世の中の二乗>75の二乗

話せば長くなる話をする。知っても特にならない話をする。

発信と受信

2006年05月31日 22時45分53秒 | Weblog
池ちゃんのミクシィブログを読んで、流行の発信と受信について少し思う。
んで、気になる雑誌について思う。
雑誌に「オマケ」がつき始めたのはいつの頃からだろう。
私の記憶では、私たちの小学校時代(90年代)には少女向けの漫画雑誌では各社とも「付録」合戦が相当レベルで加熱していたと思う。
雑誌を買えば必ずもらえる手帳やシールやバッグやマニキュアは現在でも「付録」の代名詞だろう。
私たち小学生は「付録」の良し悪しで雑誌を品定めし、
次号の「付録」いかんで購買意欲が萎えることもあったと記憶している。
買っていた雑誌が漫画雑誌だったため、その「付録」は漫画のキャラクターが描かれているのが当然だったが、
今思えば、好きな漫画のキャラクターがついているバックだったから欲しかったのかといえば、甚だ疑問だ。
バッグについているキャラクターよりも、「その雑誌を買った者のみが持てる証」という付加価値の方に収集欲が傾いたといった方が正しい気がする。
当時、私の小学校では少女漫画雑誌の「りぼん」派と「なかよし」派、少数派としての「ちゃお」他にグループが分かれていた。
「りぼん」派が王道中の王道。しかし、当時人気絶頂にあった「セーラームーン」が連載されていた「なかよし」派にもそれ相応の地位があった。
別にそこまでパッキリとした境界があるわけではなかったが(実際どっちも買っている子もいた)、読んでいる雑誌での女の子同士の区分けがなんとなくあったことは事実だ。
そして誰がどの派閥なのかを知るには、どの雑誌の「付録」を持っているか、が最重要事項なのであった。
当然、漫画雑誌など学校に持ってこれるはずはなく、
それ故に「付録」の付加価値は自己表現(自分が何派に属しているか)の一端すら担い、
グループの中で暮らしていた小学生は自分の地位を再確認するためにも、
また、対外的に自分の位置を指し示すためにも、
その漫画雑誌、そしてその「付録」を買うことに躍起になっていくのだった。

言うまでもないことだが、それ以前にも、かなり早い段階から読み物+αという文化は根付いていた。
読み物でないにしても、食玩のオモチャに「オマケ」システムを代表するような、+αの文化は大々的に広がっていた。
しかもそれらは概ね、先に述べたような「付録」そのものが本体の価値を超えてしまう可能性も十二分に秘めている。というより、それはすでに証明されてしまったと言ってしまえる。
そうするといまや、雑誌はその内容よりもむしろ、どんな「付録」や「付加価値」がついてくるか、ということで決まるのかもしれない。
いや、そりゃ中身は大事だし、中身がなければ、それは当然駄目なんだろうが。
でも、「読者全員にプラチナネックレスプレゼント!」という雑誌をその月だけ買う人も絶対いるでしょう。
R25にしても、ビックイシューにしても、緻密なマーケティングと読み手を満足させる情報量がなければこんなに人気は出ないよ。
でも、これが0円じゃなかったら、ホームレスが売ってなかったら、そしてさらに日本全国で手に入るものなら、そこまで、ここまで注目されたかしら。
そう思ってしまうんですよ。
それはもちろん、偶然じゃない。その「付加価値」の価値を十分わかった上で、計算づくで、これらの雑誌は世に出されたことはわかる。
そして私はなにも、雑誌は中身やろ!「付録」なんかじゃなくて中身だけで勝負せんかい!と思っているわけでもない。
ただ、いつから、「オマケ」=加えられるものが、本体の価値を乗っ取りはじめたんだろうとは思う。
いや、実はさ、「オマケ」とか「付録」とかって、辞書的な意味は本体があった上でのちょっとした+αって感じだけどさ、「オマケ」って実用的な意味になった時点で、もう最初っから本体の上に来てるもんなのかもしれないよね。
同じ品物、同じ様な愛想のオヤジ、そしたら「オマケ」してくれる店の方に行くもんね。
でも、それとは別に「馴染み」なんて言葉もあったりしてさ。
あそこはオヤジの代からの「馴染み」だからってんで、同じ店でもそっちの方行ったりさ。
んで、この二つが全く逆の意味ってわけでもないんだよね。
最初は「オマケ」に惹かれて買ってみたら、ついつい買い続けちゃって、それを買い続けることに価値を見出しちゃって、新しい物が出たけどどうもそっちより買い慣れたこっちに、なんて言って、「馴染み」客になっちゃって、みたいな例は
たくさんもある。
そう思うと、やはり「オマケ」は取っ掛かりでしかないのか。
いやいや、そうだとも言い切れない。
どうやら袋小路にはまったようだ。

では、「オマケ」や「付録」は物の+α。
それとは別に、無形の+αがある、という立場に立ってみようか。
無形のってことはつまり、公開する人や地域、情報を限定するとか、あなただけ!今だけ!っていううたい文句とか。いわゆる「プレミア」のこと。
なにもプレスされなくて、逆に限定性というマイナスがあるからこそ価値がつく、というのがコレ。
じつは、「オマケ」より「プレミア」の方が断然注目される。
物品を放出するように安くたくさん売るテレビ通販も人気だけれど、手に入れることの出来る人数を減らす整理券制のお買い物の方が、ときめきが大きい。
それは、手に入れることができた私は少数派であるという限定性に、大勢の中で「選ばれた」という選民感がついてくるからだ。
この選民感こそが、物の+αよりももっと高度な「プレミア」なのだ。
ターゲットが限定的であればあるほど売れる。注目される。
そんな「プレミア」市場。
でも、そんなこともう誰だって知ってるよね。
でも、でも、そしたらなぜ、シアホリはドカーン!!といかないんだろう。
すっげぇ、限定性あるのにね。
まだまだ絞り切れてないところに問題があるのかもしらん。
そんなわけで、次回の公演が楽しみだねぇ、という感じでお茶を濁す。。。

漏れ聞く

2006年05月29日 19時58分45秒 | Weblog
華やかなOLさんが二人、食堂で談笑してた。
隣に座ってご飯を食べていた私にはどうしたってその話が聞こえてしまう。
その二人はなにやらお互いの手帳を眺めあっているらしい。
その会話。
「この日付のところに書いてある丸、コレなあに?」
「最近、暇でさぁ。ついつい書き込んじゃった」
「なに、じゃあ、家でごろごろしてた日?ずいぶんたくさんあるね」
「いやぁ。」
「なに、違うの?じゃあ、彼氏と会った日?」
「うふふ」
「Hした日?」
「違う違う」
「なによ、ねえ」
「ハイベンの日」
「??????」
私も一瞬わかんなかった。え?何の日だって?
「う○ちの出た日(にっこり)」
うわぁ…
話を聞いていた私も、相手もさざなみのように引きました。
周りではかぐわしい東京OLたちがミートスパゲッティなどを食べています。
大型テレビからは「いいとも!」が平和に映っています。
差し込む日差しはやわらかく明るく、5月のさわやかなお昼時。
多分、その中で唯一私とその聞き手だけは憂鬱という名の沼にどぶんと浸かったことでしょう。
こんなときにそんな告白、聞きたくねぇ…

暇だからカレンダーに排便日を書き残す(しかも結構多いらしい)ハイソなOLさんたちと仕事してます!
楽しいです。
スイマセン、眠くて眠くて週初めから下ネタです!合掌!!

ドッグ・デイズ

2006年05月28日 18時11分15秒 | Weblog
大学の先輩で「映画監督になる!」と言って2年前に上京した人と遊びに出る。
明るくて誰にでも好かれるタイプの女の人で、大学にいる時から色々かまってもらった先輩のうちの1人だ。
遊びにといっても、何をしようかと思っていたら、「『ドッグ・デイズ』っていう映画を観に行かん?」とお誘いがあった。
私はその日から公開の嫌われ松子の一生とか、間宮兄弟とか、かもめ食堂とか、ダ・ヴィンチ・コードとかを観たかったんだけど、
先輩の言う『ドッグ・デイズ』のHPを見たら、俄然興味がわいた。
なので快く、その最低映画を観に行くことに。

渋谷のシアターイメージフォーラムというところは高知でいうとメフィストの3階くらいの小さな映画館で、収容人数も100人が限度だろう。
それでも、ここは映画館であり、東京の文化の一端はここからでも確実に発信されている、という自負を持っている映画館だったように思う。
30作品以上の最新映画チラシが随時置いてあるそのフロアーを見るだけでも、そういう気持ちになった。

さて、『ドッグ・デイズ』だが、非常に内容を説明することが難しい。
映画を観たその内容を説明することは、観た当人の主観が多かれ少なかれ含まれることは必至なのは当たり前なのだが、
この『ドッグ・デイズ』はそれが他の映画よりも際立っている気がする。
つまり、この映画を観て、内容を説明しようとすると、どうしても極端に主観の混じった説明しかできずに終わってしまう、そういう類の映画なのだ。
内容説明がそっくりそのままその人のその映画における解釈に置き換わり、しかもそれは説明すればするほど客観性のあるものではなくなる。
そういう、観る人を試しているような映画であった。
だから、私がチラシから受けたこの映画の印象と実際観たときの印象とはかなり大きく違っていたのもこのためだろうと思う。
私はチラシからは、実際に観たものよりもっとエグイものを見せられるんだという印象を受けていた。
思わず目を背けたくなるような、逆に目をむいて離せないような、そんな人間の残酷さを見せつけるような映画だと思っていた。
しかし、観終わったあとの私の第一印象は「あんまりエグくない」だった。
まあ、これにも個人差があるようで、一緒に観ていた先輩はわなわなしながら「えれぇもん観ちゃったよぉ」と言っていたので、相当エグいと感じたらしい。
確かに、残酷な映画だった。
これは本当。
人間の嫌な部分を登場人物それぞれの目線から描き出していた。
誰もいい人がいない。しかし、この人たちを総称すると善良な市民となる。
その矛盾がしっかり指摘されていた映画だったと思う。
でも。
なんだろうなぁ。
うん。
そんなの知ってるよ、っていう感じがした。
いや、かなり誤解を生む言葉だと思うし、じゃあお前がどれだけ人の残酷さを目の当たりにしてきたんだよって言われれば、それほどのもんじゃないと私は自分で思うが、
でも、
じゃあなぜ、この私でも知ってるよ、というレベルの残酷さを映画に収めて、何を私に思えって言うんだ???という疑問がわいた。
その残酷さを見せつけることによってこの映画が与えたいのは、訓示でも戒めでもないだろう。
人の中に巣食う残忍さへの恐怖心や不安感、疑問さえも感じられない。
ただただありのままを、ということなのだろうか。
それにしては、炎天下でごろんと横たわり、半裸で日光浴をする人々のカットの異常な多さと長さには、意図された不気味さを感じる。
ああ、こういうことなのか。
つまり、こうして平穏な時間を日光浴をして過ごす人々を道路に放置された死体のように例え、残酷さとそれに屈する非力さこそを人間本来の生きている姿であるといっているのか。
そういわれてみれば、プールサイドで寝転ぶ金髪美女の日光浴姿より、ぶよぶよでぱんぱんのお腹や背中を揺らしながら悪態をついているおっさんの方が、汚いけど生き生きしてはいたなぁ。
なんかヤな結論に至ってしまった。
はぁ。僕らはみんな汚いんだってさ。
でも、これも結局私の主観です。

まだ私が高知にいた時から、東京に遊びに行く際には先輩の家にはちょくちょく泊めてもらっていたのだが、私がこっちに来てからは一度も会っていなかった。
なので久しぶりの再会となったわけだが、
相変わらずお互いに人間のタイプが違うなぁと思いつつの談笑であったと思う。
途中から先輩の友達が合流し、その人も先輩も出身が高知なので、バリバリの高知弁が東京三鷹の居酒屋で渦巻いていた。
二人して驚くほど、地元に愛着を持っていることが話の合間合間から感じ取れた。
すごい。
全く私にはない感覚なので、ちょっとビックリした。
高知にいた時からちょくちょく思っていたことだが、
高知に限らず、自分の生まれ故郷から他方へ出てきた人は愛郷心が強いことが多い。
私には異常なほど、と感じられることがたまにあって、
地元のことをからかうと怒り出されることもしばしばであった。
解せぬ。
私には解せぬ。が、ゆえに興味深い。
今後、このお二方との付き合いも増えていくのだろうし、そこら辺の心理を色々聞き出してみたいものだと思って、その日はお開きになったのだった。

その先輩と待ち合わせの渋谷駅へ向かう電車の向かいの席に、
こないだワークショップでお世話になったあなザーわーくすの渡辺さんが座っていた。
これから幼稚園にワークショップをしに行くのだという渡辺さんは、とてもカラフルな服やバックを身につけていた。
「園児はね、鮮やかな色により反応するからね。淡い色なんで着ていったら舐められちゃうわよ」と言ってにっこり笑う渡辺さんは、やっぱり少し変わった人だと思った。

アホの鳥飼

2006年05月25日 22時46分14秒 | Weblog
「阿呆の鳥飼」とは内田百の有名な随筆ですが、
その中に高い金で買ったにもかかわらず、「ほけほけ」としか鳴かないウグイスが出てくる。
本来ならホーホケキョと美しく鳴いてこそのウグイスも、「ほけほけ」しか言わないから、
百先生は結局世話が億劫になって人に押し付けてしまった。
百先生のすごいところは、ものをすぐに愛せるし、すぐにいらないと思ってしまえるところだ。
小鳥が好き、と百先生は言う。
私は鳥を飼ったことがないし、特別ほしいと思ったことも、考えてみればかわいいと思ったこともあまりない。
小鳥との記憶と言えば、怪我をした鳩を連れ帰ってそのまま殺したくらいだと思う。
あとは、友達の家で飼われていた小鳥とか。ペットショップ、動物園でギャーツクギャーツク鳴いてるのとか。
はっきりってあまり好印象じゃない。
一度に三十数羽も飼っていたという百先生とは小鳥に関してはあまり趣味が合うとは言いがたい。
つつかれれば痛い。
なにおっとこっちが本気になれば、すぐにでも死んでしまうそうだし。
愛でる。
うん、この言葉が小鳥には一番ふさわしい気がする。
決して何かの役に立つわけじゃない。
鳴きつづければやかましいし、せわしないのもうっとおしい。
世話もこまめにする必要がある。
体は弱いし、撫でたりすることもしないほうがいいだろう。
鳥頭ってのは、ニワトリの記憶力のなさを例えた言い回しだが、
小鳥なんてそのニワトリもさらに頭が小さいではないか。
第一、鳥カゴに入っていては鳥本来の「飛ぶ」行為すら鑑賞できないではないか。
愛でる。
決して触れず、しかし環境は万全に整えてやり、
お互いの絶妙な位置関係を保ちながら、羽の色艶、歌声などを、愛でる。
憤慨せず、愛情のみを注ぐ。
これが小鳥の楽しみ方なのだ。
こんなのアホだ。
百先生も書いている通り、「小鳥を飼う者は阿呆にきまっている」のだ。
私には無理だと思う。
阿呆がいやだとか言ってるわけじゃなくて、そこまで小鳥には愛情を注げないと思うのだ。
カゴに入れるなら、徹底的に管理してやらなくてはいけない小鳥の面倒はきっと大変だ。
百先生も世話に飽きて次々に殺していっている。
「小鳥なんて飼うもんじゃない」と何度も思ってもいるようだ。
それでも小鳥。だから小鳥。
日本の三大武将がホトトギスを個性豊かに詠み上げた句は有名だ。
鳴らぬなら…
さて、あなたならどうつづけます?
私なら、ゲンコ一発ホトトギス。

思ってもなく、小鳥トーク。しかもなんだか悪口っぽい。
ああ!そうだ。ばあちゃんちの梅の木に半分に切ったみかん刺してあるのを食べに来る小鳥たちはかわいいと思いますよ!
ああ、とってつけたような慇懃さよ。

火柱がたった

2006年05月23日 19時25分49秒 | Weblog
今日は仕事が定時で終了。
いそいそと家路につき、夕食の支度をしました。
今日は肉なしデーです。
昼も食堂のサラダバーでオクラとレンコンを山盛りにし、モリモリ。
夜は、豆腐と小松菜とほうれん草と春雨のチャンプルーがメインです。
そのチャンプルーをつくろうとフライパンに油をひいて、しばし待つ。
そこに水気をしぼった豆腐を入れ……とけば良かった。

水気…

しぼらなかった。

滴ってた。
豆腐から。

それはもう。
「それはもぷ」って打っちゃうくらい、豆腐はみずみずしかった。

水と油ってすごいね。
すっげえ、仲悪いのは知ってたけどさ、うん、やっぱ仲悪いわ。

かなりやばいことになった。

こんな感じになった







ファイヤー!!!


正直、結構焦りました。

でも一瞬だったので、天井にススがついただけですみました。
雑巾で拭いたらきれいになりまして、ほっと一息。

混ぜて喰え!!

2006年05月20日 21時55分45秒 | Weblog
で、お馴染みのキュピーあえるパスタソースの人気キャラクター、たらこキュピーちゃんオールスターズのオルゴールを発見!
実は2週間前くらいに発見していたのだが、「給料日まで待て」という内から湧き出る御声に従い、今日念願のカムトゥホームとなった。
かわいい!!
かわいすぎる!!
まわる!!
集団!!
その名曲にあわせて円になってまわる!!!!
♪た~らこ~ た~らこ~ た~っぷり~た~らこ~
もう一目惚れもいいところで、我が家に是非にと来てもらった甲斐があった。
なんてかわゆいのかしら。
さっそく我が家で唯一の「ナナコ趣味まんさい祭りじゃあ~!わっしょいわっしょい室」であり、ごてごてにメイクアップされたトイレットルームに置くことにしよう。
やったね!たらこゲットだぜ(←古い)

髪を切った。
もう、それはばっさりと切った。
美容師さんに「いつもはそろえるくらいの人が多いんですけど、このくらいばっさり切ると切る方としても気持ちいいです」と言われるくらい切った。
バスト丈まであった髪をあごくらいに切った。
軽い。身体が軽いわ、うふふと走り回りたくなった。実際走った。
イメージは「青木さやかが似合いそうな髪形で!」と注文した。
はい、ここで説明を。
もちろん本来なら各有名モデル、各美人女優などの髪型を真似してみたり、
雑誌や日常出くわすきれいな女の子の髪型に憧れたり、
暇だから、気分転換に、伸びたから、という理由にしたって
やっぱり青木さやかという女芸人の髪型にしてみたい!!と思われる方は少なかろうと思う。
青木さやかという人は、逸脱して髪型に特徴があるわけでも、顔つきが整っているわけでもないからだ。
言っちゃえば、彼女はあえて彼女の髪型にこだわり、「ああなりたい!!」と思われる要素がないわけだ。
ではなぜ私は、そのあえての青木さやかなのか。
言っておくが、私は青木さやかとは同郷だが顔は似てない。これは自他共に認めることと思う。
でも、ここで告白する。
私自身、彼女のまとっている雰囲気というか、顔つきのニュアンスというか、オーラというか、とにかくそういうところに自分との共通項を感じるのだ。
性格が似てるわけでも、趣味が似てるわけでもないのだが、どこかしら空気が似ている。
そんな青木さやかに日本のトップレベルのヘアスタイリストがついて、技術の粋を集めて、テレビによいしょと出しているわけで、青木さやかに似合っている髪型はもうベストオブ青木さやかな髪型であるわけだ。つまり。
なので青木さやかが似合う髪形はイコール青木さやかの空気感をもつ名も知られていない私、にも似合うはずなのである。
これまでいっくらかわいいモデルと同じ髪型にしてもかわいくなった気がしなかったのは、その髪型はそのモデルにあった髪型であって、私に似合うとは限らなかったからだと思う。
だから今回、あえて私は甘んじた。
青木さやかレベルにまで身を落とすことに。
苦渋の決断だった。美容師さんに注文つけるときに軽く唇が震えた。
結果は……
だいまんぞーく!!(泣)
すっげえいいじゃん!!(泣)
にあうじゃん!かわいいじゃん!(泣)
そんな感じの美容院での4時間でした。

カット終わりにサービスで肩や首やらを揉んでくれた。
生まれて初めてかもしれない。
「こってますねぇ」と言われた。
社会人1年目!
無自覚ながらも、着実に肩のこるような大人な階段を登っていっていた。
肩こってる自分に「おいおい、見栄張ってんじゃないわよ」と思った。

食いつなぐ

2006年05月17日 21時00分33秒 | Weblog
父から讃岐うどんが送られてきた。
ネットで香川の業者に注文、調布の我が家へ届いたものだ。
中身がたっぷり詰まったうどんのパックが郵便受けにねじ込まれていたのを見て、仕事の疲れが吹き飛んだ。
このうどんを楽しみに帰ってくるようになるのだろう。
3日は食いつなげる。

さて、ワタクシは相変わらず肉少なめ野菜多めの生活をし続けているわけだが、
シアホリに変化があるようだ。
伝え漏れ聞くところによると、新人の子も加わり、次回公演に向けてがーっと押し進んでいるらしい。
いいなあ。
ヒトが芝居をする予定があって忙しくしているのを見るとうらやましくなる。
前に知り合った男の役者さんで2本の芝居を掛け持ちしてると言うので、うらやましがったら、嫌な顔をされたことがある。
やってる方はしんどいんだろうけど、ホントに嫌がっているわけじゃないんだろう。
芝居はやっぱりやり続けたもん勝ちだ。いっくら最低最悪の批評を浴びても。
停滞期の自分には、やはりうらやましい。
シアホリの皆さん、次回作の情報、稽古速報、密通でいいので教えてね。
だって公開内容はどうせいいことしか載っけないんでしょ。

ショッピング

2006年05月16日 20時59分59秒 | Weblog
前から噂には聞いていた。
古着なら高円寺。
高円寺は安いよ。
この古着好き、柄シャツ好きの私が見逃しておくものか、高円寺。
ついに行った。
小売りの服屋ストリートが出来ている街だった。
あと、安い。
私は常々、古着に3,900円以上かけてられるかよ、という類の人間なので、
しかも自宅の近所の古着屋は皆、古着の癖にバカ高く、
ああ、東京には空がないわなんて思っていたのだが、
あったよ。
高円寺ですよ。
もうね、今後一切、古着はあそこで買う(決定)
そこで買ったかわいいかわいい水玉のスカートを履いて今日は出勤。
素敵!

ワークショップ(2)

2006年05月15日 01時02分39秒 | Weblog
さて、今日も引き続きあなざーわーくすのワークショップです。
やったことは、昨日のおさらいとさらなる鍛練。
昨日いくつかのグループに分かれて、創作したものを小道具やさらなるお題に沿うようにして創り上げていく。
やばい、徐々にはまってきた。
これはもうやればやるほど際限ない。
あきらかに2日目の方が楽しい。
グループメンバーとも意思疎通ができてくるし、
昨日では出なかったアイディアがさらに飛び出す。
いくらでも創り込める。
いやぁ、やたらとマジになってくる。そこの入れ込み方でやっぱり決まる。

今日のワークショップの参加者の1人、金子さんという方に
「次回、うちの芝居出ませんか」とお声がけしていただく。
やったー。わーいわーい。
でも、その前にオーディションがあってその結果次第です、と答えなくてはいけなかった。
しかし、どちらにしろ、8月には何らかの芝居に出ることが決まりました!
やったー。
幸せな気持ちで、バーミヤンで酒盛りに加わってました。
エビチリ上手し!

ワークショップ(1)

2006年05月14日 03時03分32秒 | Weblog
ワークショップに参加してきました。
今回は2日連続での参加です。今日は初日。明日もあります。
あなざーわーくすという劇団です。
この劇団は公演手法が普通の演劇形態と違っていまして、
じゃあ、何が普通の演劇だって聞かれたらよう答えないのですが、
簡単に言えば、客席と舞台が分かれていないんですね。
あと、観客と役者もほぼ区別がつきません。
一体なんのこっちゃって感じなんですが、ここで舞台の説明。
まず、花見の席とりに使うようなブルーシートを用意します。
その上に縦横とも1.5mの正方形をバミテで貼ってつくります。
はい、これで舞台と客席が完成しました。
役者は基本的にこの正方形の中で演技をします。
観客はこの正方形を取り囲むように座ります。
んで、舞台上の役者がなにかと観客に舞台上への参加を働きかけるわけです。
「手を揺らして波を作ってください」というような指示が飛ぶ場合あり、
観客を鏡に見立てて化粧したり、カミソリに見立ててスネ毛を剃ったり、少しのおさわりならOKです。
時には観客にセリフを与えたりするようです。
はい、これがこの劇団のスタイルです。
はっきり言って、何にも知らない最初は面食らいます。
自分がそこにいるのがひどく場違いな気がします。
萎縮します。ビビリます。そんなに簡単に馴染んでたまるかよと思います。
でも、踊る阿呆に見る阿呆。馴染んでしまったほうが楽だと気付くと違ってきます。
お客、普段は30人が限界と言うことなんですが、
例えばそのお客さんが指示に従って一斉に人差し指を一箇所に集める。それが30人分、くっ付いたまま移動する。そして何かの拍子に一斉に散らばる。そして再度集結する。
小さいことを他の観客や役者とちまちまやっている。そしてそれが完成される。
そんなことをしていると、なんだが、すごく、不本意ながら、小さな感動を生むんですよ!
これはね、ちょっとずるかったりする気もするんですが、
そう、ちょっとした連帯感が確実に生まれて、
それによって満足する心理が作用するんだと思うんですが、
おもしろいやり方だなと思いました。
面白いが、ハンデというか限定性も多い。
それは演劇か?と言われればうーん、基本的にはそうだけど、そうじゃないとも言える、としか言えませんし、
そこにストーリー性は入ってくるのかと言われれば、基本的にはあるけど、でもお客さんが皆知っているだろう話(浦島太郎や忠臣蔵とか)をベースにしなければ、観客参加型のこのスタイルでは表しずらいので、まったくのオリジナルはできない、と言える。
お客さんに手荒な真似はできないし、危険な行為、不快にさせることも基本はNG。
お客さんがノってくれなくては成り立たないし、逆にノりすぎててもなあなあになる危険性がある。
そしてなにより、お客さんを30人以上集めたら公演に支障が出る、という演劇としてあるまじき最大のハンデも背負っています。
考えれば考えるほどすげぇよね、このスタイル。この限定性。
しかし、それ以外は(って十分限定されてる気もするけど)何をやっても自由です。
役が変わる。ストーリーが飛ぶ。お客に触る。話しかける。自分が客になって見る。
全くのアイディア勝負。いいものが浮かばないとそこで死ぬ演劇なのです。
あとは、そのアイディアの推敲とより見せれるものにしていく作業が稽古なわけです。
いや、まったく、頭では考えられても、実際にこんなことやってしまうんだからすごい。

今日のワークショップでは、私の高知生活を引きずったような出会いがいっぱいあった。
私が唯一観たポかリン記憶舎の「短い声で」に出ていた役者さんが来ていた。
およそ1年ぶりであの芝居の感想を演じていた役者さん本人に伝えることができた。
私の出身大学の学部長に違う土地の大学で以前教わっていたという役者さんに会った。
私は学部長とは全く知り合いではないが、妙な縁である。

全くもって皆さんが礼儀正しい人たちばかりで、
演劇のこと、メソッドのこと、西口プロレスのことなど話しながらお酒を飲んだ。
千葉からとか、成田からとか、皆遠くから来ていた。
終電時間を常に気にしなければいけないところが少し億劫な東京だ。