世の中の二乗>75の二乗

話せば長くなる話をする。知っても特にならない話をする。

何かを期待する目でバカボンが見ている

2012年08月06日 22時22分41秒 | Weblog
別役実作「天才バカボンのパパなのだ」が舞台にのっているのを見てきた。
私はこの戯曲をたいへんおもしろいと思っていて、
以前にもここで書いたことがあるから、
それをどうやって舞台にのっけるのか楽しみにしていった。
そしたら、すごくがっかりした。
原因は前のブログに書いた「あの漫画のキャラクターの格好してやったっておもしろくないだろうね」という私の言葉を見事に裏切り、
「あの漫画のキャラクターの格好してやってしまった」とこにあると思う。
そりゃダメだろう、と思う。
現に私はあのうずまきの柄の着物を着て、頬にも赤くうずまきを書いてバカボンが登場した瞬間につい「わあ」と言ってしまった。
そしてその瞬間からもう帰りたくなった。
なんで、私があの漫画のキャラクターの格好をしてこの芝居をすることをこんなにダメと思うかは、
あの漫画のキャラクターの格好をしてしまった途端にこの芝居がひとつの作品ではなくて、あの漫画のパロディになってしまうからだ。
この戯曲は決してあの漫画のパロディとして書かれたわけではない。
あの漫画の奇っ怪な物語構造を拝借しているだけだ。
この戯曲はあの漫画の亜流でなくて、ひとつの演劇的な実験の方法をあの漫画の中から取り出したに過ぎない。
なのにあの漫画の格好でやってしまったら、どこまでいってもコスプレ演劇から抜け出ない。
それにバカボンのパパのコスプレは赤塚不二夫本人のコスプレが頂点だとみんなが知ってしまっているのでどんなパパが出てきてもお客は誰も納得しない。
構造的にも、ビジュアル的にも間違った選択だったと思う。
あと、最後の「これでいいのだ」の歌とダンスはいらないんじゃないかな。
見ているときはここまであの漫画におもねらなくてもいいのにと思ったが、
家帰って戯曲を読んでみてびっくりした。
すっかり忘れていたのだが、なんと、戯曲にそう書いてあったのだ。
戯曲には、「間もなく、遠くから、天才バカボンのパパの歌《これでいいのだ》が聞こえはじめ、人々、ゆっくり立上がって、じっと座ったままの署長のまわりを、優雅に踊りまわる。」とはっきり書いてある。
だから、私は一瞬、別役実ってつまんないこと考えるなと思った。
だけど、考えたらそうじゃなかった。
たぶん、本当はここで初めてお客は「バカボン」らしさを味わうんだ。
きっと、お客さんはここまで全く「バカボン」らしさを感じないのがおもしろいんだと思う。
「天才バカボンのパパなのだ」というどう考えてもあの漫画のキャラクターが出てくるだろうと予想できる芝居を見に来たお客さんは、
まったくあの漫画のキャラクターに似た(格好を含め)登場人物を見いだせないのがおもしろいんじゃないか。
それなのに物語の構造とキャラクター名(ただし「バカボン」しか名前で呼ばれない)はあの漫画から来ているからすごく混乱するんじゃないかな。
未知のものを見てるはずなのにどこか知ってる、というような。
それで、最後の最後の歌でああ、やっぱりあの漫画の世界なんだなと納得できるんじゃないかな。
それでも最後まで全然この世界に馴染めない署長と同じように置いてきぼり感は残るし、やはりそこがおもしろいんだろうけど。
いきなりあの漫画の格好そのままで出てきたらそら興ざめも甚だしい。
だったら漫画読むよと思う。

じゃあ、あの漫画の格好をして、舞台の役者たちはキャラクターになりきってやっていたのかというと、
それもそうではない。
「バカボン」の世界ではどの人も決しておちゃらけようとしておちゃらけているわけではないからだ。
みんな真剣に日々を生きている。
なのに価値観がすごく歪んでいる。
だから署長のお尻を叩くバカボンは決して笑ってはいけない。
まして叩いたからといって喜んではいけない。
なぜなら彼は楽しくて所長のお尻を叩くのではないからだ。
彼は彼の名誉のために見ず知らずの署長のお尻を叩かなくてはいけないのであり、
それをなし得ることは父親への自己顕示に値するからだ。
いくら不条理劇だからといって、
いくら「バカボン」の世界だからといって、
なんでもかんでもめちゃくちゃにおもしろさだけを狙ってやってはいけないと思う。
というか、そういうのをおもしろいとは思わない。
のっぴきならない真剣さだけが狂気とおもしろさのギリギリの「バカボン」世界を体現できると思う。

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