朝、紅葉狩りに行こうと思い立つ。
最近、散歩の途中で見かける木が黄色や赤の葉っぱをわさわささせてて気になって仕方なかった。
色づいた葉は陽光に透けて、黄色や赤のセロファンみたいに見える。
それが小さな手のひらやしずくの形に切り取られて、無数に重なり、光を複雑に透かし、さえぎる。
それを見上げると、まわりの乾燥した空気や、夏とはちがう薄い光や、足下で踏みしめる落ち葉の感触などが相まって、たまらなくなっていた。
晴れていたし、仕事は休みだった。
焼きそばを作り、タッパーに詰めた。
家を出て電車に乗り、昼には高尾山に着いた。
電車から見える小高い丘がきれいに紅葉してて、当てずっぽうながらいいタイミングで来たと判断する。
駅を出て正面の山はもこもことオレンジ色。
ラブホテルのような建物があって、さすが景勝地、と思ったら「トリックアート美術館」と書いてある。
いずれにせよ秘宝館の流れだ、さすが景勝地、と思った。
ケーブルカー乗り場へ行く道に大きなモミジの木があり、逆光を浴びた葉が赤々と透けている。
思わず立ち止まり、これはぜひ写真におさめたいと思うのだけど、いざ撮ってみると光の強い方に合わさってしまうらしく、肝心の葉の透け具合がうまくおさまらない。目で見る方がきれいだあきらめる。
土産物屋が軒を連ねる中を少し行くとケーブルカー乗り場。
その前の広場にも赤や黄色の木々。
滝行のための滝から川ができていて、その淵に散ったモミジがたまっている。
カメラを近づけるけれど、全然見たままにおさまらない。
カメラの性能の問題というより、目の性能、ひいては視神経から送られてくる情報を処理する脳の性能が抜群にいいせいだと思う。
脳は目に限らず体感している全ての感覚器官とそれまでの記憶とを総合させて知覚しているはずだから、人間がカメラより感動的にものを見ているのは当たり前のことだ。あきらめる。
急斜面を上がるために床が斜めに作られているケーブルカーに乗る。
山を登っていくとやはり葉の色がきれいだ。
内側はまだ緑で、外側になるにつれ黄色、オレンジ、赤、深紅にグラデージョンになっているモミジ。それがやはり日に透けてきらきらしている。
がこんとついて、外に出る。寒い。
東京の西の端の山々は天狗の住む山である。
天狗ホットドック、天狗そば、天狗だんご、天狗ラーメン。
開けたところからは街が見える。近い。
歩いていくと杉の大木がどーんどーんとはえている。太くまっすぐに突き上げる。
その肌は緑の苔が抹茶粉をまぶしたようにむしむしとついている。
薬王院へ。
三蔵法師が持っているような先端に輪っかのついた青銅の大きな杖があって、参拝者はその先の輪っかを棒でつついて音を鳴らし、お祈りする。
が、高いところにある輪っかを棒でつつく様は、紐でぶらさがったバナナを棒で取ろうとする猿の姿に見える。
このあたりで生まれた作詞家の人の歌碑があって、その横で持ってきた弁当を食べる。
この歌碑は人が近づくと歌が流れるようになっていて、焼きそばを食べている間、その「若いお巡りさん」という歌をずっと聞いていた。
歌碑のそばにはお寺さんによくある金言みたいなのが書いてはってあった。
「高貴な人間は自分自身に 平俗な人間は他人に要求を課す 高尾山」
おばちゃん二人がやってきて、「ほら見て、笑っちゃうわ」と言って去っていった。
どうせなので高尾山頂をめざす。
どっちがどっちに寄生しているのかもはやわからないほど融合した2本の木を通り過ぎる。
石段を登り、なにか社に出くわす度に「ここまで上がらせてもらい、ありがとうございました。」と手を合わせるおばちゃんたち。
そこここにある石車をいちいちまわす女の人と、それを辛抱強く待つ男の人。
おばあちゃんとお母さんに連れられた女の子が「おーかーしーがーいいー!おーかーしーがーいいー!!」と絶叫しながら降りてきた。
すれ違い、あとから降りてきた女の子3人が「私も小さいときはチョコボール食べながらだったな」と話しているのにもすれ違う。
韓国語のおばちゃんたちとすれ違い、
同じ派手なタイツをはいた完全装備の山カップルともすれ違う。
にしてもこの山にスキーのスティックは本当に必要か。
皆たのしそうだ。
山頂。599メートル。
街を見下ろすのとは反対の方向に山々が見える。重なっている。
薄い青。遠くにいくにしたがってその色が白く霞んでいく。
近くのおじさんが奥さんに「今は見えないけど、あの辺に富士山が見えるんだよな、今は見えないけど」と言っていたが、
実は富士山は見えるのだった。
重なる青い山々の一番奥、空にとけるぎりぎりのところ、うっすらとわずかに輪郭だけが空より濃かった。
見つけると、吸い寄せられるように見てしまう。
他にも山はたくさん見えるのに、富士山だけ見てしまう。
名前を知っている数少ない山だからか、ぴょこんと一つだけ突き出た山だからか、なにかもっと他の理由からなのかはわからない。
下山する。
今度はルートを変えて、少し山道らしい道を行く。
途中、後ろ向きに登るおじいちゃんとすれ違う。
「初詣のときに入るのは」とシフトの話をしている警備服たちとすれ違う。
少し行くとまわりに誰も人がいなくなった。
山道を一人で歩いている。
なにも音がしない。
自分の足音もしない。
こわいようなうれしいような気分になる。
白茶けた大きな葉がたくさん落ちているのを見て少しこわさが増す。
木の根が自由自在に飛び出してうねっている。
ふしふしふしふし。
音のない足音をさせながら山を降りていく。
吊り橋があり、3人のおばちゃんたちが2人の若い男の人たちに写真を頼んでいた。
吊り橋効果、とすぐに思った。が、思っただけだし別になにも起きない。
渡ってまた山道を行く。
歩いているときに、小さい死のことを考えた。
山に登るのは小さい死なのじゃないかと思った。
だから好きな人は何度も山に登るのじゃないかと思った。
一人で山道を歩いているときに小さく死んででもすぐ生き返るのは知っていた。
下りのケーブルカーに乗ったら耳がきーんとなって、あくびをするまで続いていた。
最近、散歩の途中で見かける木が黄色や赤の葉っぱをわさわささせてて気になって仕方なかった。
色づいた葉は陽光に透けて、黄色や赤のセロファンみたいに見える。
それが小さな手のひらやしずくの形に切り取られて、無数に重なり、光を複雑に透かし、さえぎる。
それを見上げると、まわりの乾燥した空気や、夏とはちがう薄い光や、足下で踏みしめる落ち葉の感触などが相まって、たまらなくなっていた。
晴れていたし、仕事は休みだった。
焼きそばを作り、タッパーに詰めた。
家を出て電車に乗り、昼には高尾山に着いた。
電車から見える小高い丘がきれいに紅葉してて、当てずっぽうながらいいタイミングで来たと判断する。
駅を出て正面の山はもこもことオレンジ色。
ラブホテルのような建物があって、さすが景勝地、と思ったら「トリックアート美術館」と書いてある。
いずれにせよ秘宝館の流れだ、さすが景勝地、と思った。
ケーブルカー乗り場へ行く道に大きなモミジの木があり、逆光を浴びた葉が赤々と透けている。
思わず立ち止まり、これはぜひ写真におさめたいと思うのだけど、いざ撮ってみると光の強い方に合わさってしまうらしく、肝心の葉の透け具合がうまくおさまらない。目で見る方がきれいだあきらめる。
土産物屋が軒を連ねる中を少し行くとケーブルカー乗り場。
その前の広場にも赤や黄色の木々。
滝行のための滝から川ができていて、その淵に散ったモミジがたまっている。
カメラを近づけるけれど、全然見たままにおさまらない。
カメラの性能の問題というより、目の性能、ひいては視神経から送られてくる情報を処理する脳の性能が抜群にいいせいだと思う。
脳は目に限らず体感している全ての感覚器官とそれまでの記憶とを総合させて知覚しているはずだから、人間がカメラより感動的にものを見ているのは当たり前のことだ。あきらめる。
急斜面を上がるために床が斜めに作られているケーブルカーに乗る。
山を登っていくとやはり葉の色がきれいだ。
内側はまだ緑で、外側になるにつれ黄色、オレンジ、赤、深紅にグラデージョンになっているモミジ。それがやはり日に透けてきらきらしている。
がこんとついて、外に出る。寒い。
東京の西の端の山々は天狗の住む山である。
天狗ホットドック、天狗そば、天狗だんご、天狗ラーメン。
開けたところからは街が見える。近い。
歩いていくと杉の大木がどーんどーんとはえている。太くまっすぐに突き上げる。
その肌は緑の苔が抹茶粉をまぶしたようにむしむしとついている。
薬王院へ。
三蔵法師が持っているような先端に輪っかのついた青銅の大きな杖があって、参拝者はその先の輪っかを棒でつついて音を鳴らし、お祈りする。
が、高いところにある輪っかを棒でつつく様は、紐でぶらさがったバナナを棒で取ろうとする猿の姿に見える。
このあたりで生まれた作詞家の人の歌碑があって、その横で持ってきた弁当を食べる。
この歌碑は人が近づくと歌が流れるようになっていて、焼きそばを食べている間、その「若いお巡りさん」という歌をずっと聞いていた。
歌碑のそばにはお寺さんによくある金言みたいなのが書いてはってあった。
「高貴な人間は自分自身に 平俗な人間は他人に要求を課す 高尾山」
おばちゃん二人がやってきて、「ほら見て、笑っちゃうわ」と言って去っていった。
どうせなので高尾山頂をめざす。
どっちがどっちに寄生しているのかもはやわからないほど融合した2本の木を通り過ぎる。
石段を登り、なにか社に出くわす度に「ここまで上がらせてもらい、ありがとうございました。」と手を合わせるおばちゃんたち。
そこここにある石車をいちいちまわす女の人と、それを辛抱強く待つ男の人。
おばあちゃんとお母さんに連れられた女の子が「おーかーしーがーいいー!おーかーしーがーいいー!!」と絶叫しながら降りてきた。
すれ違い、あとから降りてきた女の子3人が「私も小さいときはチョコボール食べながらだったな」と話しているのにもすれ違う。
韓国語のおばちゃんたちとすれ違い、
同じ派手なタイツをはいた完全装備の山カップルともすれ違う。
にしてもこの山にスキーのスティックは本当に必要か。
皆たのしそうだ。
山頂。599メートル。
街を見下ろすのとは反対の方向に山々が見える。重なっている。
薄い青。遠くにいくにしたがってその色が白く霞んでいく。
近くのおじさんが奥さんに「今は見えないけど、あの辺に富士山が見えるんだよな、今は見えないけど」と言っていたが、
実は富士山は見えるのだった。
重なる青い山々の一番奥、空にとけるぎりぎりのところ、うっすらとわずかに輪郭だけが空より濃かった。
見つけると、吸い寄せられるように見てしまう。
他にも山はたくさん見えるのに、富士山だけ見てしまう。
名前を知っている数少ない山だからか、ぴょこんと一つだけ突き出た山だからか、なにかもっと他の理由からなのかはわからない。
下山する。
今度はルートを変えて、少し山道らしい道を行く。
途中、後ろ向きに登るおじいちゃんとすれ違う。
「初詣のときに入るのは」とシフトの話をしている警備服たちとすれ違う。
少し行くとまわりに誰も人がいなくなった。
山道を一人で歩いている。
なにも音がしない。
自分の足音もしない。
こわいようなうれしいような気分になる。
白茶けた大きな葉がたくさん落ちているのを見て少しこわさが増す。
木の根が自由自在に飛び出してうねっている。
ふしふしふしふし。
音のない足音をさせながら山を降りていく。
吊り橋があり、3人のおばちゃんたちが2人の若い男の人たちに写真を頼んでいた。
吊り橋効果、とすぐに思った。が、思っただけだし別になにも起きない。
渡ってまた山道を行く。
歩いているときに、小さい死のことを考えた。
山に登るのは小さい死なのじゃないかと思った。
だから好きな人は何度も山に登るのじゃないかと思った。
一人で山道を歩いているときに小さく死んででもすぐ生き返るのは知っていた。
下りのケーブルカーに乗ったら耳がきーんとなって、あくびをするまで続いていた。