池ちゃんのミクシィブログを読んで、流行の発信と受信について少し思う。
んで、気になる雑誌について思う。
雑誌に「オマケ」がつき始めたのはいつの頃からだろう。
私の記憶では、私たちの小学校時代(90年代)には少女向けの漫画雑誌では各社とも「付録」合戦が相当レベルで加熱していたと思う。
雑誌を買えば必ずもらえる手帳やシールやバッグやマニキュアは現在でも「付録」の代名詞だろう。
私たち小学生は「付録」の良し悪しで雑誌を品定めし、
次号の「付録」いかんで購買意欲が萎えることもあったと記憶している。
買っていた雑誌が漫画雑誌だったため、その「付録」は漫画のキャラクターが描かれているのが当然だったが、
今思えば、好きな漫画のキャラクターがついているバックだったから欲しかったのかといえば、甚だ疑問だ。
バッグについているキャラクターよりも、「その雑誌を買った者のみが持てる証」という付加価値の方に収集欲が傾いたといった方が正しい気がする。
当時、私の小学校では少女漫画雑誌の「りぼん」派と「なかよし」派、少数派としての「ちゃお」他にグループが分かれていた。
「りぼん」派が王道中の王道。しかし、当時人気絶頂にあった「セーラームーン」が連載されていた「なかよし」派にもそれ相応の地位があった。
別にそこまでパッキリとした境界があるわけではなかったが(実際どっちも買っている子もいた)、読んでいる雑誌での女の子同士の区分けがなんとなくあったことは事実だ。
そして誰がどの派閥なのかを知るには、どの雑誌の「付録」を持っているか、が最重要事項なのであった。
当然、漫画雑誌など学校に持ってこれるはずはなく、
それ故に「付録」の付加価値は自己表現(自分が何派に属しているか)の一端すら担い、
グループの中で暮らしていた小学生は自分の地位を再確認するためにも、
また、対外的に自分の位置を指し示すためにも、
その漫画雑誌、そしてその「付録」を買うことに躍起になっていくのだった。
言うまでもないことだが、それ以前にも、かなり早い段階から読み物+αという文化は根付いていた。
読み物でないにしても、食玩のオモチャに「オマケ」システムを代表するような、+αの文化は大々的に広がっていた。
しかもそれらは概ね、先に述べたような「付録」そのものが本体の価値を超えてしまう可能性も十二分に秘めている。というより、それはすでに証明されてしまったと言ってしまえる。
そうするといまや、雑誌はその内容よりもむしろ、どんな「付録」や「付加価値」がついてくるか、ということで決まるのかもしれない。
いや、そりゃ中身は大事だし、中身がなければ、それは当然駄目なんだろうが。
でも、「読者全員にプラチナネックレスプレゼント!」という雑誌をその月だけ買う人も絶対いるでしょう。
R25にしても、ビックイシューにしても、緻密なマーケティングと読み手を満足させる情報量がなければこんなに人気は出ないよ。
でも、これが0円じゃなかったら、ホームレスが売ってなかったら、そしてさらに日本全国で手に入るものなら、そこまで、ここまで注目されたかしら。
そう思ってしまうんですよ。
それはもちろん、偶然じゃない。その「付加価値」の価値を十分わかった上で、計算づくで、これらの雑誌は世に出されたことはわかる。
そして私はなにも、雑誌は中身やろ!「付録」なんかじゃなくて中身だけで勝負せんかい!と思っているわけでもない。
ただ、いつから、「オマケ」=加えられるものが、本体の価値を乗っ取りはじめたんだろうとは思う。
いや、実はさ、「オマケ」とか「付録」とかって、辞書的な意味は本体があった上でのちょっとした+αって感じだけどさ、「オマケ」って実用的な意味になった時点で、もう最初っから本体の上に来てるもんなのかもしれないよね。
同じ品物、同じ様な愛想のオヤジ、そしたら「オマケ」してくれる店の方に行くもんね。
でも、それとは別に「馴染み」なんて言葉もあったりしてさ。
あそこはオヤジの代からの「馴染み」だからってんで、同じ店でもそっちの方行ったりさ。
んで、この二つが全く逆の意味ってわけでもないんだよね。
最初は「オマケ」に惹かれて買ってみたら、ついつい買い続けちゃって、それを買い続けることに価値を見出しちゃって、新しい物が出たけどどうもそっちより買い慣れたこっちに、なんて言って、「馴染み」客になっちゃって、みたいな例は
たくさんもある。
そう思うと、やはり「オマケ」は取っ掛かりでしかないのか。
いやいや、そうだとも言い切れない。
どうやら袋小路にはまったようだ。
では、「オマケ」や「付録」は物の+α。
それとは別に、無形の+αがある、という立場に立ってみようか。
無形のってことはつまり、公開する人や地域、情報を限定するとか、あなただけ!今だけ!っていううたい文句とか。いわゆる「プレミア」のこと。
なにもプレスされなくて、逆に限定性というマイナスがあるからこそ価値がつく、というのがコレ。
じつは、「オマケ」より「プレミア」の方が断然注目される。
物品を放出するように安くたくさん売るテレビ通販も人気だけれど、手に入れることの出来る人数を減らす整理券制のお買い物の方が、ときめきが大きい。
それは、手に入れることができた私は少数派であるという限定性に、大勢の中で「選ばれた」という選民感がついてくるからだ。
この選民感こそが、物の+αよりももっと高度な「プレミア」なのだ。
ターゲットが限定的であればあるほど売れる。注目される。
そんな「プレミア」市場。
でも、そんなこともう誰だって知ってるよね。
でも、でも、そしたらなぜ、シアホリはドカーン!!といかないんだろう。
すっげぇ、限定性あるのにね。
まだまだ絞り切れてないところに問題があるのかもしらん。
そんなわけで、次回の公演が楽しみだねぇ、という感じでお茶を濁す。。。
んで、気になる雑誌について思う。
雑誌に「オマケ」がつき始めたのはいつの頃からだろう。
私の記憶では、私たちの小学校時代(90年代)には少女向けの漫画雑誌では各社とも「付録」合戦が相当レベルで加熱していたと思う。
雑誌を買えば必ずもらえる手帳やシールやバッグやマニキュアは現在でも「付録」の代名詞だろう。
私たち小学生は「付録」の良し悪しで雑誌を品定めし、
次号の「付録」いかんで購買意欲が萎えることもあったと記憶している。
買っていた雑誌が漫画雑誌だったため、その「付録」は漫画のキャラクターが描かれているのが当然だったが、
今思えば、好きな漫画のキャラクターがついているバックだったから欲しかったのかといえば、甚だ疑問だ。
バッグについているキャラクターよりも、「その雑誌を買った者のみが持てる証」という付加価値の方に収集欲が傾いたといった方が正しい気がする。
当時、私の小学校では少女漫画雑誌の「りぼん」派と「なかよし」派、少数派としての「ちゃお」他にグループが分かれていた。
「りぼん」派が王道中の王道。しかし、当時人気絶頂にあった「セーラームーン」が連載されていた「なかよし」派にもそれ相応の地位があった。
別にそこまでパッキリとした境界があるわけではなかったが(実際どっちも買っている子もいた)、読んでいる雑誌での女の子同士の区分けがなんとなくあったことは事実だ。
そして誰がどの派閥なのかを知るには、どの雑誌の「付録」を持っているか、が最重要事項なのであった。
当然、漫画雑誌など学校に持ってこれるはずはなく、
それ故に「付録」の付加価値は自己表現(自分が何派に属しているか)の一端すら担い、
グループの中で暮らしていた小学生は自分の地位を再確認するためにも、
また、対外的に自分の位置を指し示すためにも、
その漫画雑誌、そしてその「付録」を買うことに躍起になっていくのだった。
言うまでもないことだが、それ以前にも、かなり早い段階から読み物+αという文化は根付いていた。
読み物でないにしても、食玩のオモチャに「オマケ」システムを代表するような、+αの文化は大々的に広がっていた。
しかもそれらは概ね、先に述べたような「付録」そのものが本体の価値を超えてしまう可能性も十二分に秘めている。というより、それはすでに証明されてしまったと言ってしまえる。
そうするといまや、雑誌はその内容よりもむしろ、どんな「付録」や「付加価値」がついてくるか、ということで決まるのかもしれない。
いや、そりゃ中身は大事だし、中身がなければ、それは当然駄目なんだろうが。
でも、「読者全員にプラチナネックレスプレゼント!」という雑誌をその月だけ買う人も絶対いるでしょう。
R25にしても、ビックイシューにしても、緻密なマーケティングと読み手を満足させる情報量がなければこんなに人気は出ないよ。
でも、これが0円じゃなかったら、ホームレスが売ってなかったら、そしてさらに日本全国で手に入るものなら、そこまで、ここまで注目されたかしら。
そう思ってしまうんですよ。
それはもちろん、偶然じゃない。その「付加価値」の価値を十分わかった上で、計算づくで、これらの雑誌は世に出されたことはわかる。
そして私はなにも、雑誌は中身やろ!「付録」なんかじゃなくて中身だけで勝負せんかい!と思っているわけでもない。
ただ、いつから、「オマケ」=加えられるものが、本体の価値を乗っ取りはじめたんだろうとは思う。
いや、実はさ、「オマケ」とか「付録」とかって、辞書的な意味は本体があった上でのちょっとした+αって感じだけどさ、「オマケ」って実用的な意味になった時点で、もう最初っから本体の上に来てるもんなのかもしれないよね。
同じ品物、同じ様な愛想のオヤジ、そしたら「オマケ」してくれる店の方に行くもんね。
でも、それとは別に「馴染み」なんて言葉もあったりしてさ。
あそこはオヤジの代からの「馴染み」だからってんで、同じ店でもそっちの方行ったりさ。
んで、この二つが全く逆の意味ってわけでもないんだよね。
最初は「オマケ」に惹かれて買ってみたら、ついつい買い続けちゃって、それを買い続けることに価値を見出しちゃって、新しい物が出たけどどうもそっちより買い慣れたこっちに、なんて言って、「馴染み」客になっちゃって、みたいな例は
たくさんもある。
そう思うと、やはり「オマケ」は取っ掛かりでしかないのか。
いやいや、そうだとも言い切れない。
どうやら袋小路にはまったようだ。
では、「オマケ」や「付録」は物の+α。
それとは別に、無形の+αがある、という立場に立ってみようか。
無形のってことはつまり、公開する人や地域、情報を限定するとか、あなただけ!今だけ!っていううたい文句とか。いわゆる「プレミア」のこと。
なにもプレスされなくて、逆に限定性というマイナスがあるからこそ価値がつく、というのがコレ。
じつは、「オマケ」より「プレミア」の方が断然注目される。
物品を放出するように安くたくさん売るテレビ通販も人気だけれど、手に入れることの出来る人数を減らす整理券制のお買い物の方が、ときめきが大きい。
それは、手に入れることができた私は少数派であるという限定性に、大勢の中で「選ばれた」という選民感がついてくるからだ。
この選民感こそが、物の+αよりももっと高度な「プレミア」なのだ。
ターゲットが限定的であればあるほど売れる。注目される。
そんな「プレミア」市場。
でも、そんなこともう誰だって知ってるよね。
でも、でも、そしたらなぜ、シアホリはドカーン!!といかないんだろう。
すっげぇ、限定性あるのにね。
まだまだ絞り切れてないところに問題があるのかもしらん。
そんなわけで、次回の公演が楽しみだねぇ、という感じでお茶を濁す。。。