世の中の二乗>75の二乗

話せば長くなる話をする。知っても特にならない話をする。

噂のベーコンについて

2012年04月28日 06時49分32秒 | Weblog
嘘ではない。噂。うわさ、のベーコンです。
そりゃあもう、すごい噂ですよ。
あんなぶ厚さ見たことない、とか。
あの肉汁なら朝一でも飲み干せる、とか。
もう他のベーコンは食べられない、とか。
実は牛の肉なんじゃないか、とか。
うわさで持ちきりの。
あのベーコン。
なんてどこにも書いてないです。
猫田道子「うわさのベーコン」。
小説です(たぶん)。
おもしろいです(たぶん)。
変わってます(たぶん)。
この本に関して、何一つとして確信が持てません。
なので以下全て憶測、イメージ、それこそうわさ、としてお読みください。
まず、表紙の絵がすごくかわいい。
そしてそのくるんとひねられた腕や足が、かわいさと狂気を孕んだ内容ととてもよくあっている。
「連ドラ」というものを書くのが中学の時に私たちの間で流行ったことがあるが、
(簡単に説明すると「連結ドラえもん」略して「連ドラ」で、ドラとドラがほっぺのとこでくっついてどの目がどちらのドラのものかわからない、いわば細胞分裂途中のドラえもんのようなとても気味の悪いシロモノ)
あれに似た絵が、うわさのベーコンという短編の前に書いてある。
ので少し親近感。
が、その前にある著者近影の危うげさからくる不安はぬぐい去れない。
表紙をめくって、赤い紙をめくった直後にあらわれる著者近影はなかなかインパクトがある。
これは、coccoを最初に見たときのインパクトに似ている。
あ、目が。
と思う。
こちらを向いているのにこっちを見ていない目。
うすく開いた口。
この写真を一発目に持ってくる出版社は確信犯だな。
内容は、エイモス・チュツオーラ「やし酒飲み」から受けた印象と似ている。
そうなのだ、これはまともに文章教育を受けた人が書ける文章ではない。
絶対にまねしようと思ってもまねできない。
人がまねできないものを個性と言うのならこれも個性だろう。
アウトサイダーアートに近い。
アウトサイダー文学。
日本にもこういうのを出版してくれるとこがあるんだと思った。
書くのはだって、書いてる人は多分たくさんいるだろうけど、
それをこうやって本にしてくれるとこはなかなかないだろうから。
私はこの文章が村上春樹「1Q84」のふかえりが書いた文章のように思えて、
じゃあ、天吾がやったのは間違いだなと思った。
こういう文章を「わかりやすく読みやすくより深く」変えてはやはりいけない。
あれはやはり間違いから起こった物語なのだ。
間違ってもいいんだけどね。許されないことではある。
「うわさのベーコン」で書かれているのは、
音楽が好き、恋がしたい、身体はもろくて人生はすぐ終わる、
という少女漫画のようなことなのだが、
その当たり前さを当たり前のように読ませない魅力があり、
それはすごい魅力だ。
そしてつくづく表紙の絵と内容はピッタリだなあ。
こんなピッタリしたものを作ってもらえて猫田さんは周りの人に恵まれてよかったなあと思った。

はがすおじいちゃん

2012年04月24日 12時22分59秒 | Weblog
宮部純子誕生祭に行ってきた。
アップル社のマールのついた郵便受けのべぼハウスは
平屋建ての純和風ないい家だった。
中は輪っかになった折り紙つなげたやつとか花紙の花とかが飾り付けられていて、
誕生会の雰囲気がよく出ていた。
誕生会と言えばと、ぼーさんがから揚げを作っており、これも頷けた。
そうなのだ、この祭りは在りし日の記憶を再構築させるのが目的であるのだ。
なので、小学生の時には誰でもやった「子どもこぶ」(手首に力を入れたときにできるこぶで将来の子ども数がわかる)などで盛り上がった。
犬飼くんは知らなかったので小学校を出ていないのだと思う。
主役の宮部さんはディオールの一張羅を着て登場し、
自作の「キッカーズの歌」なるものを照れまくりながら4回も歌い、
ちゃんとお誕生日席に座って、から揚げやナスを食べていた。
なにかのタイミングでこの家にいるらしい霊の話になって、
それは、おじいちゃんらしい、と宮部さんが言って、
ずっとビデオをまわしてた犬飼くんも「やっぱり。さっきから張っている紙がちょいちょいはがれるもん」と言い出したものだから、
この霊は「ヌードクロッキーをはがすおじいちゃんの霊」となってしまった。
こわくない。
ヌードクロッキーは宮部さんがデザインの学校で書いたやつを今日のために張ったもので、いつも張ってあるわけではないとのことなので
「けしからん」というメッセージなのかもしれない。
たのしい集まりだった。
ドレスアップしたまやさんの胸元の布を「触らしてもらっていいですか」と言ったのはどの男子だったか思い出せない。
宮部さんのチーズケーキは特技の欄に書いてもいいと思う。

手書きに戻るのか

2012年04月15日 19時44分55秒 | Weblog
大人計画「ウェルカム・ニッポン」を見に行った。
人がとってくれた席だったのだけど、
めちゃくちゃいい席で、おまけに斜め前には古田新太がいた。
以降、古田新太をちらちら見ながら観劇することになる。
内容はおもしろかった。
がはがは笑った。あのいつもの声でね。
覚書。
最初、「携帯切ってね」とかの諸注意を歌で流していて、
その歌が笑いとりつつも非常に上手かったので、
「ああ、これからは下手なものは一切出てこない芝居なんだ」と覚悟が決まる。
その通りになった。
上手い。役者が役として上手いとか当たり前だから。その先だよ。
モノマネが多用されてたのだが、ほぼ完璧。
チェルフィッチュやままごとのマネもしているが、それも上手い。
完璧に真似しといて「つっまんねえ」って言ってて笑った。
あと、北朝鮮のアナウンサー、カンボジアみたいなベトナムみたいな国の言語、
ドイツ語、英語に聞こえるごまかし語、あ、他言語ばかりだ、そうか他言語のことも言ってたのだな。
宍戸さん(女優)の楳図かずおは上手いというか、ビジュアルだけ見たら同じ。
しかも最初の一斉モノマネのときに、テレビで岡本太郎役やった松尾スズキが岡本太郎のモノマネして出てきたので、なにをモノマネしてなにがオリジナルなんだかわけがわからない。
そうなのだ、これはコピー(モノマネ)とオリジナルのことも言っている。
悪ノリのノリで正直言っちゃうよ、という感じがして
そういうのは誠実で好きだ。
最後のへんで出てきた、「博士の異常な愛情」みたいなマッドサイエンティストを「オリザ」と命名してるあたりいい趣味してると思う。
そうなのだ、松尾スズキは趣味がいい。
趣味がいいというのは、するんとしっくりこさせるのが上手いというか、
しっくり行かなかった場合の人でもちゃんと聞き逃せるようなつくりをしているというか、フォローができている。
萬田久子が出てきて笑えなかった人には、ケラリーノ・サンドロヴィッチが出てきて笑わせてくれる。
そうです、これはテレビです。
大人計画はテレビでした。
出てくる人もテレビの人たちばかりだったし、
作り方もテレビの親切さとはちゃめちゃさがあったように思う。
内容はテレビじゃできないだろうけど。
私の好きなおもしろいテレビ番組を見ているようで大変おもしろかったです。
映像を多用してるのもそう思った要因の一つ。
でも、舞台で映像見せられるのって
それがすごくおもしろくても、おもしろかったけど、
なんか逃げ、つうか、せっかくだから人間見たいなと思った。
アニメも映像もテレビやネットでばかすか見れるじゃん、とか。
あれだけおもしろくて作りこんでて生身の役者とも連動してる映像でもそう思うんだから、
ちょっと簡単には足を踏み入れてはいけないなと思った。
前に福永さんが稽古場で言ってた「ああ、ここでカメラのズームができたらなあ」のひとことは
あっさり現実になってました。
そしてやはり、舞台でズームになってるの見てもあんまりナイス!ズーム!とは思わんかった。
舞台見てるこっちはちいちゃく見えたり大きく見えたりを望んでないことがわかった。
背景が動く(ように見える)とかもあんまり興味がない。
だってテレビや映画で見飽きてるもん。
でもテレビという共通項があるとここまで話が広がるんだね。
まさか、「恋人のために仲間と落とし穴を掘って死んじゃった話」が出てくるなんて思わなかった。
そして私は松尾スズキが震災よりも原発よりも戦争よりも、あのニュースに絶望を感じていたことに深く共感する。
すごいと思い、さすがと思い、尊敬した。
私は松尾スズキという劇作家は新しい言葉を生む人だなあと思っていて、
それはあの過剰に繰り出される言葉の中にたくさんぽこぽこ生まれだされているわけだけど、
同時に言われ終わったらすぐ消えてなくなるのが松尾スズキの言葉であって、
あのなかなか普通の人にはない言葉の出し方もチョイスの仕方も
名言!のようには残らずに、
浮かんでは消えて浮かんでは消えてのそればっかりで、
まるで「恋人のために仲間と落とし穴を掘って死んじゃった」人のようであり、
それを「うっすら生きてうっすら死んだ」と言っちゃうその台詞がまさにそうであり、
全部ひっくるめて、松尾スズキがそうであり、私もそうであり、
チェルフィッチュも北朝鮮のアナウンサーも、登場人物たちも
等しくそうであるぞ、という松尾スズキの永遠にぶれない主張なのだと思った。
いやあ、ぶれてませんな。
ぶれてない。
ここまでぶれてないと、小津安二郎の世界だよ。
たけしが言ってたよ、「小津は一本見りゃあ十分だ、みんな同じだもん。」
次、やってても私見に行くかな。
テレビで済ませちゃうかもな。
わかんないけど。

帰りにパンフレット買った。
しりあがり寿の似顔絵(あ、これもモノマネだ)、おもしろい。
ただ、
これ見る前にのぞいた古本屋で、
夢の遊民社「野獣降臨」のパンフ見かけて、
役者の気合いの入った顔写真といい、公演に寄せる意気込みとか、それぞれの手書き(!)プロフィールやQ&Aとかの形式が一緒で、ちょっと苦く笑う。
こういうのってほんと変わんないんだな。
あ、まさかこれも真似したのかな。
でも手書きといえば今なら五反田団の方か?
なら、最初の諸注意の歌はキャラメル・ボックスか?
ほらね、もうなにがモノマネでなにがオリジナルなんだかわからないでしょ。
そういう芝居でしたよ。
おもしろかった。
萬田久子おもしれーという感覚と、キャスティングできてしまう実力に関してはしっぽ巻いてキャンでした。

すごくびっくりしてる

2012年04月12日 06時49分52秒 | Weblog
そもそも大人計画を生で見たことない。
うそん、と思うが、
全盛期の頃には高知にいたから。
ビデオは見た。著作もたくさん持ってる。
でも生で見たことなかったし、
こっち来てからは生で見れる機会があったと思うんだけど
なんてうんだ?
知らないふりしてたようなとこもある。
もうすでに名だたる劇団になりすぎてたし。
今回の新作「ウェルカム・ニッポン」も
そんな感じでとうとう見ないままかなーと思っていた。
そしたら今週末で終わりなんだけど、
おとついくらいからむくむく見たくなりだして、
それがどーしても見ておきたいに変わっていって、
昨日は当日券の電話してみたけど取れなくて、
じゃあまた今日も明日も当日券の電話してみよう、という気持ちになっていたところへ、
ツイッターで「15日のチケット余ってます」のツイート見つけて、
ぜんぜん知らない人だったんだけど、「ください」と名乗りあげたら了承してくれて、
明日受け取る。
ふえ、こんなですか。手に入れたいものが手に入ってしまいます。
まるでとんとん拍子に話が進むことにびっくり。
そして余りチケット持ってる人が前回の甘もの会見てくれてたこともびっくり。
ワールドはワンダーだよ。


「春だから」で全てをまとめてしまいそうになる

2012年04月11日 05時15分46秒 | Weblog
花を見る。
春で花といえば桜と決まっているらしく、
ならば桜を見るために一週間前くらいからじりじり機会をうかがっていた。
福岡にいるときから密かに根回しをしていた。
桜見の会。
作っていったのと、皆が作ってきてくれたのと買ってきてくれたのとなんかたくさん食べ物があった。
飲み物はほぼ飲まない人たちだったのでぼちぼちしかなかったが足りた。
以下メニュー。
玉子焼き(私とのみゆみゆの2種)
竹輪きゅうりチーズ
鳥の味噌漬け焼き
菜の花の辛子和え
キャベツふじっ子和え
きんぴら
ゆで枝豆
いちご
オレンジ
おにぎり(ゆかり、辛子高菜)
タコさんウインナー
じゃがいもバター
牛スジの煮物
唐揚げ
パウンドケーキ(ナッツ、プレーン)
ピスタチオ
インドのベビースターラーメンみたいなの
日本のコンビニのベビースターラーメンみたいなの
10人でとうとう食べ切れなかった。
とりあえず人の量がすごくて
駅から公園にすらなかなか入れなかったのと、
みゆみゆが9時から場所取りしてくれたんだけど、
それでも桜の下でなく平面でもない斜面であったのと、
私がくる途中で野立て用の茶碗をぶち落として割ったのと、
宴もたけなわの辺でみゆみゆから変な電話かかってきて
皆さんを置き去りになぜか無印に走ったこと以外は
おおむね楽しかった。
いやまあ、トータル全部ひっくるめて楽しかった。
でもみゆみゆからの電話に関してはもうちょっとどうにかなっただろうと後から思った。
一昨年の夜桜花見は閑散としすぎてた上に雨まで降ってくるというありさまだったけど、
今年はま逆だったな。どっちも楽しかったけど。
次は不忍池の蓮見をしたい。
あれはいいぞ。見ものだぞ。
こうして書くと花見は全く内容のない行事なんだね。
集まって食って飲むだけだもんね。
ろくろく花を見るわけでなし。
そこがいいね。
食べ物がどんどん乾燥していっても「おお、春」と思えるほど陽気でした。



親不孝ストリートを歩く

2012年04月03日 21時29分43秒 | Weblog
3月31日。
早朝3時起床。
早朝と書いたがこれは断じて朝ではないと身体が訴える。
眠い、という感覚ではなくて、
起きれていない、というような感じ。意識が薄い。
薄いまま準備して家を出る。
自転車こいでも目は覚めない。軽く酔っているような霞のかかり方。
駅に着くが、始発前のためシャッターが降りている。
開くまで待つ。
始発を乗り継いで空港へ。
夜が明ける前の新宿は人がいないのにネオンがピカピカしていて
人がいるみたいに見える変な感じ。
ようやく空が明るくなってくる。
濃い紺から青へ、少し黄色がかって薄い水色へ。
色が足されるほど明るく白くなっていくまさに光の法則。
手続きして機内へ。即寝た。
目覚めるとりんごジュースとパンくれたので食べる。うまい。
福岡が近づき、着陸というときに桜が咲いているのを見つける。
短時間でずいぶん離れた場所にきたものだと思う。
9時、福岡に着く。
天神まで行って喫茶店でカフェラテ飲みながらイチゴ蛸の案練る。これは宿題だったので。
しかし苦味の強いカフェラテだったな。
きっとあれはエスプレッソに牛乳入れてるんだろうな。
サンマルクとは違う。
そろそろかなというところで福岡大学に向かう。
準備をしている先生と再会し、開始まで待つ。
13時、シンポジウム「死者のフォークロア」開始。
内容メモは別にまた記す。
終了。
先生と研究室へ。
福大の建物は大きくて市役所みたいだ。
研究室はこれまたうちの大学と全然違う大きさなのだが、
使ってる人間が一緒のせいだろう、全くの既視感。ごちゃつき煙草臭もろもろ。
シンポジウム終わって開口一番「波平先生ってすごく素敵」と言ったため、
波平先生の控え室に連れて行ってもらえることになった。
ご対面する。
「ごめんなさいね、腰が悪くってこのままで」と椅子に腰掛けられたままにこにこと迎えてくれる。
それからちょっと話した。
波平先生が兵士の生き残りの話をしたことで思い出した肥田さんのおじいちゃんの話もした。
先生と波平先生が話してるのを聞いていると、
先生の先生であるあの小松先生を波平先生はいとも簡単に「君づけ」で呼んでいて、
すごい人の前にいるもんだと改めて思った。
「動物のお医者さん」に出てくる老女史先生みたいだなあと思ったので、
東京帰ってから何巻にあるか調べた。(6巻の第61話でした)
その後、福大のすごい高いところまで行って懇親会。
当然だが先生以外全員知らん人だった。
最初の乾杯のとき、となりのおばさんが「これ飲んでみたいんですけどご一緒にどう?」と言ってノンアルコールビールを差し出してきて、
じゃあと言ってわけわけして乾杯で飲んだらえらくまずくて、
「おいしくないですね」と言ったら「やっぱり?私もそう思ったわ」と言って仲良くなった。
後から聞いたらちゃんとした研究者だった。
福大の学生さんと話す。
あんまり福岡弁が出てこないので聞いてみたら
「敬語だからですよ」と言ってた。そうか。
そうこうしてると金屏風の前に波平先生が立ってごあいさつ。
「えー、つい先日夫が間違えて鍵をかけてしまった自宅にどうしても入らなければならない事態が起こりまして、わたくし納屋の梯子を持って二階にかけてこう登っていったらですね、こう、すてんと反対側に落ちまして、まあそれで腰を圧迫骨折いたした次第でございまして」
といきなりはじめて、
先ほどの腰が痛い云々はこういう理由であったのかという驚きと、
そのお年にしてその行動かという驚きと、
なぜ金屏風の前でその話をし始めたのかという驚きと、
いろいろパンチをもらってますます波平ファンになる。
最後は「来年は研究発表をしたいと思っております」としめ、どうよこのギラギラ感。
いや、和服姿の柔和な美女でいらっしゃるのだけど。
あとは、上から下からよくわからない人たちまでその場にいる全ての人間が壇上に上がってぼそぼそ自己紹介と自分の研究のことしゃべってた。
最後はもうほんとよくわかんなかったんだけどハーモニカ吹いて終わった。
お開きになってひとりで先生の家へ。
奥さんにひっさしぶりに再会。
イチゴや明太子やスープもらいながら二人でちびちびお酒飲む。
お風呂入ってたら先生が帰ってきて、3人でまたちびちびする。
先生はずっと涅槃のかっこうでお酒飲んでたな。
2時くらいに寝る。

4月1日。
起きたら先生はもう出かけていた。ありゃ。
奥さんの握ったおにぎりもらってコーヒー飲んでお茶飲んで蔵書をぺらぺら読んだ。
昼前に一緒に家出て、バスに乗る。スイカ対応すげえ。
天神で別れて、あなピの福永さんとあやさんと会う。
ラーメンが食べたい旨を伝えると、
「15分くらい歩くけど長浜行って長浜ラーメン喰う?」というのでついて行った。
街を歩きながら久しぶりにこの辺来たという福永さんが
「この辺もだいぶ変わったな」とか、
「親富孝通りってのはほんとは親不孝者が遊びまわってた繁華街て場所で、でも字づらが悪いってんで富の字を当てたんよ」とか、
「『あんみつ姫』ってのはこの辺じゃちょっと有名なオカマのショーをやるところで」とか言うのを聞きながら歩く。
途中、「すっげえまずいのと、そこそこまずいのとどっちのラーメン店がいい?」と聞かれ、答えに窮する場面も。
結局、「そこそこまずい」方に入ったのだが、いや、なんの、おいしかった。
というか、そういう風に言う土地なんだろうな福岡って。
テーブルにどんと置いてある壺にみちみち入っている高菜が、
めちゃくちゃ辛いのだけど、すごくおいしくて、これいけるいけると言っていたら、
「持ち帰りもできるよ」とあやさんが教えてくれたので即持ち帰りを買った。
店を出て、「公園あるから花見でも」と言われるまままたついていく。
その公園というのが福岡城跡地の公園で、
なんかちょっとした公園じゃ全然なくてびっくりした。
がっつり花見客。そして屋台。よさこいとか踊ってたし。
福岡は暖かく、快晴で絶好のお花見日和。
屋台で「梅ヶ枝餅」というものを知る。御当地ものらしい。
あんこを包んだ餅を専用の鉄板ではさんで焼いたもの。
福永さんは「もっと表面がカリカリに焼けてた方が好き」と言っていたが、おいしかった餅。
せっかくなので本丸のあった石垣の一番高いとこまでいく。
実を言うとこの時点でちょっとトイレ行きたくなってて、
石垣登る前の広場に公衆トイレがあることは確認してたんだけどでも並んでるしなんか気後れしちゃってそのまま登る。
福岡を一望。下は満開の桜。桜の隙間から酔っ払いのおっちゃん顔顔。そしてできるなら早めに降りたい。
降りて広場でさっき買っておいた麩饅頭食べる。実はトイレに行きたい。
し、実はラーメン食べてあやさんとかえ玉半分こして梅ヶ枝餅食べてるからかなりお腹はくちい。
園内をぐるっと巡る。
八女茶の試飲が出来るとこがあって、そこでひたすら八女茶を入れていたお兄ちゃんの注ぎかたがこだわってますよという感じで、見てておもしろかった。
最後、搾り出すように急須を振る振る。
試飲もらう。が、実はトイレに行きたい。
うだうだ歩いて公園を出て、また暫く歩いたら天神まで戻っていた。
気がつくと結構な散歩になっていて、お腹がくちいのとトイレに行きたかったのがおさまっている。
天神からバス乗って博多駅へ。
途中、前来たときに公演をしたホールや前来たときに連れてきてもらった「かろのうろん」屋などを見つけ、当時の記憶がよみがえる。
博多駅の駅ビルのカフェでお茶する。
その前にトイレに行った。
カフェオレ頼んだらやっぱり、濃いコーヒーに牛乳入れてあって、福岡ではこうなんか?
福永さんに仮チラ見せたら「前々から頭おかしいと思ってたけどやっぱり頭おかしい」と言われる。イチゴ蛸について。
新幹線のチケットを買ってなかったので買いにみどりの窓口まで行って、そのまま直近で出る新幹線のチケット買って「え、もうすぐ出るやつじゃん」と驚かれながら福永さんとあやさんと別れる。きっとこういうとこなんだと後で思う。
あとはひたすら座って距離と時間をやり過ごしていた。
でも思ったより速かったな新幹線。
5時間はわりとすぐ過ぎ、博多ー東京はわりと近いものだと思った。
でも東京に着いたらぴゅうと寒くて、
こりゃやっぱり福岡は遠くだと思いなおした。

死者のフォークロア

2012年04月03日 18時44分50秒 | Weblog
3月31日シンポジウム「死者のフォークロア」メモ。

最初の前フリの白川琢磨先生。
今日のパネラーの一人である波平先生の著作より、
ラフカディオ・ハーンは日本人が死んだ人をまだそこにいるかのように扱うことにひどく驚いたというエピソードを紹介して、
日本では人が死ぬと、その人はその場所にしばらくいるかも、という感じを持っている。
欧米では、すぐに神の御許へ行く。
波平恵美子先生。
まず、なぜこのシンポジウムが「死のフォークロア」でなくて
「死者のフォークロア」なのかについて。
日本人は、死というものを考える時に、
自分と関係のあった死者を思い起こしながら考える。
死者と自分との関係がその人の死のイメージと深くつながっていて、
つまりそれは生きているときの関係がなければ死者はいないということになって、
死を感じないということにもつながる。
そしてこれはハーンの驚きと連動しているが、
日本人は、人と人との関係を、どちらかが死んでも同じように続ける、という傾向がある。
波平先生はそれを「死者を仮定する」という言葉で説明していたのだけど、
つまり日本では「死」というのものは出来事であって、
その出来事は起きるが、その人というものは消滅せずに、関係は継続(変化はあっても)される。
例として、日本の臓器提供者の登録数がすごく少ないことに触れ、
医学や医療の人たちは、死んだらおしまいなのだから、火葬するのはもったいないと言う。そしてなぜ提供者が増えないかがわからない。
医学や医療の世界では体はとにかく徹底的に物体であって、
物体であるものに「死者を仮定する」なんてことはしない。
しかしそこに文化人類学というもうひとつの考え方を持ってくると、
遺体というのは、残された者と死者の関係を継続させるのに必要な手順を踏むために必要なもので、
だから遺体がないと手順が踏めず、死者との関係が成り立たなくなってしまう。
小松和彦先生。
日本人にとって死者(=死)は具体的な形をとってあらわれる。
そして日本人はわりと死者に近い民族である。
例として小松先生のお母さんの話。
お母さんは毎日仏壇に念仏を唱えていた。
それが終わると亡くなった夫に向かってしゃべっていた。
内容は息子と喧嘩したとか、嫌なことがあったとか。
息子が海外旅行に行く時は「お父さんに言って行きなさい」と仏壇の前に座らせられた。
お母さんにとって仏壇と亡夫は同じであった。
さらに、その母が亡くなった後、
今度は常日頃それを見ていた孫が今度は亡祖母に向かってしゃべりだした。
孫にとって仏壇は亡祖母と同じになった。
もう一つの例。
チェコと日本の老人ホームでアンケートをとった。
「あなたの一番大切な人はだれですか?」
チェコでは大半の人が「その施設でやさしい人」と答え、
日本では「亡夫や亡妻」が圧倒的だった。
関一敏先生。
通過儀礼としての死者と生者について。
葬式や法事やその他の儀礼は
死者を死者とするための通過儀礼であるのと同時に、
残されたほうの通過儀礼でもあると指摘。

休憩。
頭ぐるぐるする。

小松先生。
慰霊というものについて気になっていると発言。
新しい言葉である。近代半ばに出てきて、戦後に広く使われるようになった。
不幸なことが起こった現場には
記念碑や鎮魂碑、宗派にこだわらず「たくさんの」慰霊碑が建てられる傾向。
日本は、記憶し続けることが慰霊になると考える社会ではないか。
つまり記憶しようしようとしている社会に思える。
対して、ミクロネシアは忘れようと努める社会。
一年前の葬式のビデオを見せようとして怒られたエピソード。
死んだ人を思い出させるものを持つのもタブー。
社会の多様性。
関先生。
近代以前は敵味方一緒に祀っていた。
靖国に触れ、国家と死について少し。
波平先生。
日本の死は政治性を帯びやすいことについて。
裁判所で遺族が遺影を持って「死者に聞かせる」ように傍聴する。
判決ややりとりが意にそぐわないと「聞かせられない」と言って遺影を風呂敷に包んだりする。
死者に託して物事を判断する社会傾向。
しかしそれはつまり、生き残った人間の政治性を死者にかぶせている。
「死者がどこかで見ている」という感じ方は、政治性を帯びやすい。
小松先生。
うしろめたさという言葉が気になっていると発言。
生き残った人間が感じるうしろめたさについて。
どこからきた言葉なのかということに触れ、
つまり(自分の)後ろに目があって、誰かに見られているのでは、ということではないか。
この「誰か」というのも、生きている世間というよりも
死者に見られているという感覚。
生き残ったものが感じる後ろめたさというのは、
死者に対してごめんなさいという気持ちなのではないか。
先ほどの慰霊にからめ、
文字通り死者を慰める意味と、生き残った人間を慰める意味。
白川先生。
うしろめたいという気持ちは「やさしい祖先」だから成り立つのではないか。
「きびしい祖先」を持つ民族は罰を与えられるのを恐れる。
恐れの亜種としてのうしろめたさという感情。
関先生。
身代わりについて。
自分ひとり助かってよかったとは思わない。
日本人は自分のために代わってくれたと思う傾向にある。
つまりそれは、誰でも誰かの身代わりでありうる社会ということ。
これは個人社会ではありえない考え方。
日本のつながり社会の一例ではないか。
波平先生。
うしろめたさについて。
ガナルカナル島、特攻隊員の生き残り兵士の話。
何かの贖罪をするかのようなストイックな戦後の生活。
「葬式なんてやってもらえる身分ではない」と常に言っていた。
そういう人たちに救済の道はなかったのか。
救済のない死は虚無であり、虚無は絶対に回避したい恐怖以外のなにものでもない。
小松先生。
近代以降の日本は救済のない社会であることについて。
宗教への異常なまでの忌避感。
関先生。
日本では還暦として60歳で老人になるが、
それ以降の老人になるための儀式がないことは問題ではないかと発言。
段階を経ていってこその上がりなのに、
段階をそれ以上踏めないことについて、
なんらかのシステムをうまく機能させていくことが望ましいのでは。

休憩。
身代わりの話の時にはこないだのわっしょいを、
兵士の話の時には肥田さんのおじいちゃんの話を思い出していた。

白川先生。
遺体に執着する日本人のエピソード。
アメリカの潜水艦にぶつかられて沈没したえひめ丸の話。
遺族は何とかして沈んだ船を引き上げてほしいとアメリカ海軍に訴えた。
しかし、アメリカ側は引き上げてももう到底助けられないと思うと回答。
遺体を見るまでは死んだと思えないと訴える遺族と、
それを理解できないアメリカ側。
両者のこのズレ。
波平先生。
遺体への執着について。
インドネシア文化圏はこだわりを持つ地域が多い。
家に遺体を置き、腐敗していく過程を見ていく地域も。
こういった地域では、身体の問題と魂の問題は同じと考えている。
つまり、遺体と霊魂が同じという考え。
だから何らかの理由で傷のついた遺体は、いつもより鎮魂の儀礼の回数を増やすこともある。
その考えに伴って、
遺影=位牌=遺骨=遺体=個人=霊魂。
関先生。
日本人はもともとスピリチュアルな民族だ。
そこに身体論を後から持ち込んだのは欧米で、
それまでは身体と霊魂は同じ扱いだった。
身体論が持ち込まれてから顕著になったのは、
たとえば老衰では死ねなくなったこと。
なにかしら病名をつけて死因にされる。
小松先生。
言葉について。
「我々学者はヨーロッパをモデルに語りすぎてきたのではないか」と発言。
だから、日本独特の心理や現状を語れないのでは?
位牌がないときは形見でもいい、というような置き換え可能の不思議。
日本人は、精神論ではなくて、身体で覚えることからはじめてきたのではないか。
まず型をつくってそこから何かをくみ出す、ということをやってきた。
白川先生。
日本人と「信仰」について。
アンケートをとると70%の日本人が「なにも信仰していない」と回答する。
しかし、神社仏閣の前では手を合わせたり、実践や行動のレベルでは「信仰」に近いことをやっている。
けれど意識としては「なにも信仰していない」と答えることと矛盾しない。
関先生。
↑のようなことを言語化できないことについて。
感受性というものを大事にしていて、
それを言語化してこなかった日本社会があり、
それは言語化しなくてもできていたからであるが、
近年言語化しなければいけなくなってきていて、
はたとどうするのか?という問題が立ち上がってきた。
波平先生。
老人と社会の話。
1960年代ごろにおいては90歳以上の年寄りは村の自慢の宝であった。
年寄りを見に人が集まり、また年寄りを見せる村人が存在した。
年寄りのいる村人は「みんなで育ててます」と言っていた。
年寄りを育てるという言葉。
特別なことをするわけでなく、毎日草むしりをするところまで連れて行ったり。
それでなにに育てるかというと、老衰で死の世界へ楽々といけるように「育てる」。
それで魂も同時に育つと言う考え方。
人格者を育てるというのではない。
それで死ぬと盛大に葬式をやるかと思いきや、ごく簡単に済ます。
なぜならいままでの「育て」で死の世界へすぐいける状態になっていると考えるから。
そういう風に年寄りを扱うと生きている者も老いが安心になる。
そういう循環ができていた。