち。
太平洋とは違う。全然違う。
海賊が多かったのも納得だ。
身をひそめるところがたくさんあるもの。
小豆島土庄港着。
泊まる旅館に大きな荷物を預けて尾崎放哉記念館へ。
狭い道が多い。
車がなかった頃の道幅だ。
とにかく暑く、次にいつお茶や水が買えるかわからないという恐怖があるため、
自販機を見つけるごとに買い足しながら歩く。
尾崎放哉記念館はちょっと異様な光景の中にあった。
そこは小豆島の共同墓地の一角にあって、
すり鉢状になった傾斜にずらりと墓石が取り込むように並んでおり、
入り口近くには六地蔵。
中央には無数のお地蔵様が円になってわーと並んでいる。
ただ記念館があるだけと思い込んでいた私には
何気なくドアを開けたら大勢の知らない人にわっと見られたような、
三途の河原に迷い込んだような、
そんなすこしぞっとする体験だった。
記念館は意外にも若い女の人が一人で管理していて、
彼女に導かれるまま芳名帳に記入し、放哉直筆の手紙や写真など静々と見た。
放哉が小豆島で暮らした南郷庵を復元したという記念館はやはりとても小さくて、
ここで弱りながら死んでいくということについて、
できた作品を見てもらう相手がいないことについて、
外界との唯一の扉であった土庄港から少し遠いことについて、
すこし考えた。
記念館を出て、共同墓地の中にある放哉の墓まで行く。
要所要所に置いてある墓参り用のバケツとひしゃくを借りて、井戸水を入れ、対面する。
お酒が好きでお酒で身を崩したといってもいい放哉の墓には
ワンカップが備えてあった。
暑くてがらんとしてうっとおしいような孤独のようなそんなところだった。
ここまで来たんだこの際だ、と
少し行ったところにあるエンジェルロードなる観光スポットにも行く。
ここは干潮のときだけ隣の小島とつながる道ができる場所。
カップルが手をつないでその道を行くと永遠に離れないといううたい文句つき。
わあわあと人がいた。
ちょうど干潮時に出くわしたらしく渡れる。
小島に着くとうたい文句に誘われたカップルがハートマークの木片に絵馬的なことを書いて木に吊るしている。
無数のハートマークが、細い枯れ枝にびっちり垂れている。
私にはどうしてもそれが祈りというより呪いのようで、
さっきの共同墓地で感じた「ぞっ」に似たものを感じる。
磯にいたイソギンチャクなどいじめながらしばし休憩。
今回、私は素泊まり客なので夕飯を自分で調達しなければいけない。
エンジェルロードのすぐ近くにマルナカがあることは調査済みだったため向かう。
地元のおいしいものは大概地元スーパーにあるというのは
私の基本姿勢なのでマルナカで瀬戸内海産の刺身とか蛸の磯辺揚げとか買う。
お土産にオリーブ素麺なる緑の素麺も買う。
具合のいいことにマルナカから土庄港までの無料バスが出てると知り、悠々と乗り込む。
宿へ。
一日けっこうな距離を歩いたので足が痛くなった。
オリーブの葉っぱが浸されているお風呂に入って刺身食う。
正解!!
うまい。
あとはぐだらぐだらとテレビ見たりして極楽した。
極楽のまま就寝。

9月22日(水)
起きて昨日買っておいたパンをかじる。
もそもそ準備。
宿を出て直島行きの高速艇に乗る。
小豆島、ここに来るにあたって初めて読んだ「二十四の瞳」も私の中で結果まあまあくらいの評価だったため、あんまり映画村とか興味なくて見なかった。
オリーブもぶっちゃけあんまり興味ないのでそういうことに行かなかった。
ほんと当初の旅の目的「尾崎放哉の死んだ場所が見たい」のみを満足させた場所だった。
それで十分なんだけどね。
しかしそういうのは後々思ったことで、
高速艇に乗りながらの私は、なぜかずっと「平成たぬき合戦ぽんぽこ」がいかに素晴らしい映画であったか反すうし続けた。
高速艇だけあって小型だがフェリーより速く、
飛沫から客を守るシートが風にはためいて、せわしない紋白蝶のようだった。
今日も晴れ。
海は灰色がかった青で、光があたって銀色にひかる。
45分ほどで直島宮浦港着。
アートの島として売っている直島は今開かれている瀬戸内国際芸術祭の中心地としてさすがに盛り上がっており、人が大勢いた。
ただしアートめぐりをする割には上品なスーツ着てるおばさんたちというより、
バックパッカーのようながっつり系の格好をしたアート好きが多い。
でもそりゃそうで、島のあちこちに点在している美術館やアート作品を
見て回ろうと思ったらシャツにスーツでは暑すぎるし動きづら過ぎる。
まして瀬戸内海に散らばった島々にアート作品は存在していて、
それを全部見て回ろうと思ったらそらもうTシャツ短パン帽子首にタオルリュック!は当然の姿と言える。
雑誌でさわやかに紹介されているよりかなり体力の要る芸術祭であることは間違いない。
私もレンタサイクルを使って島をまわる。
けっこう起伏の激しい箇所もあるが、基本的には自転車は直島ではすごくいい交通手段だった。
歩きでは感じられないスピードが気持ちよかった。
景色もすごくいい。
小豆島が昔風の観光地としたら、直島は今風に作られた観光地だ。
きっと人が直島に目をつけたのが最近のことだからだろう。
居住区と美術館ゾーンが全く隔たっていて、
美術館から見える風景にいっさい生活感が流れ込まない。
居住区には生活感に溶け込ませたアート作品がある。
見せたくないものをうまく廃し、また、うまく変化させて見せたいものへ変えている。
色々見たけど、
一番見たかった草間彌生の黄色いかぼちゃがやっぱり一番よかった。
海と空の中にあの奇妙なかぼちゃがぽっかりある風景がすごくおかしくておもしろかった。
全然性格の違う人同士が親友になってるみたいな感じ。
父にかぼちゃの手ぬぐい、母に草間彌生Tシャツ、自分にマーブル柄の犬のマグカップ買う。
直島の銭湯に入る。
ここも観光名所のひとつで、銭湯は銭湯なんだけど、装飾が派手派手。
風呂場になぜか象がいたり、骸骨が体操しているタイルがあったりする。
たのしい。
お湯はゆるめで、底にはなぜか春画や日活ロマンポルノのポスター。
むらむらさせたいのか?
芸術祭で来ている外国人もけっこう入っていて、
白人は年をとっても乳首がピンクですごいなと思った。
この時点で旅の目的は全てこなしたので時間をかけて湯に浸かり、
時間をかけて乾かし、脱衣所でぼーっとし、よっこらせと出る。
港の先っぽで座り込み、昨日食べ切れなかったすっぱムーチョ食べながら無為に過ごす。
雲の通い路をどんどん変化させていく湿った風が気持ちよかった。
フェリーに乗って爆睡。
起きたら高松港に戻っていた。
その後うどんを食べて、夜行バスへ。
すやすや眠って名古屋へ帰る。

9月23日(木)
夜中あたりから雨が降ってる気配。
早朝名古屋へ着くと、雷がごろごろ鳴っている。
きっと昨日から雨雲といっしょに移動してきたんだなあ。
なんとか降りだす前に実家に到着。
父と母にお土産を渡してお風呂はいって一眠りする。
起きたら昼で、父は出かけており、母と緑色のオリーブ素麺を食べる。
特に変わったところなし。普通の素麺。
母の部屋兼リビングルームにピクチャーレールを取り付け、
母のパッチワーク作品をかける。
母、満足げ。
母の車を借りて久しぶりの運転。おつかいへ。
駐車するとき後ろからチャレンジしようとしなければ比較的スムーズ。
父が帰ってきて夕食。
ここでいつまでたっても痒さの消えない手首問題に話題がいき、
父も同じ症状であることが判明する。
銀杏だ。
銀杏にかぶれた。
それがここで明らかに。
父と私、二人とも長袖を着て軍手をはめていたのだが、
その隙間、皮膚が見えていた手首に銀杏の汁がかかったためひどい痒みと赤い湿疹が起こってしまったよう。
二人してぐうぐう唸る。
となると心配なのは一緒に銀杏を拾った嫁だ。
母が弟にメールし、安否を確認する。
すると弟からは「大丈夫みたいです」とのこと。
私はホッとしたが、母は「もしかすると気を使って言わないだけかもしれん」と疑う。
痒さにのたうちながら就寝。

9月24日(金)
だらだら過ごす。
飼い猫が新しい家に寄り付かないということで強制的に家の中に入れてみる。
抱かれて家に入り、床に下ろされたとたん、しっぽがぼっと太くなり、わおわお鳴く。
窓の周りをふらふらして落ち着かない。
明らかに警戒している。
さらにリビングにある掘りごたつの仕組みが理解できていないため、
床があると思って足を伸ばし落ちる。
猫が掘りごたつに落ちる。
人間は大爆笑だが、本人はパニックに陥り、網戸を破って出ようとする。
新しい網戸を破られてはたまらないので、ここは一旦外に出す。
明日いつもは食べれない「濡れたエサ」(いつもは乾燥した硬いキャットフード)を買ってきてそれで機嫌をとろうと作戦を立ててそれぞれが解散。

9月25日(土)
「濡れたエサ」作戦がうまくいき、
びくびくしつつもわぐわぐ食べる。
「ここに来るとおいしいものが食べられるよ」と母がその背中に何度も言い聞かせていた。
母と庭にタマリュウを植える。
母の大学からの友達が来るというのでケーキを買いに行かされる。
おお、2度目の運転。
無事故。
新しい大きくて薄いテレビを見ながら父とお酒を飲み、
母と「着物を着てフライドチキンは食べちゃダメだよねえ」とCMを叱る。

9月26日(日)
祖父母の家へ。
出迎えてくれた祖父がなにやら口に入れてもぐもぐしているのでご飯の最中だったのかと思ったら、
ガムを噛んでいるのだった。
祖母とプランターを動かし、梅干しをもらって帰る。
夕食にカレイの煮付けを食べて東京へ帰る。
お休みはこれでおしまい。

9月27日(月)
久しぶりの職場。
雷がすごく鳴る日で、そのたびに子供が号泣。
その阿鼻叫喚に「帰ってきたな」と思う。

ところどころ(前半)

2010年10月02日 08時31分19秒 | Weblog
9月18日から約一週間の夏休みをとった。
その前後にしたこと、行ったとこ、思ったこと。

9月18日(土)
実家の引越しを手伝う。
引越しといっても隣の土地に家を建てそこへ両親が移り住むというもの。
移動距離は短い。
が、物は多い。
ということで子供3人(私、弟、嫁)が召集され働かされることになった。
父の手配した新幹線にきちんと3人が納まって
東京から名古屋へ向かう。
途中、嫁に「ほんっとふたりって姉弟ですよねぇ」と言われる。
理由は「この話の流れで二人が同時に猫の鳴きまねをはじめるなんて他ではありえない」。
最寄り駅に向かえに来てくれた母の車にはベントマンの弁当がぎっちりつまっていた。
家が完成して初めて見る。
母こだわりの門柱と表札にはまだ緑色の養生テープがはってある。
「明日になるまで触れるべからず」とのこと。
この家を建ててくれた棟梁と奥さん登場。
祖母の弟である棟梁は顔も祖母に似ていて、
なのに他人であるはずの奥さんもやっぱり祖母に似ていた。
まだ整理されていない物であふれかえった家に入る。
家自体は新品なのに、ただそこに物がたくさんあるというだけでもうすごい生活感と使用感。
キッチンの机の上を払いのけてスペースを作り、みんなでベントマンを食べる。
それぞれ勝手なことをしゃべる。
私は、電車に乗っていて、きーきー車体がきしむ音がひっきりなしに聞こえるなあと思ったら、チワワが鞄から首だけ出してぷるぷる鳴いている声だった、とか。
作業開始。
男手は「今日のメインイベント」、箪笥の吊り上げをやる。
私は嫁と共にいろいろな組み立て。
ロールカーテンの組み立てとか、パズルみたいな絨毯を敷きつめたり。
その後、弟と私は旧の家の各自の部屋の掃除。
部屋のものは全ているものといらないものに分け、
いらないものは燃えるいらないものと、燃えないいらないものに分ける。
ときどき弟の部屋からわーとか、ぎゃーとか声が上がり、行ってみると、
衣装ケースいっぱいに詰まったビニール怪獣を手に呆然としていたり、
母が何かで買ってきたホワイティ(@笑う犬の生活)のキーホルダーを見て笑い転げている弟がいたりした。
私の部屋からも負けず劣らずすごいものが山のように出てきて、
高校時代の参考書とか、中学時代の自作胸像とか、
むかし家族で取りに行ったサメの歯の化石とか、
半分朽ち果てた単三電池とか。
当然、そのうちのほとんどがいらないものなので、
瞬く間にゴミ袋の山ができた。
実家の地域の指定ゴミ袋はなぜか真ピンク色で、
そのピンクが旧の家の中身をほぼ埋め尽くした頃、ようやく日暮れ。
両親が結婚した時に買った唐草文様の布団入れ(赤くて大きな寿の文字)に仰け反り、
発掘した記憶にない花瓶にヨウシュヤマゴボウを活け、
小学校の頃母にプレゼントした自作俳句カードを見せられ、
刺激に満ちた一日が終わった。
その後は慣れないお風呂に入り、
他人の家のようなベットで寝た。

9月19日(日)
案の定、よく眠れず目が覚める。
新しい私の部屋は全く物がなく、がらんとした中に東京から持ってきた鞄だけがある。
ここが自分の家という実感がまだない。
トイレに入っても父が置いた2メートルの黒竹に呆然とし、
こちらが立つと水を流すレバーが勝手にくいっと動くのにビビったりする。
昨日の夜に取り決めた銀杏拾いに行く。
弟は必死に止めていたが、なんと嫁も来ることになり、父と私、嫁の3人で行く。
いつもは二人で1時間かかるところが、さすが3人、30分で買い物かご2箱分が終了。
神社の境内なので神様によくよくお礼をして帰る。
しかし、これが後々災難を招くことになる。
帰ってすぐにシャワーで汗を流し、またかたづけ。
母の本棚を整理したり(半分はアガサ・クリスティーと北村薫)、箪笥にショウノウをまいたり、窓に防犯シートなるものを張ったり。
昼頃、祖父母が様子を見に来る。
みんなで寿司を食べて、こっそり祖母と密約を交わす。
即ち、祖母が死んだら祖母の描いた絵の私が一番気に入っているやつをもらう。
それから弟と嫁は祖父母を車で送りがてら、嫁の実家へ。
父、母、私は各自黙々と働く。
途中、母が「あんたこれいる?」と聞いたものが今回最大のお宝。
私の保育所時代の連絡ノートだった。
保育士(当時は保母)と母が私についてやりとりした記録が生後3ケ月から5歳まで途切れることなく保管してあった。
手帳サイズのノートが15冊。
毎日の様子、食べたもの、寝た時間、病気の状況、などがまあびっちり書いてある。
そこには私の知らない(記憶にない)私がいて、
しかも今の自分の職場では考えられないような忌憚のない保母の意見が書いてあり、
そこに実母の観察眼も付け加えられていて、
これはもう読み物として最適。
今回の夏休みのために買ったはずの川上弘美「此処彼処」などほっぽって読み始める。
読み進めるだにおもしろいおもしろい。
これについてはまた詳しく書きます。

9月20日(月)
弟が一人で帰ってきてまた4人で黙々と片付け。
新の家はだいぶきれいになる。
旧はますますピンクで埋もれる。
旧の弟の部屋から推定7年前の弁当箱(中身入り)が見つかる。
新の弟の部屋に初音ミクの掛け時計が置かれる。
この頃から私の手首と首周りが痒くなり始める。
母からムヒをもらい塗る。
明日仕事がある弟は東京へ帰り、
父母とサンマを食べる。
夜10時。
私の旅が始まる。
11時発の高速深夜バスに乗り、香川県高松へ。
そこから小豆島へ渡り一泊、次の日に直島へ渡り深夜バスで帰ってくるという小旅行。
出発。

9月21日(火)
バス車内。
昨夜11時に出発し、朝6時半に高松駅へ着く道行。
途中、午前3時20分という絶対起こしてほしくない時間に休憩。
車内がいやがおうにも明るくなり、皆しわくちゃの顔。
前に座っている女の子が携帯を握りしめて寝るため、気を抜いた隙にぼたんぼたんとよく落としていた。
高松駅着。
近くの高松港は海の臭いのしない海だった。
私はうどんの国に着いたので是が非でもうどんが食べたくて、
まだ朝のぼんやりした街を開いているうどん屋を探して猛烈に歩き回る。
その中で「寄鳥味鳥」と書いて「よりどりみどり」というお店など見物する。
やっとうどん屋を見つけ、冷やしぶっかけ+あげ(380円)を食べる。
その店で持ってきた保育所連絡ノート読みながらけっこうのんびり過ごす。
9時。
円座へ向かうため車内に扇風機がついてるレトロ電車「ことでん」に乗り込む。
私がこの世で一番好きなうどん屋であった「宮武」がご主人の「体力の限界」の理由でなくなったのだが、
なんとその弟子が円座で「宮武うどん」という店を出していると言う情報を手に入れたのだ。
円座とは高松から電車で25分というちょっと離れた場所。
しかも「宮武うどん」は円座駅からまたちょっと離れたとこ。
でも行く。
せっかく香川に来たんだし、「宮武」の味が食べれる場所があるんなら、私は行く。
がんばった。
それはもう結構がんばった。
ことでんは途中で前車両と後ろ車両が切り離される仕組みがよくわからなくてドキドキしたし、
円座駅から「宮武うどん」まではじりじりと炎天にさらされながら地図を見い見いひたすら歩いた。
なぜかどんどん痒さが増してくる手首に薬を塗りつつ、
汗をだらだらかきながら、もう外見なんて二の次だわいと手ぬぐいを首に巻いてうどん屋をめざした。
目の中に「宮武うどん」の看板を捉えた時にはうっすらと感動までしていた。
かけのひやあつ(230円)を食べる。
麺の太さが「宮武」のときより細い気がしたが、出汁はああ、こんな感じだった。
1時間かけて来て、5分で食べ終わる。
そしてまた1時間かけて高松へ戻る。